第18話
がしゃん、と聞き慣れない音がして跳ね起きると、ベッド脇に立て掛けていた錫杖が倒れていた。やっぱり、添い寝すべきだったか。
どくどくと打つ胸を押さえ、ベッドを下りる。錫杖を助け起こしつつ確かめた時刻は、午前二時を過ぎていた。あまり気持ちの良い時間ではないが、仕方ない。まだ落ち着かない胸に、錫杖を携えてキッチンへ向かった。
結局、千聡は私の傍に錫杖を残して帰って行った。何も言わなかったが、思うところはあったのだろう。
生あくびを噛み殺しつつ冷蔵庫を開けた時、ぞわりと身に覚えのある悪寒が肌を駆け上がった。慌てて冷蔵庫を閉め、錫杖を握り締めて気配を探る。千聡を呼びたいが、携帯は枕元に置いてきた。錫杖があるとはいえ、私は扱い方を知らない。
煌々と照らしていた照明が点滅を始め、やがて消える。ひたひたと迫る恐怖に、こめかみに汗が滲んだ。澱んだ空気に、乾いた喉へ唾を送る。
すう、とリビングのドアをすり抜けてきた白っぽいものに、息を飲んだ。
多分、璃子だろう。床に着くほどの長い黒髪が顔のほとんどを覆っているものの、血に染まった体は学校で見た時のように臓物を引きずっている。でも、今日は一つだけ違いがある。
赤ちゃんがいない。
「……どこ……どこ、なの……私、の……」
か細い声が惑うように零し、璃子が目の前を通り過ぎて行く。猫背は丸く、突き出した顔が亀のようで異様だ。赤ちゃんを探しているらしい顔が、揺れるように左右へ振られる。
「どこぉ……なのぉ……」
学校の時とはまるで違う弱々しい様子に、違う震えが肌を縮ませる。どうして、赤ちゃんがいないのだろう。まさか、あの時に消えてしまったのだろうか。
突然こちらに向けられた顔に驚き、思わず後ずさる。しゃり、と鳴らしてしまった錫杖に、璃子は凄まじい勢いで私のすぐ傍までやって来た。
「暁……あ、きぃ……いるんでしょぉ……どこぉ……」
私が見えていないらしい璃子は匂いを嗅ぐように鼻を動かす。目の前でつんと尖った形の良い鼻がぼこり、と大きく膨らみ猪のように変形した。
声を漏らしそうな口を押さえ、ひくひくと動かされる鼻先を見つめる。
「暁ぃ……かえし、てよぉ………どこなのぉ……」
何かを探すように動く手は、まるで見えていないかのようだ。髪で覆っているからだろうか。闇雲に伸びた手が触れそうになって避けた途端、錫杖は居場所を知らせるように涼やかに鳴った。
「あああきぃいいい」
響き渡る咆哮のような声と突風に、部屋が軋む。錫杖を抱き締めて耐えるが、逃げ回るのも時間の問題だ。とにかく寝室へ。
「どこ、いくのぉ」
弾かれたように上げた顔にあの鼻先が、生温い風を吹き掛ける。暗いはずなのに、獣のような鼻は隅々までよく見えた。髪の隙間に隠されていた目、も。かつての美しい切れ長とは違う、丸く黒々とした目は瞬きもしない。まるで、蛇のような。
「みぃつけたぁ」
迫る死の予感に抗い、握り締めていた錫杖を払うように振るう。無駄な抵抗に思えたのに、なぜか手応えがあった。
ああ、そうか。千聡はこれで柱に打ちつけていたのだから。
「あ、きぃぃ……かえし、てえ……よぉ」
よろけつつ訴えた璃子は、体を起こすと再び私に手を伸ばす。
「奪ったのはそっちでしょ!」
叩き落とすように錫杖でその腕を殴ると、ぎゃあ、と鈍い叫びを上げた。錫杖に伝わる鈍い感覚に、いやな汗が滲む。まるで、人を殴っているかのようだった。早く、早く寝室に。
「ああきぃいい」
璃子は更に猛った様子で咆哮を響かせ、寝室へ逃げようとした私の腕を掴む。骨が軋むような痛みに顔を歪めた。
「離してよ!」
さっきのように腕を振り払うつもりで向けた錫杖が、さっきよりもいやな感触を伝える。噴き出した血に一瞬、頭の中が真っ白になった。
けたたましい叫び声を上げた璃子の腹から、慌てて錫杖を引き抜く。逃げようとした足がもつれ、血に滑ってこけた。すぐ起きようとするものの血で滑る上に、璃子の髪の毛が絡む。掴まれた足首に短く悲鳴を上げ、掴んだ錫杖を無我夢中で繰り返し振り下ろす。
殺さなければ、殺される。殺さないと。
殺さないと。
気づいた時には足首は解放されていて、私は反応の消えた璃子の顔を錫杖で突き続けていた。あ、と慌てて錫杖から手を離した時、それを待っていたかのように散って消えていく。学校の時と同じだ。でも、一つだけ分かったことがある。
――最低限の苦しみで散らすためだ。見た目は残酷だけど、読経よりは長引かない。
千聡は、正しかった。
