第17話

 確かめた香りは三つ、一つを嗅いだら香りを忘れるまで三分ほど置いて次の香りを嗅いだ。ただ、全てを嗅がなくても、確信はしていた。

「最初に嗅いだものです」

「間違いないですか。どこで判別しました?」

「全て甘い香りでしたけど、二番目の花のような香りではなかったし、最後のは似てましたけど、甘いだけだったので違います。私が嗅いだものは甘さと一緒に苦味というか、漢方のような香りがしました。それがあるのは、一番だけでした」

 私の回答を書き留め、櫛田はテーブルの向かいでペンを置く。

「間違いないですね。先輩が嗅いだ香りは、こちらの一件にも関わる香りです」

 やはり、そうか。安堵はあったが、それだけでは済まないだろう。でも、それは別の話だ。

「これで、ご遺体は返せるんですか」

「百合原の一件に関連する可能性がでてきましたからね。表立った捜査はできないので、おそらくは」

 こちらも、捜査が「できなくなる」のか。

「捜査って、こんないい加減なものだったんですね」

「返す言葉もありませんが、警察全てがそうだとは思わないでください。必死に食い下がってる者達もいますから」

「そうですね、ごめんなさい」

 感情を抑えた櫛田の声に、やさぐれそうになった胸を整えて詫びる。確かに全てがそうなら、今私はここにいない。

 櫛田は頷き、さっきまで私の回答を書きつけていたファイルを手にする。

「『彼女』は先月九月二十二日、体調不良による欠勤をしています。ただ連休明けの二十六日に無断欠勤をして、連絡にも応えなかったそうです。これまで遅刻すらなかった状況と二十二日に休んだ理由から心配した同僚が上司の許可を取り、昼十二時過ぎに彼女のアパートを訪れました。インターフォンを何度か鳴らしても反応がなかったため、管理会社に連絡して合鍵で開けてもらったそうです」

 朝晴が訃報を提げて帰って来たのは、二十六日か二十七日だったはずだ。優れない顔色に、深くは聞かず風呂を勧めたのを覚えている。

「二人が見つけたのは、ベッドの遺体でした。詳しくは言えませんが、死後約一年経過して、一部白骨化していました。当初は彼女が誰かの死を隠蔽して逃走したと考え、警戒されないよう情報を規制しました。でも遺体の歯を調べたら、彼女のものと一致したんです。現在、DNA鑑定の結果を待っているところです」

 職場ではひとまず「逆藤が死んだ」ことにされたのかもしれない。新聞に探さなかったのは、よくある死だと思っていたからだ。ただ探していても、見つからなかったかもしれない。

「浮上したのが、誰かが彼女を拉致して『なりすましていた』可能性でした」

「それなら彼女が私を褒めた理由としては説得力がありますが、まず無理です。たとえ教育委員会に異動しようと、教員の社会は狭いですよ。彼女は私より十歳は年上でした。名前だけ借りて教職以外に就いたならともかく、この仕事を十数年続けながらバレずに働くなんて不可能です」

 私立はともかく県立なんて、誰に聞いても一緒に働いたことのある教師が一人はいる環境だ。私はあそこで一緒でした、私は向こうで一緒に、と四月の飲み会では必ずそんな話になる。あの先生はお元気ですか、確か二年前に教頭に、とここにいない教員の話で酒を飲む職場だ。

「そのとおりです。ただ、彼女の顔を確かめるために写真を職場の上司以下数名に見せたんですが、『多分こんな顔だったんじゃないかな』『この人だったと思う』と歯切れが悪いんですよ」

 櫛田の答えに、面食らう。そんなはずがない。私は未だに、あらゆる表情を思い浮かべられるほどなのに。少し粟立った肌をさすり上げて宥め、長い息を吐く。

「彼女はそんな、薄ぼんやりした造作ではなかったと思いますけど」

「そうなんです。はっきりした顔立ちで、とても迷うようなタイプではありません」

 男性的で濃い、迫力のある顔立ちだった。まるで男のように振る舞い「さばけて物分かりの良い女」を演じていたが、実際はただガサツで無神経なだけだった。進路実績が上がらないのは生徒の希望を闇雲に許可して受験させるからなのに、失敗しても「もう一年がんばればいいじゃん」で終わらせた。気に入らない若手を蹴り落とす一方で上に自分を売り込むのがうまかったから、教育委員会へ異動したのは不思議ではない。でも教師としては、最低だった。

――退職って、ほんとだったんだ。ざんねーん、また一緒に働けると思ってたのに。ま、なんか相談があったら教育委員会に来てよ。

 二年前の三月、送別会の席で逆藤は勝ち誇った顔で私に酒を注いだ。人間としても。

 不意に背中を這ういやな感触を振り切るように、頭を横に振る。こんなことを、考えてはならない。

「県庁の、防犯カメラは?」

 気を取り直して投げた問いに、櫛田は頷く。

「現在確認中ですが、まだ彼女らしき姿を見つけられていません」

「ご両親はどうだったんですか? 電話とか」

「どうもあまり仲が良くなかったようで、連絡は取り合ってなかったと。ただ毎月仕送りは送られていたそうです。公共料金や家賃の引き落としが滞った記録もありません。部屋には、つい最近まで生活していたような痕跡がありました」

