第15話

 捜査打ち切りまで、あと二十九日。

 まだ時間があるように感じるのは、おそらく素人だからだろう。一日ぶりの櫛田は、このあと再び署に戻って仕事を続けるのだと言った。

「事務方と二人で手分けして、百合原が縁切りだの呪いだの頼んだ相手に連絡取ってるんですけど」

 疲れ切った様子で、向かいの櫛田はキーマカレーを山盛り掬う。千聡は遅くなるらしいから、今日は二人で先駆けての夕食だ。

「依頼人が死んだって言うとみんな動揺して、自分のせいじゃないって言うんですよね。『私が施した術は返されても命を奪うようなものではありません、安全なものです』って。安全な呪いとは? って感じですよ」

 溜め息交じりに零したあと、スプーンを口に運ぶ。噛み締めるように味わう姿を見るに、口に合ったのだろう。良かった。

「それで、有前先輩に言われて術の方法と解除できるかを聞いてるんですけど、呪いはともかく縁切りってそういう概念がないんですかね。『分かりません』『切れる縁でなければ消えます』『私は師匠に教えられただけなので』ばっかりで。仕方ないから『じゃあこっちで僧侶に返してもらってもいいですね、安全なやつみたいですし』って言うと、全力で拒否するんです。交渉中にアカウント消して逃亡した人もいますしね」

「まあ、そんなものじゃないですか。『自分の術が人を殺す可能性がある』って重みを受け止められる人ばかりなら、こんなネガティブな術がネットに溢れるわけがありませんから」

 掛けた術が自分に跳ね返る可能性すら、どれほどの人が分かっているのか。縁切りや呪詛なんて、ネットでカジュアルに簡単に申し込めていいものではないはずだ。

「それで、ですね」

 鼻に抜けるスパイスの香りに慰められていると、櫛田が控えめに切り出す。

「百合原が日羽先輩を呪うほど恨んだ理由なんですけど、依頼文を確認する限りでは三つありました」

 三つ? 心当たりのない二つに、スプーンをくわえたまま櫛田を見据える。櫛田は察した様子で頷き、ラッシーのグラスを置いた。今日は軽くクミンを振って、ジーラ・ラッシーにした。不思議な味っすね、とは言ったが、減り具合を見る限り問題はないらしい。

「一つ目で依頼の根幹となっているものは今回の、ご主人との不倫に関するものです。『嫁と離婚させて欲しい』『子供ができたのに嫁がいるせいで』ってやつですね。残り二つはそれに付随する形で、言ってみれば先輩の『ひどさ』を伝えるために依頼文に入ってた内容なんですけど」

 なるほど、自分の行為を正当化するために私を悪者にしたのだろう。でも思い当たるものは一つもない。璃子は完璧で完全なる「お姫様」で、私は最初から全部負けていた。

「二つ目は、かるたです。自分の腕を鼻に掛けて散々馬鹿にした、とありました」

「……え? なんで?」

 驚きすぎて、素になってしまった。その嘘は、あまりにも雑だ。

「俺、ちょっと気になったんで、当時かるた部の顧問だった先生を探して連絡取ったんです。よく覚えてましたよ、日羽先輩のこと」

「一年で辞めたのに」

「先輩、自分の実力を分かってなかったんですか? まあ、先生も『勝負にはまるで興味のない子だった』と仰ってましたけど」

 齟齬のありそうな状況に、スプーンを置いて真面目に考える。実力、か。

「祖父母や千聡くんには、常に『速い』『上手い』って褒められてました。先生にも、言われた覚えはあります。部員には、入部当時に社交辞令程度に言われたくらい。でも、どちらにしろ一番速かったのは璃子ですよ。みんなが速い速いって、きゃーきゃー騒いでましたから」

――暁、手合わせしようよ!

 璃子とは入部した頃に一度、手合わせをした。勝ったのは覚えているが、まぐれだろう。

 輪に溶け込めず浮いた私は、その中心で褒めそやされる璃子に憧れる一方で劣等感を募らせる日々を送ったのだ。

「違います。百合原も確かに速かったそうですが先輩はダントツで、大会に出ればクイーンを狙えるほどだったと。退部があまりに惜しくて部に戻ってくるよう言い続けたけど、全く相手にされなかった、と残念がっておられました」

 思ってもみなかった反応に、ええと、と頭の中ですりあわせを行う。

 私が璃子の方が速いと思い込んだのは多分、部員達が私ではなく璃子を「速い」と褒めていたからだろう。それがあったから顧問に「飛び抜けて速い」と言われても、璃子のおこぼれだと信じきっていた。退部後にそんな話をされた覚えもある。でも、本気の勧誘だとは思わなかった。

