第20話

 翌日の午前中、まずは予定どおり休日開庁の市役所を訪ねて離婚届を提出した。想像以上に晴れ晴れとした胸と軽やかになった身でデパ地下へ向かい、高級食材を買い漁って祖父母の元へ向かった。

 家には祖父母と共に、千聡が寺から派遣してくれた明真みょうしんと名乗る若い僧侶がいた。三人には多い食材は若者の胃を含めればちょうど良く、豪勢な昼食を四人で楽しんだ。

 昼からは、祖母は明真を連れて日常の買い物へと出掛けて行った。本当は私がついて行きたいところだが、さすがにそういうわけにはいかない。ただ祖父が言うには、彼らのおかげで安心した生活が送れる上に毎日がとても楽しいらしい。

「副住職さんには何から何までしてもらって、こんなに手厚く守ってもらって。本当に、ありがたいよ。感謝の言葉もない」

 縁側から整然と整えられた庭を眺めつつ、祖父は手を合わせる。私一人では行き届かなかった荒れ庭も、彼らがすっかりきれいにしてくれたらしい。

「ただ、日に日に先代さんに似ていかれるのが心配でな。どれほど気高く素晴らしい方でも、檀家に嫌われたらどうにもならん」

「先代は、解任されたんだよね?」

 祖父から聞いた時は、あまりのショックで眠れなかった。

「表立っては、病気で左手が動かないようになられたのが理由だった。それじゃあ十分にお勤めできんと、檀家会であっさり解任されてしまったんだ。その影響もあって、弱ってしまわれたんだろうなあ。床に臥されて、一年もしないうちに亡くなられてしまった」

 引きずり下ろせるならどんな理由でもよく、その理由ができるのをずっと待っていたのだろう。

「最期まで、暁のことを心配しておられた。呪いのこともあったしな」

 切り出すまでもなく与えられた緒に、隣を見る。

「その呪いのことや二十五年前のこと、教えてくれない? もう、知ってもいい年だと思うの」

 願う私を、祖父はじっと見据えた。窄んだ目の奥にある瞳はくすんで色褪せ、柔らかい色をしている。私を養女にした時は既に六十代後半で、負担なく子育てができるような年齢ではなかった。しかも親を殺された上に呪詛を掛けられ声が出ない、専門家でも躊躇するような子供だ。それでも、温かく迎え入れてくれた。

 私が傷つけられる度に、小学校へも出掛けてくれた。普段はポロシャツにスラックスなのにその時だけは濃い色の着物を着て真っ白な足袋を履き、山高帽を被ってタクシーで向かった。祖父は教職人生の最後を教育長で終えた、元高校教師だ。当時はまだそれなりの権力を保っていたから、小一の時に途中で担任が変わったのも、今思えばそのせいだろう。

 教師時代の思い出話を聞いて育った私が同じ道を選んだのは、自然な流れだった。

「話せることがあれば教えてやりたいが、先代さんは自分に任せればいいと言ったきり、何も仰らなかった。じいちゃんが知ったら、暁に聞かれた時に話してしまうかもしれんと思われたんだろう」

 要は、決して私には知られたくない「何か」をしたのだろう。事実は、千聡しか知らない。でも、もう予想はついている。先代は多分、私に掛かっていた呪いを二年がかりで自分に「移した」のだ。おそらくは、左手に。

 ではその呪いは今、どこにあるのか。先代がそのまま連れて亡くなったのか、それとも。

――それなら、知ろうとするな。知っても不幸になるだけだ。

 今日からはこれが、暗黙の了解になるのだろうか。明らかになってしまったものの代わりに。

「二十五年前のことも、よくは分からん。玉縒さんに頼まれたのは『日羽の娘として育てて欲しい』ということだけだった。戸惑って本当にいいのかと何度も確認したんだが、構わんと」

「なんでそんなに戸惑ったの?」

 日羽の方が生きやすいからだと思っていたが、そうではないのか。祖父は、うん、と嗄れた声で答えて小さく咳をする。皺としみにまみれた手を、痩せたあぐらの上で組んだ。いつも私をはめ込んでいた、懐かしいあぐらだ。

