第19話

 差し出された離婚届の証人欄は、普通の楷書と普通の印影が収まっていた。怒りに任せて筆で花押かおうでも入れそうな気がしていたのに、まともだった。

「なんだ」

「いや、普通の人みたいに書いてくれたんだなと思って」

「ちゃんと書かないと受理されないだろ」

 まあ、そうか。離婚を渋る朝晴を殺しそうだった千聡が、邪魔をする理由はない。

「ともかく、ありがとう。明日は休日開庁日だから、出してくるよ」

 一息つき、ダイニングテーブルへ裏返して置く。もう当分は見たくない名前だ。

「錫杖、役に立ったみたいだな」

 壁に立て掛けていた錫杖を一瞥して、千聡はいやなことを言う。

「出てきたら、今度からもあんな風に殺さないといけないの?」

「もう死んでる」

「分かってるけど!」

 思わず強めに言い返すと、少し頭がくらりとした。違う、責めたいわけではない。顔をさすりあげ、湧いた湯に腰を上げた。

「魂が、死んでからしばらくはこの世に留まるのは知ってるな」

 千聡も腰を上げ、錫杖を手に取る。

「ああ、うん」

「最長四十九日の間に生前の行いを精算できればあの世に行くけど、できない魂も当然ある」

「璃子の魂がそうなるってこと? 私を呪ったから? でも、呪いを璃子に返すのは無理なんだよね?」

 冷凍庫からコーヒー豆を取り出しつつ、質問を連ねる。千聡は背後で、澄んだ音を短く刻むように立てた。

「ああ、もう死んでるからな。ただ呪いに限らず術の類は、相手に届いて効果を発揮するまで繋がりが切れない」

 コーヒーペーパーをつまむ手が、止まる。要は「繋がりが切れていない」のか。でも古い術は、もう二年くらい経つのではないだろうか。まだ届かないなんて、ありうることなのか。

「まだ私に届いてないってこと?」

「そうだ。どれも暁を目指してるが、届いたのは暁自身がスイッチを入れた今回の呪詛だけだ。ほかの呪詛は全て『限りなく到着に見える未着』の状態にあった」

 大量の術を飛ばされながらも無傷だったのは、そのせいだったのか。でも一個くらい届いていれば、もっと早く裏切りに気づけて離婚できていたかもしれない。皮肉ではある。

「呪詛を掛けるのは術師でも、当然依頼人である百合原の念も乗る。念は肉体が消えても残るから、霊体から離れないんだよ。言い方を変えれば、呪いに乗せた念が杭となって百合原を上がらせないようにしてる状態だ」

 約二百本の杭が、璃子を打ちつけているわけか。

 脳裏に『ガリバー旅行記』の一場面を浮かべながら、コーヒーペーパーをドリッパーにセットする。正しいのかどうか分からないが、旅立てなくなっているのは伝わった。

「どうして、届いてないの?」

 コーヒーの封を開けると、ふわりと良い香りがする。ミルに二人分を流し込み、蓋をした。

「暁には、先代が強力な守護の術を掛けてるからな。術師に気づかせないために、返さず未着を保つよう組んだんだろう。複雑すぎて、どう組んだのか俺にも全く分からない」

 ミルのボタンを押し掛けた手が、思わず止まる。そんな話は、初耳だった。

「ちょっと、黙ってて。コーヒー豆挽くから」

 断りを入れ、改めてミルのボタンを押す。

 いつ、そんな術を掛けたのだろう。私には教えてくれなかった。言えば私が気を使うと思った……のではない。そうか。私が、逃げ出したあとで掛けたのか。「逃げ出した」から。

 気づくと同時に指先が離れ、音が止んだ。

 挽きすぎたコーヒーをドリッパーに入れ、ケトルの湯を注ぐ。泡を吐いて膨らむコーヒーが、馥郁たる香りを放つ。少しだけ、胸が和らいだ。

「ただ、今回の呪詛のせいで少しずつその術が解かれつつある。百合原が現れてるのはそのせいだ。処理は続けてるけど、とにかく数が多いし相手のある作業だからな。残り百回は可能性がある」

「まだ百回も出てくるの?」

 湯を落とす手を止め、千聡の表情を確かめる。冗談を言っているようではなかった。

「可能性だけどな。もし会ったら、容赦なく叩き潰せ。四十九日のうちに全て対処できれば、あの世に送れる」

「送れなかったら?」

「この世で怨霊化して、呪いと合わせて死ぬほど面倒くさいことになる」

 確かにそれは、この上なく面倒くさそうだ。昨日の姿だって、私には怨霊にしか見えなかった。脳裏を掠めるだけで、肌が震える。

「昨日出てきた時、赤ちゃんを探してたんだけど」

「他人をさんざん呪った母親と罪のない嬰児が、同じように上がれるわけがない。嬰児の方は、学校の時に送ってやれた。一瞬、百合原の執着が離れたからな」

 じゃあ璃子は、あれからずっと赤ちゃんを探し続けているのか。この世では、もしかしたらあの世でも、二度と抱けない我が子を。ふと胸に湧いた、なんともいえない感覚に息を吐く。許したくはないし、許せるわけがない。ではなぜ、こんなものが湧いてしまうのか。

