第9話

「百合原璃子も、似たような思考回路ですかね」

 神妙な声で話しつつ、櫛田はメモに何かを書きつけてペンを置いた。

 今頃、朝晴は百合原家で義父母と共に土下座をしているだろう。あの家が不倫と妊娠の事実を公表するとは思えないが、分からない。もし私が関わっていると知れ渡ったら、盆正月にも帰れなくなるかもしれない。それどころか、祖父母まで危ない。

「百合原の訃報は聞いた。揉めてたのか」

「いや、私と直接揉めてたわけじゃなくて」

 事実を明らかにするのは、ためらわれる。よもや朝晴をぼこぼこにする……可能性はとても高い。櫛田と中室も同じ心境なのか、空気が妙に緊迫した。

「主人が璃子と浮気して、子供ができたの。離婚か認知か迫られる状況を、お金で解決しようとしたみたいでね。璃子はそのショックで出産して、産まれた子供を殺して私に送りつけて自殺した。で、合ってますか」

 隣の表情を確かめられなくて、向かいの二人へ視線を向ける。

「前半は、こちらがご主人から聞いたものと一致します。ただ、後半はちょっと違います。わざと言わなかったんじゃないですかね」

 櫛田は中室と視線を交わしつつ、何かを確かめる。確かに、私は璃子の自殺を朝晴から聞いたわけじゃない。

「改めて、百合原璃子との関係を聞かせてもらってもいいですか」

 再びメモを手にした櫛田に頷く。

「はい。璃子も同じ町出身の同級生です。璃子の家は街の方で私は山の方だったので、小学校は別でした。中学は一つしかないので一緒で、高校も同じ一高へ進学しました。高校では、かるた部でも一年間一緒でした。櫛田さんは、璃子のことは」

「知ってました。美人で有名でしたよね。友達に、好きな奴がいましたよ」

 予想どおりの反応に頷く。璃子は美人の話題が出ればまず筆頭に挙げられる子で、輝かんばかりの美しさに溢れていた。かるた部の取材に来たテレビ局は家まで行って本気でスカウトしたらしいが、芸能界には興味がないと断ったらしい。

 当時話していた将来の夢はかるたクイーンで、いつだったか、念願叶った記事を新聞で読んだ。璃子の袴姿は慎ましくもたおやかで、白黒写真でもうっとりするほど美しかった。

「かるた部を一年で辞めたのは、百合原にひどい扱いを受けたからですか?」

 尋ねる櫛田に、頭を横に振る。璃子に蔑まれたことは、一度もない。

「いえ、璃子は私を差別しない数少ない友人の一人でした。ひどい扱いなんて、一度も」

 飲まない缶を無意味に握り締めて指先を冷やす。

「私がかるた部を一年で辞めたのは、自分が求めているものと違ってたからなんです。私は段位や大会なんて全く興味がなかったし、競技かるたを盛り上げようとか業界のために尽くそうとか、そんな志もなかった。高校に入るまではただひたすら一人でタイムアタックをしたり、変体仮名を読み解いたりしてたんです。かるた部があるからって入ってしまったのが間違いだったんでしょうね。完全に、浮いてしまって」

 高校に入るまで、私のかるたの友はCDプレーヤーだった。楽しく競い合うような同志はなく、千聡もかるたには興味がなかった。それでもたまにたどたどしく上の句を読んでくれたのには、感謝している。

「璃子は、向上心も業界に対する愛もありました。責任を負う覚悟も。私はその気高さに気後れして、逃げるように辞めたんです。自分のことしか考えられないことが惨めだったし、恥ずかしくて。劣等感に耐えられなくなってしまったんです」

「確かに部であれ何であれ、団体に所属してしまったら競技やチームへの貢献は暗黙の了解みたいなとこありますよね。俺は入るのが当たり前って考えだったから、不自由だとは思ったことなかったですけど」

 ほとんどの人は、そんな風に適応できるのだろう。ただ私も、仕事や日常生活では適応できている。教師として働く今の立場を理解しているし、貢献できることにやりがいも感じている。婚姻制度へ組み込まれて名字や生活を変えるのにも、抵抗はなかった。ただ、かるただけは無理だったのだ。

「百合原は、日羽先輩のご主人だと知りつつ近づいたと思いますか」

「分かりません。主人が言うには、急にモテるようになった時に寄って来た女性の一人だと」

 急に、と訝しげに繰り返した中室に苦笑する。朝晴は、話さなかったのだろう。

「私は桜鵬高校に勤める前、二高にいました。その時一緒に働いていた人が教育委員会へ異動して、主人の同僚になったようで。主人から私と婚約したと聞いて、すごく評価したそうなんです」