「てっきり、ぼっちの私を心配してコミュニティに所属させようとしてるんだと思ってました。でもそんなことのために、劣等感しかないかるた部に戻る気にはなれなくて」

 十数年ぶりに判明した事実に、顔をさすり上げる。それでも正直まだ、信じられない。

「先輩は、百合原にとって『ずば抜けた実力がありながらそれを認めず大会にも出ず、たった一年で退部した人』だったんです。自分が何より欲しいものをいとも簡単に捨てたって、妬んだんでしょう」

 「そんなことで」、ではないのだろう。璃子がクイーンを目指していたのは、私も知っている。

「あの呪詛に百人一首を利用したのは、この恨みがあったからなんでしょうね」

 私なら即座に応えると、璃子は分かっていたのだ。

 ずっと、あれからずっと妬まれていたのか。卒業式の、涙で抱き締め合って別れを惜しんだ日にすら。

――暁、元気でいてね。また会おうね。

 その約束が果たされなかった理由は、社交辞令だからではなかったのだろう。脳裏に蘇る璃子の清らかな笑みが、急速にくすんでいく。

「三つ目は、なんですか」

 痛むばかりの胸を押さえ、残る一つを尋ねる。もう、一瞬でも早く終わらせたい。

「『好きな人をとられた』と」

 二つ目よりは驚かないが、頭を抱えたくなる恨みだった。ラッシーを多めに飲み、長い息を吐く。

「好きな人がいるから告白を断ってるって話は、聞いたことあったけど」

「間違いなく、有前先輩のことでしょうね。実は俺、これには心当たりがあるんですよ」

 櫛田は数回スプーンを運びカレーを平らげたあと、もしゃもしゃと口を動かす。やっぱり、見た目はラクダに似ていた。でも今は、線の細さを不安に感じることもない。

「俺が一年の、バレンタインの時です。道場に、有前先輩を呼びに来た女子がいたんです。それでつい、ほかの奴らと『見に行こうぜ』って」

「そんな、人の恋心をなんだと思ってるんですか」

 やがて切り出された過去の愚行に、思わず教師の顔で叱ってしまう。他人の告白を好奇心で覗くなど、ご法度だ。

「すみません。今はろくでもなかったって分かってます」

 ばつが悪そうに詫び、櫛田は生徒のように頭を掻いた。

「まあそれで、こっそり道場の裏に見に行ったんですよ。そしたら、百合原がチョコらしきものを渡してたんです。会話は、聞こえませんでした」

 聞こえていなくて良かった。盗み見られた上に、盗み聞きなんて。

「あとで有前先輩には俺達が見てたのがバレて、一言『言うなよ』って凄まれました。それが、死ぬほど怖くて。そんなわけで、これ俺が言ったって言わないでくださいね」

 気持ちは分からないでもないが、この状況で違う人に聞いたと言うのは無理があるのではないだろうか。

 櫛田はラッシーを飲み干し、くせになる味っすね、とグラスの中を覗き込みながら言う。そのまま少し、間を置いた。

「だから先輩を見た時、真っ先に『またか』って思ったんです。先輩は百合原のことを信じ切って一縷の疑いも持ってませんでしたけど、俺は当時から『この人結構強かだな』って思ってましたから」

 私が無条件に、馬鹿みたいに璃子を信じ気後れしていた裏で、随分と人間くさい感情のやり取りがあったらしい。もちろん私は、少しも気づかなかった。

「俺は、百合原が意図的にご主人を狙って不倫に及んだと見てます。第二庁舎にご主人がいると知って、近づいたんじゃないかと。百合原の背後には、その情報を流せる人が……あ、すみません!」

 伏し目がちにつらつらと続けていた推察が、ふと途切れる。弾かれたように顔を上げた櫛田は、明らかに慌てていた。千聡は、どう説明したのだろう。どう説明したって、取り繕えない関係だ。もう痛みすら思い出せない左腕を撫で、一息つく。

「いいんです、気にしないでください。気を使ってたら、捜査ができないでしょう」

 逆藤の時の反応を気にしていたのだろう。でも狼狽は既に、千聡の前で済ませている。予想よりは荒れない胸に安堵して、左腕を握った。

「私も、その人と璃子に繋がりがあったと聞いた時に確信しました。璃子をそそのかしたんだなって。以前から、私の苦しむ顔が見たくて仕方なかった人ですから。ここに戻って来たと知ってたら、こんな呪いさえなければ」