「璃子の顔が、動物みたいになってたのは? 鼻が猪みたいだったし、目は蛇みたいだった」

「器が消えて、『本当の姿』が隠せなくなっただけだ。自分勝手な欲を叶えるために人を呪う奴に、人の心があると思うか?」

 納得できる理由ではあったが、あまりの凋落ぶりに言葉もない。脳裏で再生される璃子の笑みは、まだ輝かんばかりの美しさを保っている。あれほどの美貌があったら、いくらでも幸せな人生を歩めたはずなのに。

――先輩は、百合原にとって『ずば抜けた実力がありながらそれを認めず大会にも出ず、たった一年で退部した人』だったんです。

 そうは言っても、ど田舎高校の弱小部での話だ。「ダントツで速かった」とはいえ、コンマ数秒の差でしかない。しかも璃子は、その後クイーンの座にも就いている。

 それでも、十年経っても、晴れないほどの恨みだったのか。朝晴を奪い、二百件近い術を掛けるほどの。

 蟻地獄のように沈み込んだコーヒーを確かめ、ドリッパーを外す。マグカップを温め忘れていたが、まあいいだろう。

 コーヒーを満たしたカップを手に、ダイニングテーブルへ戻る。目の前に置いたコーヒーに、千聡は僧侶らしく手を合わせた。ここへ通い続けて早何日か、それなりに住人にも目撃されているだろう。そろそろ「どこかの部屋に霊が出るらしい」と噂が流れてもおかしくない。

 整った法衣の胸と袈裟から手元のカップへ視線を落とし、赤墨色を揺らす。

「今回の呪詛と二十五年前の呪詛、繋がりがあるんじゃないの? 先代と約束したのは分かってるけど、呪われてるのは私でしょ。自分に何が起きてるかを、知ることもできないの?」

 方向を変えたところで、楽にはならない話題だ。千聡は眉一つ動かさずカップを傾け、黙ってコーヒーを味わう。

「旨いな」

「何も聞いてないふりするのやめて」

 聞いたことにしなければ聞いたことにはならない、わけがないだろう。

「先代は、あまりに理不尽な呪詛だと言った。だから暁が知る必要はないと」

「千聡くんは、どう思ってるの?」

「まだ、答えが出ない。先代と俺には、決定的な違いがあるからな」

「何」

 カップを手に訝しげに窺うと、千聡はようやく私を見た。

「本当に、分からないのか」

 見据える視線に後ろめたさを突かれて、思わず体を引く。分からないわけではないが、それは暗黙の了解として流すべきもののはずだ。口にして形を与えてしまえば、戻れなくなってしまう。

「僧侶としての格だ。先代は円熟してたし天才型だった。俺はまだ若いし、凡百の才しかない」

 ……ああ、「そっち」か……良かった、言わなくて。自意識が盛大に爆発するところだった。

「だからこの決断が暁に必要なものだと、僧侶として言い切る自信がないんだよ。俺は、惚れてるからな」

 さらりと流れた告白に項垂れる。間違ってなかった。

「大丈夫だ。百合原の家に今回の一件をちらつかせれば、檀家会くらい丸め込んでくれる」

「急に生々しい話するのやめて」

 そして同意の上で進んでいるかのように話すのも、やめて欲しい。顔を覆い、長い息を吐く。

 子供の頃には「聞いてみたい」と思っていたことが、少しずつ恐ろしくなって、いつの間にか「聞きたくない」ことになっていた。いつまでなら、素直に喜べていただろうか。今はもう、そこから遠く離れてしまった。

「……無理だよ」

「それなら、知ろうとするな。知っても不幸になるだけだ」

 弱々しく返した拒否に、千聡は違う拒否を重ねる。おそるおそる手を下ろすと、大人しくカップを傾ける姿があった。さっきと何も変わらなくても、私にはまるで違って見える。

 分からない方が、幸せなのだろうか。大丈夫そうで良かったと思えるほど、鈍い方が。

「旨かった。ごちそうさま」

 カップを置いて手を合わせたあと、千聡は腰を上げる。私もぎこちなく席を立ち、玄関へ向かう袈裟の背を追った。

 いつものように、草履を履いて振り向いた千聡を前に目を閉じる。声も瞼に触れる指も変わりはなかったが、目を開いた時に見えた表情は寂しそうに笑んでいた。

「暁が逃げたあと、先代に『追えば遠くに逃げるだけだから、もう結ばれようと思うな』と言われた。俺の傍は、息苦しいから」

 気落ちした声で伝えられる先代の見立てに、俯く。

「この呪詛がなければ今も、もう逃げてたな」

 続いた本人の見立ても、間違っていない。何も返せない私を残して、千聡は帰って行った。


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