「じゃあそちらの指紋とか……は当然、調べてますよね」

 調べていないわけがない。調べ尽くしても不可解さが残るから、私にまで情報を流すこの状況になっているのだ。捜査のためとはいえ、これがバレたらまずいのではないだろうか。

「実はですね、彼女の部屋には今回の一件に関わっていると思われる指紋が二つあったんです。一つは逆藤のもので、もう一つは不明です。そして職場に残されているのは、全てそちらの指紋でした。今、残されていたものをDNA鑑定に回しています」

 テレビドラマではすぐに結果が出ていたが、そう簡単ではないのだろう。まあ田舎だから、と言えそうな気もしない。東京や大阪ならともかく、こんなど田舎では縁のない事件だ。

「先程の香りは、遺体から発せられていたものなんです。ただこれはこれで、問題がありまして」

 香りに話題を移し、櫛田はファイルのページをめくる。

「先輩、麝香じゃこうってご存知ですか。香水で言う、ムスクです」

「大学で平安時代の文化を専攻してたので、名前だけは薫物たきもので見ました。ただ香水をつける習慣がないので、実際の香りはよく分かりません」

「では改めての説明になりますが、以前は薬の原料や香料に使われていたもので、ジャコウジカって鹿の分泌物です。今は乱獲の後にワシントン条約で保護される対象となったため、かなり希少な原料となりました。今のムスクはほぼ合成香料です。香りは『甘くて粉っぽい』と表現されることが多いようです」

 ファイルから上げられた視線に頷く。嗅いだことはなくても、ここで出てくるくらいだ。あの匂いが、麝香なのだろう。

「彼女はその希少で高価な麝香をおそらく一年ほど継続的に大量に、飲用あるいは接種させられていた可能性があります。全ては言えませんが、ほかにも麻黄まおう馬銭子まちんしといった、ドーピング検査したら引っ掛かる禁止物質が多く検出されました。興奮剤や筋肉増強剤の類で、なんでこんなものをと捜査員の間では大きな疑問だったんです」

 麻黄やそのほかのものは分からないが、麝香を香料として利用する場には香道がある。璃子と清良は、同じ香道教室へ通っていた。でも大量と言えるほどの麝香を準備するのは、法人でも難しい。璃子や清良ではなくても、多く輸入していたらそこから足がついているはずだ。現実的ではない。

「不可解だとお話した理由が、お分かりいただけたと思います」

「確かに、不可解ですね。本人は部屋で拘束され、この呪詛に使う薬を作る触媒として利用されていたんでしょうか。そして利用していた者が自分に術を施し、薬が完成するまで彼女の振りをして職場へ通い続けた」

 職場に逆藤の指紋が残っていないのなら、一度も出勤していない可能性もある。

「でも呪詛の存在理由からすると、なりすましはともかく殺人はどうなんでしょう。自分の手を汚したくないはずなのに、矛盾してますよね」

 昔ならともかく、今は殺せばほぼバレる時代だ。だから璃子も二百件も呪詛だの縁切りだのを依頼したのだろう。手を汚すのを厭わないなら、こんな時間の掛かる薬の完成など待たずに直接私を殺せば良かったはずだ。偶発的に「死んでしまった」のか。

「彼女と璃子の接点はないんですか?」

「今のところは、先輩とご主人だけなんです。ほかは、データを照会した限りでは何も。年齢も育った場所も通っていた学校も全て違います。彼女の携帯に百合原の連絡先はなく、百合原のパソコンにも彼女に関するものはありませんでした。それぞれのアパートの防犯カメラ映像は現在調べ中です」

 璃子は私と朝晴の関係を壊すために近づいた。その「逆藤になりすました誰か」も、呪詛だけでなく同じ目的を持って近づいたとしたらどうか。

 朝晴は自分に自信がなく、私の告白も警戒してなかなか信じなかった。罰ゲームの類ではないと信じてもらうのに骨が折れたのを覚えている。いきなり璃子が近づいても、鼻の下を伸ばすよりも不審が先に立って警戒しただろう。そのハードルを越えるには、朝晴が警戒しない方法で自信をつけさせるしかない。