なんの痕跡はなくても目は潰れた顔を、手は錫杖を通して伝わる鈍い感触を覚えている。耳にはまだ鈍い音と璃子の声がこびりついて、消えていかない。最初は意味の分かる言葉を発していたのに、やがて。
がくがくと震え始めた手を固く組み、震える息を吐く。
「大丈夫、もう死んでた、死んでたんだから」
言い聞かせるように繰り返したあと、突然溢れ出した涙に顔を覆う。こんなことが、いつまで続くのか。あると信じていた今の幸せも未来の喜びも全部失ったのに、それでもまだ生きていかなければならないのか。こんなことなら、あの時私も一緒に。
久し振りに胸を占める痛みに、子供のように洟を啜る。暗い願いを振り払えず、床に転がった。
十月も半ばなのに冷たい床の上で布団も掛けずに寝た結果、熱が出た。本当はもう少し頑丈なはずだが、最近の疲れやストレスが影響しているのだろう。せめてもの救いは、今日が土曜である点だ。週末のうちに治せばいい。……治るのだろうか。
体温計に確かめた体温は、三十九度六分。近年にない高熱だ。結婚してからは熱が出ても朝晴が傍にいたから、何も心配しなくても良かった。でも今は、連絡がつかなくなって「千聡が玄関ドアを蹴破り死体を見つける未来」と「櫛田が警察手帳で管理人から鍵を借りて死体を見つける未来」が交互にちらつく。後者も事件性を疑われそうで困るが、前者はもっと困る。玄関ドアの外側は、マンションの共用部だったはずだ。
土曜は法事で忙しいだろうが、一報は入れておくべきだろう。
『ねtがでたえどしんpsいしないd』
朦朧とする頭と指先で打ったら、暗号文みたいになってしまった。まあ、伝わればいい。
送信を終えた携帯を枕元に置き、熱っぽい息を吐く。これで、死んでもドアは壊されないだろう。
しん、と静まり返った部屋の天井を、ぼんやり見上げる。これからずっと、一人か。
じわりと滲み出す心細さに何かを飼いたくなったが、犬も先に死ぬし猫も先に死ぬし……亀か。亀を飼おう。残りの人生は、亀を養うために生きよう。
少しだけ落ち着いた胸に安堵して、目を閉じる。奥に沈み込む鈍い痛みを感じつつ、眠ることにした。
目を閉じてぼんやり揺蕩っていると、どこかから読経の声が聞こえ始める。もしかしたら千聡が体調不良に効く経を、とありがたく思ったのも束の間、声は大音量で脳内に鳴り響き始める。頭を抱えて呻くが、音は内側から頭を叩き割るかのように刺激し続ける。発熱のためではない、いやな汗が噴き出して荒い息を吐く。急激に感じ始めた寒気に、がちがちと歯が鳴る。いくら体調不良に効く経でもこれは、反動がきつすぎる。やりすぎだ。
「千聡の、あほ……」
やがて力尽き小さく悪態をつく頃、読経の声が遠くなる。重い体が、吸い込まれるように眠りに落ちていくのが分かった。
夢に割り込む音は、通話の呼び出し音だった。ぼんやりとしたまま『千聡』の表示を確かめて応える。
「オートロック、開けてくれ」
「ああ、うん」
聞こえた要望に答えて体を起こす。あれ、と気づいて額に手を当てた。熱が下がって、体も楽になっている。
「熱が下がってる」
おそるおそる立ち上がってリビングへ向かうが、足元がふらつくこともない。
「寝てる時に、読経の声が聞こえたんだけど。体調不良に効くお経でも上げてくれてたの?」
「まあ、そんなとこだ」
ぼやかす答えを気にしつつ、オートロックを解除する。モノクロのモニター越しに、携帯片手の千聡が私を見上げた。一瞬黒く見えた顔にびくりと引いたが、次には元に戻っていた。千聡はすぐにモニター画面から消え、数秒して映像も消えた。
――有前先輩が、呪詛を『見逃してる』可能性はないですか。
そんなことはない、そんなはずは。清良が私を潰そうとしていることはあっても、千聡に限ってはありえない。千聡は、私の味方のはずだ。
……逃げ出したのに?
清良がいくら私を憎んでいても、呪詛の知識はなかったはずだ。純香も清良も寺の娘として接客はしていたが、教えはまるで学ぼうとしないと先代が話していた。私を殺すためだけに考えを改め呪詛を学んだ可能性も捨てきれないが、それよりは「考えを変えた千聡と共に計画を練った」方が納得できる。
――俺はもう、無力な子供じゃない。暁も日羽も守れる力がある!
最後まで姉達を殴れなかった千聡が、「本当に」彼女達から私を守ってくれるのだろうか。本当に。
胸に湧く澱みと拭えない疑惑に重い息を吐いた時、玄関のチャイムが鳴る。気持ちを切り替えるように冷えた手で顔を押さえ、玄関へ向かった。
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