「それは、下世話ですが『トロフィーワイフ』的な?」

 控えめに尋ねた中室に、頭を横に振る。確かに私は朝晴より若いが、「それだけ」だ。

「いえ。情けない話なんですが」

 身内の恥を明かすのは情けないが、仕方ない。

「学校の中には、たまに進路実績でしか教員を評価できない人がいるんです。私は異動を挟みつつも、三年連続で三年生を持たされるほど『成績』が良くて。がんばったのは私ではなく、生徒達なんですけどね」

「じゃあ、つまり『お前あの日羽を射止めたのかよ、すげえな!』っていうやつが、進路実績で起きたと、そういう……マジでそういうやつで、いいんですか?」

 困惑しつつ確かめる櫛田に頷く。聖職の裏側に引かれたのは明らかだが、仕方ない。生徒にしてみれば、努力して合格したのは自分なのに教師の手柄になって出世に利用されているのだ。とんでもない話だろう。

「まあ、教員の能力を目に見える材料で評価しようと思ったら、生徒の偏差値だの進路先だのになるんでしょうね。ウチも狭い社会ですから、耳の痛い話ではあります」

 一方、中室の方はすんなりと納得したらしい。警察にもいろいろとあるのだろう。

「主人はその人の評価を切っ掛けに、表舞台に引っ張り出されたようでした。元々、不遇だっただけで仕事は素晴らしくできる人です。一度評価が上がれば、下がる要素はありません。性格も温厚で誠実『でした』し」

 一夜の過ちで終わっていたら、まだ現在形で語る余地はあったかもしれない。でも今となってはそんなもの、過去の栄光だ。

「璃子が私を恨む理由は、出会いの時点ではなかったはずです。でもどんどん深みにはまって、抜き差しならないほど好きになってからは……邪魔だったんでしょうね。私が死ねば、晴れて自分の家庭が築けるわけですから」

 「不倫」や「不倫相手の子を出産」は、私の知る璃子とはかけ離れたダークな印象だ。不倫にはまればどうなるかくらい、想像できないはずがない。秘密裏に関係を続けていたのも、それだけ朝晴のことが好きだったからだろう。何も知らず妻の座に座る私が、憎くてたまらなかった……のだろうか。事実を突きつけられているのに、まだピンとこない。

 あの璃子が人を恨んだり、ましてや呪ったりするなんて。

「では一旦動機の話は置いといて、現実的な状況を説明します」

 中室は咳払いをして、櫛田を促す。櫛田は頭を掻きつつメモへ戻った。

「ご主人が金を持って別れ話に向かったのが七日金曜日の午後八時過ぎ、百合原の部屋を出たのが九時半過ぎ。これはアパートの防犯カメラで裏取れました。そのあと百合原がネットで集荷依頼をしたのが同日午後十一時半頃です」

 ということは、璃子はその間に出産したのだろう。精神的なショックで陣痛が起きたのかもしれない。どんな思いで、一人で産んだのか。本来なら設備の整った場所で、守られながら産む予定だったはずだ。もうそんな希望も気力も残っていなかったのだとしたら、やりきれなくはある。

「翌日八日土曜日の午後六時過ぎに、宅配業者は百合原の部屋へ集荷に訪れています。担当者は顔見知りで、確かに百合原だったと証言がありました。明けて九日日曜日、ご主人は午前九時過ぎに百合原からのメールを受け取っています。その後、九時四十五分頃に家を出て百合原の部屋へ向かいます。そして十時頃に嬰児の死体が日羽先輩の手元に届き、ご主人が百合原の死体を見つけた、というのがこの事件の全体像なんですが」

 説明には不明な点はなかったが、どこがおかしかったのだろう。一つ、溜め息が聞こえた。

「『呪いのせい』って言われたら一瞬で終わりますが、死亡推定時刻と合わないんですよ」

 櫛田はまた数枚メモをめくった。

「検死の結果、百合原も嬰児も七日の夜から八日未明の間には死んでたと。ちなみに百合原は出産したわけではなく、腹を割いて子供を取り出していました。百合原の死因は、その傷による失血死です」

――いやな女。

 膝の上で手を重ね合わせ、震えを押さえる。胸に落ちた鈍い痛みに、浅く短い息を数度繰り返した。朝晴の浮気だって青天の霹靂だったのに、今の方がよほど動揺していた。

 私は、信じたくなかっただけなのかもしれない。脳裏にちらつくのは今も激情とは程遠い、瑞々しく清らかな笑顔だ。璃子は、いつでも優しくて。

 璃子は本当に……「本当に」私を呪って死んだのか。

「今、証拠と情報のすり合わせを行ってるんですが、死亡推定時刻が正しければ、百合原は死んだあとに集荷依頼をして宅配業者へ嬰児を渡し、ご主人にメールを送ったってことになるんです。ただ現実的には不可能だし、先輩のところに届いた小包の状態も、現場の状況や想定される百合原の精神状態と一致しません。ほかにも、自殺と断定するには不自然な点があまりに多くて」

「嬰児の入った小包、か」

 しばらく黙っていた千聡の反応に、隣を見た。

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