――二高から異動してきた人が、君と婚約したって言ったら僕をすごく評価してくれたんだ。その影響で周りの見る目も変わって、一目置かれるようになった。

 朝晴と璃子の出会いが仕組まれたものだったとしたら、仕組んだ人間がいるはずだ。

「彼女の方は、普通に捜査できるんですよね?」

「はい。今のところは、ですが」

「捜査できるうちに、彼女と有前清良に接点がなかったか調べてください」

 これに関しては、千聡の許可を得るつもりはない。知ったところで私を殴ることも、向こうを殴ることもないだろう。

「あの人なら、これくらいしてもおかしくありませんから」

「分かりました」

 視線を伏せた私を慮るように、櫛田も控えめに返す。

「一つ、確認なんですが」

 話題を転換を図る声に視線を上げた。

「あの薬は、誰かの恨みに反応して変化するわけですよね。でも実際、どこの誰が先輩を恨んでいるかは分かりません。薬を街中に振り撒いて運良く恨みのある奴が先輩と出会うのを待つより、先輩から薬の成分が発させる方が効率がいいし自然だと思うんです」

 櫛田の意見に、ああ、と思い当たる。

「そうです。千聡くんは、私から発されてると言ってました。だから、外に出さない結界を張ったと」

 私の答えに、櫛田は頷く。「呪詛」の一言で片付けないで、ちゃんと捜査してくれているのか。予想外の対応には少し驚いたが、感謝が湧いた。

「あと、産まれたばかりの赤ちゃんには変化するフックはないのに、小包からどうして薬の臭いがしたのかと考えたんです。『なぜ薬を添付したのか』とも言えますね」

 そうだ。学校の時もだが、赤ちゃんは璃子と共に現れただけで変化しなかった。あの小包の目的は、赤ちゃんを変化させて襲わせることではなかったのだろう。

「千聡くんは、この呪詛は憎しみや恨みが私に帰着するよう仕組まれてると言いました。私が和歌の下の句を唱えただけでどう判別するんだろう、と思ってたんですが」

「下の句は呪詛のスイッチで、小包についていた臭いは『先輩をマーキングするためのもの』だったと考えて良さそうですね」

 そういうことか。でも、それなら。

「ここへ来る前にも言いましたが、私は二十五年前にも多分、同じ香りを嗅いでいます。ターゲットは違いますが、同じ方法の呪詛なのかもしれません」

 それは璃子が依頼した約二百件のどこかに潜んでいるのか、それ以外の場にあるのか。

「最初の呪詛に詳しい方は」

「玉縒の祖父母と、先代住職である千聡くんのおじいさんなら知っていたと思います。でも、皆亡くなってしまったんです。玉縒の祖父母は私がこちらへ来てすぐ、家が火事で。先代は四年前に亡くなりました」

「有前先輩は、どれくらい知ってるんでしょうか」

 それは私にも分からない。ただ、まるで知らないわけではないのは知っている。

「この前、千聡くんに聞いたんです。命を犠牲にした呪詛が相手が死ぬまで続くのなら、どうして私に掛かったものは二年で消えたのかが気になって。でも先代との約束だから言えないと、教えてくれませんでした」

「……あの、これはお怒りを覚悟で聞くんですが」

 櫛田はファイルを置き、意を決した表情で切り出す。

「有前先輩が、呪詛を『見逃してる』可能性はないですか。見逃せば手を汚さず、日羽先輩に理不尽な感情をぶつけた人間を全て始末できますし」

 変化しそうな朝晴を前に動こうとしなかった姿は、櫛田も見ている。中室が連れて行ったのは、そのせいだろうか。

「日羽先輩の傍にいる、大義名分にもなります」

 櫛田は居心地悪げに付け加えて、視線を伏せた。

 櫛田は、私達が「一緒にいた」とは言っても「付き合っていた」とは言わなかった。百合原にチョコを受け取る現場での「言うなよ」も、「私に」だと理解していたはずだ。私達がなんらかの理由で付き合えないのは、当時から察していたのだろう。

「一番傍で、一番悲しんで来た人なので葛藤はあると思います。それでも、そんなことはしません。私を救う役を呪詛に譲れるほど、心も広くないですし」

 あの千聡が、みすみす役を譲り渡すとは思えない。

「私は信じてます、が……今は、信憑性皆無ですよね」

 そういえば自分の見る目のなさを訴えて、あんな宣言をしたあとだった。

「あっ、いえ、大丈夫です! 信じます!」

 思い出して項垂れた私に、櫛田は慌てて答える。これ以上、後輩に気を使わせるわけにはいかない。

「二十五年前の呪詛との繋がりを、もう一度聞いてみます。これ以上、誰かを犠牲にするわけにはいきませんし」

「お願いします。中室さんでも、何も聞き出せる気がしないんですよね」

 苦笑と共にファイルを閉じる櫛田に、会談の終わりを察す。

「お疲れさまでした。ご協力いただけて、本当に助かりました」

 安堵の表情に、複雑なものが湧く。私は彼女を助けたかったわけではなく、ただ同じになりたくなかっただけだ。彼女と同じ人種だと、思いたくはない。あんな。

 醜いものが溢れ出す前に腰を上げ、錫杖を手にドアへ向かう。背後に迫る昏い何かを振り切るように数度、澄んだ音を鳴らした。

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