第16話
結果としては千聡の方が早かったが、何も聞いていないことにして報告を待つ。
櫛田は千聡がキーマカレーを食べ始めた頃に戻って来て、携帯を手に一息ついた。
「日羽先輩、すみませんが署まで一緒に来ていただけませんか。確かめて欲しい匂いがあるんです。詳細は言えないんですが」
概ね予想どおりの要請に頷く。
「構いません。私の嗅いだ甘い香りと、それが同じものかどうかを確かめたいんですよね?」
「そうです。ご足労お掛けしますが、お願いします」
櫛田は少し安堵したように頭を下げたが、顔色はどことなく冴えないままだ。
「櫛田、俺が出した条件は覚えてるな」
「……はい」
キーマカレーを減らしつつ尋ねた千聡に、櫛田は歯切れ悪く答えて頭を下げる。体育会系の上下関係は、卒業しても有効なのか。
「後ろ暗いことがあるなら今言え。後出しは許さんぞ」
「詳細は、捜査情報となるので今は言えません。ただ、逆藤に関することです」
再び登場した苗字に、訝しく眺めていた表情が凍る。なぜ、逆藤があの匂いに関係あるのか。まさか璃子をそそのかしたのは清良ではなく、逆藤。
「行かなくていい。この呼び出しは強制じゃない」
冷ややかに響いた千聡の声にうろたえつつ、櫛田を見る。櫛田は私に向かい、深く頭を下げた。
「日羽先輩、お願いします! この一件はあまりに分からないことが多すぎて……まだ、遺体をご遺族にお返しできてないんです」
付け加えられたとんでもない実情に、え、と短く漏れる。朝晴から訃報を聞いたのは、先月下旬だったはずだ。もう半月は経っているだろう。
璃子の遺体はろくに調べる間も与えないうちに返されたのに、まだ。きっと彼女の家は、「普通の家」なのだろう。
「情に訴えるな、それは警察が片付けるべき問題だろう。もし香りが同じなら、それを理由にして捜査に協力させるのは目に見えてる。そうなってから『こんなはずじゃなかった』とでも言うつもりか」
確かに、一致すればそうなるだろう。低姿勢で願いながらも「協力しない」選択肢を許さない。でも別に、櫛田のせいではない。それが警察だからだ。
「その責任を、櫛田さん個人に求めるのは違うでしょ。もちろん私が我慢すればいいだけとも思って欲しくないけど」
溜め息交じりに返した私にも、千聡は表情を変えずカレーを食べ続ける。聞いてないな。
「行きますが、一つだけ条件があります」
伝えた決意に、櫛田は分かりやすく安堵した表情を浮かべる。まだ条件を話していないのに、気が早い。
「香りの確認を含めて、櫛田さん以外の方との質疑応答は一切しません。櫛田さんが、私に聞けることだけを聞いてください。私のことを何も知らない人に、踏み込まれたくありませんから」
これが私にできるせめてもの抵抗かつ、保険だ。櫛田なら、私をずたぼろにはしないと信じている。
「分かりました。有前先輩も、来られますか」
「当たり前だ。お前がろくでもない質問をする度に殴る役がいるだろ」
千聡は食べ終えたスプーンを置き、手を合わせる。冗談じゃないのが分かっているから、性質が悪い。どことなく青ざめた気のする櫛田の顔色を確かめ、出掛ける準備に取り掛かった。
夜の警察署は二度目だが、一度目はまだ記憶に新しい。「向こう」も廊下の長椅子で待たされる僧侶と女に見覚えがあるのか、ここに座らされてからずっと視線が痛い。まあ仲間を喪った上に署まで壊れたのだ。二度目を警戒されるのは致し方ないだろう。
「ねえ」
「随分、櫛田を信用してるんだな」
あまりの居心地の悪さにしりとりを持ち掛けようとした口を、すぐに噤む。
「だって中室さんは言葉や姿勢は丁寧だけど、知りたいことを聞き出すまで容赦しないでしょ。櫛田さんはそこまでじゃないから」
「それならいいけど、男としては信用するなよ」
千聡は法衣の腕を組みつつ、釘を刺すように私を見た。ちょっと待て。
「まさか、離婚すら済んでないこの状況で『次』の話をしてるの?」
とんでもない話題に眉を顰める。簡単に流すと誤解されそうで、体を千聡へ向けて座り直した。