 ああ、だめだ。大丈夫だと思ったのに。

 震え始めた全てを押さえ込むように腕を回し、自分を抱き締めて目を閉じる。涙が溢れて伝い落ちていく。叫びたくなる衝動を抑え、荒い息を吐いた。

 苦しい。どうして私だけが、いつまでこんな目に。

 恨みが胸に湧いた途端、すぐ後ろで何かが口を開けたような気がした。少しずつ、そこに引き寄せられていくのが分かる。まるで私を誘うように、何かが服の背を引いた。

「……輩、聞こえますか、先輩! 目を開いて、俺を見てください!」

 不意に掴まれた顔に、びくりとして目を開く。瞬きをすると、じっと見据える櫛田がよく見えた。

「事件が解決して全部片付いても、それでも逃げたかったら言ってください。新しく暮らす場所を用意するくらいなら、俺にもできますから!」

 言い切った櫛田は必死な、泣きそうな顔をしていた。できない約束ではないのだろう。少なくとも、病める時も健やかなる時も愛す誓いよりは信じられる言葉だった。

「すみません、取り乱してしまって」

 詫びながら、いつの間にかソファへ移動していたことに気づく。さっきのあれは、なんだったのか。あのまま飲まれていたら、どうなっていたのだろう。

「今の、その場しのぎじゃないですよ」

 櫛田は私を解放し、少し不服げに言って隣に座った。

 その約束と表情が落ち着かせてくれたのだが、違う受け止め方をしたのかもしれない。

「ええ、伝わりましたし、嬉しかったです。でもどれだけ逃げたくても、無理なのは分かってるんです。あそこに祖父母を置いては行けません。何一つ悪いことをしていない祖父母に、生まれ育った土地を捨てろとも言えません」

「じゃあ、先輩は何か悪いことをしたっていうんですか!」

 真正面から胸を刺す言葉に、思わず苦笑する。私の周りにいる人達は皆気遣って、絶対に投げてこない直球だ。

「何もしてなくても傷つけられたり殺されたりする人がいるのは、私より知ってるでしょ」

 どうにか捻り出した答えは、ひどく手触りが悪かった。途端に落ち込んだ櫛田に、過ちを悟る。

「すみません、そうですね。馬鹿なこと言いました」

「いえ、今のは私がだめです。苦し紛れに、ずるい言い方をしました。その問いを真正面からぶつけられるのは少し苦手で、どう答えていいか分からないんです。ごめんなさい」

 ようやく見つけ出せた最適解は子供の言い訳のようだったが、仕方ない。

「でも、代わりに怒ってくれてありがとう」

 足した礼に櫛田は視線を伏せたまま、腰を上げてダイニングテーブルへ向かう。椅子に置いていた茶封筒の中から、ファイルを取り出した。

「離婚届、ご主人の欄は埋めさせました。証人の欄、一つは俺が後輩として署名してます。もう一つは、有前先輩に頼んでください」

 断りを入れたのは、刑事としては署名できないからだろうか。千聡に署名させるのはなんとなく気後れするが、仕方ない。この程度の用事では、町には戻りたくない。

「接近禁止令の申し立ては、『絶対に近づかないから』と懇願したので猶予を与えてください。保身にしか興味がないから死ぬまで鼻先でちらつかせておく方がいいと、中室さんが」

 今日の昼休憩を狙って電話をかけてきた弁護士は、こちらの条件を丸呑みする形で示談を願った。離婚届はもう、私が好きな時に出せばいいらしい。どことなくうんざりして聞こえたのは、気のせいではないだろう。

「そうですね。切り札がある方が私も安心ですし。中室さんにもよろしくお伝えください」

 一瞬カレーを夜食に持たせる案を思いついたが、やめておいた。この案件は「捜査のような捜査でないような捜査」らしいが、積極的に関われば迷惑になるかもしれない。

 深く吸い込んだ息に混じるスパイスの香りに、ふと違う香りのことを思い出す。そういえば、櫛田達には伝えていなかった。

「あの、赤ちゃんが入ってたダンボールを開けた時に、アンモニアみたいな臭いがしたってお話したの覚えてますか」

 切り出した私に櫛田は表情を引き締めて、はい、と答える。

「署に運ばれた頃には、消えていたようですね。臭いに関しての報告はありませんでした」

 さっきまで暗く鬱屈したような表情をしていたのに、さすがの切り替えの早さだ。

「その時はきつくて臭かったんですけど、ダンボールが運ばれたあと、甘い香りが残ったんです。それと同じような香りが、変化した澤田さんと変化しそうになった朝晴からしました。ここまでは、同じ呪詛なんだから当然なんでしょうけど」

 ここまで話したのだから、全て伝えておくべきだろう。

「二十五年前の事件の時にも、似たような香りを嗅いだ気がするんです。昔の記憶なので、断定はできませんが」

 不確かさを強調する保険を重ねた報告を終え、櫛田の反応を窺う。櫛田は私ではなくどこか斜め下の一点を見つめて、顎をさする。何か、思い当たることがあるのか。

「もしその匂いを嗅いだら、これって分かりますかね」

「多分、分かるとは」

 やがて投げられた問いに気弱な答えを返す。分かると思うが、絶対の自信はない。

「すみません。ちょっと確認したいことがあるので、中室さんに電話します」

 櫛田は頷き、携帯を手に廊下へ消える。ただその背を追うように、インターフォンが鳴った。モニターを確かめなくても分かる姿にオートロックを開き、千聡を迎え入れる。

 櫛田の話が終わるのと千聡が辿り着くのとどちらが早いのか、どちらが先でも救われない予感に苦笑しつつ、ダイニングテーブルの片付けに向かった。

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