「暁は、玉縒本家にとっては最後の直系だ。雅美まさみくんが亡くなって、もう本家直系に連なるのは暁だけになった。日羽に入れたら、玉縒が消えてしまう。そのあと玉縒さん達も、お亡くなりになってしまったしな」

 初めて知る玉縒の話に、向けていた体を起こす。もしかしたらこの呪詛は、私達「父娘」を目的としたものではなかったのかもしれない。

 玉縒本家直系の、血を絶やそうとしているのではないのか。

 気づいた瞬間、ぞわりと慣れたくもないあの感覚が体中に走った。いやな予感がする。昼なのに、出るつもりか。

「暁、どうした。しんどいか」

 隣から掛けられた優しい声に、庭の池に紋が立つのが見えた。

「静かにして、仏間に隠れてて。私がいいって言うまで、絶対に出て来ないで」

 声を潜めて伝えた私に何かを察したらしい祖父は頷き、そろりと腰を上げる。私も庭を気にしつつ、後ろの座敷へ錫杖を取りに向かった。

「もしおばあちゃん達が帰ってきたら、隠れさせて」

 明真には力を貸して欲しい気はするが、二十一だと言っていた。若者は、守らねば。

 奥へ向かう祖父を見送り、錫杖へ手を伸ばす。不意に、がらりと玄関戸が引かれる音がした。まずいと思ったが、予想していたような咆哮は聞こえない。

 安堵しつつ錫杖を掴んで縁側へ戻り、背後の障子を閉める。この先には絶対、行かせるわけにはいかない。

 震える手で錫杖を握り直して庭へ下り、少しずつ紋を広げ続ける池へ向かう。目を凝らしても見えない姿に錫杖を振ってみると、蜃気楼が立ち上るようにして姿が露わになる。

 思わず身を引いたあと、現れたものを呆然と見つめた。

 おそらくは、璃子……璃子のはずだ。

 池に広がる長い黒髪や腹から溢れ出した臓物は、これまで見てきたものと同じだ。でも。

 人とは思えない長い手で鯉を掴み、裸で、大きく膨らんだ蛙のような口で貪っているこれが、本当に「あの」璃子なのか。

――器が消えて、「本当の姿」が隠せなくなっただけだ。自分勝手な欲を叶えるために人を呪う奴に、人の心があると思うか?

 今の璃子はもう、ただの「化け物」なのか。

「……あ、き……暁ぃ……お腹、すいた……」

 見えていたのか。

 緩んでいた手に力を込めて錫杖を握り、璃子へ向ける。覚悟ができたわけではないが、今回ばかりは別だ。死んでもこの先には行かせない。震える手で、額に滲む汗を拭う。

「あ、き……食べ、たい、あああきぃぃ」

 水しぶきを立てて響かせた咆哮が、吸い込まれるように周囲の山へと消えていく。ここは隣の家まで八百メートルはあるど田舎だ、どれだけ叫ばれようと問題ない。

 私を目掛けて突っ込んでくる璃子に、錫杖を両手で握り直す。まずは、百分の一。振り上げた錫杖を、ためらいなく振り下ろした。

 手に感じる鈍い感触と劈くような悲鳴に、思わず顔を背ける。今日は昼間だから、見たくないものが全て見えてしまう。

 再び伸びた手に一発、頭にも数発。美しい日差しは、血が飛び散るところまで鮮明に映した。

「もう、いい加減に!」

「暁……どうして?」

 突然聞こえた璃子の声に、錫杖を振り上げる手が止まる。気づくと化け物の姿はどこにもなく、代わりに怯えた様子で座り込む璃子の姿があった。美しい切れ長の目から溢れ出した涙が、なめらかな頬を伝う。

「……璃子」

「だめです!」

 背後から聞こえた強い声に驚き、瞬きをする。目の前に、血を滴らせる蛙のような口があった。もわりと立ち上る生臭さが、鼻を突く。見上げると口はどろりと血の混じる粘液を垂らしながら、笑った。

 ああ、死んだ。

 死を察した瞬間、背後から飛んできた何かが璃子の顔にめり込む。千聡の拳に、よく似ていた。

「日羽さん、早く!」

 聞こえた声に慌てて錫杖を握り直し、思い切り叩きつける。鈍い感触も悲鳴も飛び散る何かも全部無視して、璃子を殺した。

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