「言っておくけど、もう二度と結婚しないから」
「次はちゃんと観察して、裏切らない相手を選べばいいだけの話だろ」
まるで、今回は私が自ら裏切る相手を選んだかのような言い草だ。
確かに、思い返せば不審な行動がなかったわけではない。でもそれは今だからこそ分かることだ。璃子へ向けていたものと少し似ているかもしれない。完全に信じ切って、全く疑わなかった。「裏切られるかも」なんて、考えたことすらなかった。
「今回だって、裏切らない相手を選んだつもりだったのに裏切られたの。もう自分の見る目がカッスカスで信じられなさすぎて、世の男の人全員裏切りそうにしか見えないの。とにかく私はもう絶対、二度と結婚しないからね!」
苛立ちに任せて、渾身の決意を叩きつける。それでも千聡は相変わらずの涼しい表情を崩さないまま、視線だけを私から背後へと移した。
まさか。
いやな予感におそるおそる振り向くと、苦笑を浮かべた櫛田と中室が立っていた。その背後に控えた、事件の担当と思われる刑事まで苦笑している。
もう、帰ってもいいだろうか。
「お気持ち、お察しします。私もバツイチなので」
「すみません、私もバツイチで……」
思わず項垂れてしまった私を気遣ったバツイチ達の告白が続く。櫛田以外、バツイチだった。
「申し訳ありません、お気遣いいただいてしまって。それで、私の条件は飲んでいただけるでしょうか」
早々に話題を切り替え自ら本題を口にした私に、中室は櫛田に目配せした。
「はい、問題はありません。これから三つの匂いを嗅いでもらいますので、その中にあるかどうかを教えてください」
思ったより本格的な確認に驚くが、その方が信憑性が高まるからだろう。逆藤の遺体を返せない理由は、なんなのか。
では、と促す櫛田に腰を上げると千聡も続く。
「すみません、副住職は私共と一緒においでください。おうかがいしたいことがありますので」
呪詛に関することだろうか。千聡なら中室に凄まれても問題はないだろうが、違う不安がないわけではない。千聡は無言で中室を見据えたあと、一息つく。傍らに立て掛けていた錫杖を掴み、私へ差し出した。戸惑いつつ受け取った錫杖は、相変わらず良い音がした。お守りか。
「櫛田がろくでもない質問をしたら、それで殴れ」
違った、武器だった。
「マジでやめてください」
項垂れる櫛田には、同意しかない。櫛田と私は冗談だと……いや、冗談じゃないからこれでいいのか。溜め息をつき、千聡を見上げる。
「じゃあ、ちょっと行ってくるけど。物理も呪詛もだめだからね。分かった?」
昔のように念を押すが千聡は答えず、行きましょうか、と中室を促す。約束をしなければ破ることもないなんて、やることが子供と変わらない。
私より早く去って行く背を見送り、櫛田を見上げる。促す手に応えて、廊下を反対向きへと進んだ。
「もう気づいてると思いますけど、こっちの件も不可解なんです。百合原の事件に比べれば、まだ現実的な捜査が可能ではあるんですが」
だから、遺体を半月も引き留めているのか。
「同じ不可解な事件なのに、璃子とは随分遺体の扱いが違うんですね」
「お恥ずかしい限りです」
すまなげに答える櫛田に八つ当たりを恥じたが、胸に湧いた暗澹としたものはどうしようもない。でも悪いのは警察ではなく、権力を振りかざした百合原家だ。あの家も朝晴も自分の、保身のことしか考えていない。傷つけた私のことなど、少しも。
恨めばいい。
しゃら、と涼しい音が聞こえて、はっと顔を上げる。すぐに後ろを振り向くが誰も、何もいなかった。
「先輩?」
訝しげに尋ねる櫛田に向き直り、頭を横に振る。今の粘りつくような声は、璃子ではなかった。錫杖を握り直し、軽く鳴らす。やっぱり、お守りだったのか。
「ごめんなさい、大丈夫です」
一息ついて歩を進め、案内された一室に足を踏み入れた。
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