第8話

 改めて通された部屋は、さっきと違う場所かもしれない。壁の向こうでは慌ただしい人の気配と、鳴り響く電話のベル。まだどうしても、びくりとしてしまう。

「目を閉じてくれ」

 穏やかな声に従い目を閉じると、指先が瞼に触れた。そっと縁をなぞるように触れつつ、千聡は何かを唱える。

「ゆっくり開けてみてくれ」

 離れた熱に頷き、少しずつ瞼をもたげていく。差し込んだ強い光に慌てて閉じたあと、再びゆっくりと開く。青白い蛍光灯の下で鮮明に映る法衣と袈裟に安堵の息を吐き、視線を上げる。病院で思い浮かべたままの表情が、少し目を細めた。

「見えるな」

 数度目を瞬かせながら、ぐるりと部屋の中を見渡す。長机の向こうに座る中室と櫛田が、確かめるように身を乗り出しているのが見えた。

「うん、見えるようになった。ありがとう」

「つまり、どういうことっすか」

 口を挟んだ櫛田は、さすがに疲れた表情だ。髪は乱れ、ネクタイのないシャツの襟元は開かれている。まくりあげられた袖から伸びた腕には、できたばかりに見える長い傷があった。

「暁の目を封じていたのも、彼らを変化させたのも呪詛だ」

 再び口にされた「呪詛」を、今更疑う理由はない。今回の一件は、科学と常識で処理できないことがあまりにも多い。

「呪詛、ですか」

 繰り返した中室の背後で、ノックの音が響く。櫛田はすぐに腰を上げ、ドアへと向かった。少し開いた隙間からメモを受け取って確かめたあと、席へ戻り中室に渡す。

 中室は少し距離を取るようにしてメモを眺め、渋い顔で眉間を掻いた。

「死亡した彼らの身元が分かりました。看護師は同じ階に勤務していた加東文乃かとうあやの、警察官は澤田研吾さわだけんごです。少年課は二階下ですかね」

 確定事項として語られる死が、胸に堪える。二人の死は、どのように家族へ報告されるのだろう。正直には、言えるわけがない。

「加東さん、何歳ですか」

 感傷を収めて尋ねた私に、櫛田はメモへ視線を落とす。

「三十ですね」

 与えられた答えに隣を見ると、千聡も同じだったらしい。四角い顎をさすりつつ頷いた。

「小中学校の同級生に、同姓同名がいた。ばあさんが看護学校へ行ったと話していたから、本人だろう」

「澤田の方はどうですかね。二個上ですけど」

 課は違うが澤田も刑事なのか、中室はよく知っていそうだった。ただ名字だけならともかく、フルネームだとピンと来ない。

「その名字の知り合いは結構いましたけど」

「高校の時の先輩です。暁にしつこく言い寄ってたので、俺が裏で、力で解決しました」

 首を傾げる私の隣で、千聡はさらりと初めての事実を口にした。確かにそんな先輩がいた気はするが、なぜ千聡が知っているのか。

「私、言ってなかったよね?」

「見てれば分かる」

「ちょ、っと待ってください。有前先輩が、ですか?」

 私以上に動揺した櫛田が口を挟む。でも高校時代の千聡しか知らなければ、そうなるだろう。

「高校に入るまではけんかが多くて。私を差別したり嘲笑したりする相手を片っ端からぼこぼこにしてたんです。そのせいで『日羽の狂犬』とまで呼ばれてて」

「マジっすか。超クリーンな印象しかなかったのに」

「そんだけ一高の民度が高かったってことだろ」

 さすが、中室はすぐに分かったらしい。

「でも、十四年も前の出来事です。こんなに引きずるものでしょうか」

「あいつ、結構ねちこいとこあったからなあ」

 中室は渋い顔で口元をさする。ねちこい、か。でも別に、そこがいやで断ったわけではない。性格どころか名前も顔も知らない先輩だったからだ。突然声を掛けられても、気持ちの温度が違いすぎてついていけなかった。思い出した。

「日羽先輩、加東文乃の方はどうですか」

「恨まれる覚えはありません。避けられて、疎まれていたのは私の方ですから」

 直接的ないやがらせをされたことはなかったが、友好的に迎え入れてくれたこともなかった。その他大勢の一人として、私を蔑んでいたのだけは確かだ。

「断言できないが、心当たりはある」

 再びの発言に、全員が千聡を見据える。まさか、加東も殴ったのか。いやな予感しかしない。

「加東は町にある内科医院の一人娘で、親や親族は後を継がせたかったらしい。でも高校受験に失敗して、一高に落ちたんだ。以来、ばあさんが『日羽の孫にすら負けた』ってあらゆる場所で愚痴るようになった。この前も檀家会で愚痴ってたしな」

 予感が外れたのは良かったが、決して歓迎できない心当たりだった。

「『この前』って、高校受験なんてもう十五年も前の話じゃない」

 外で言い続けるくらいだ、家の中だって遠慮するはずがない。そんな前の、どうしようもないことで守るべき孫を傷つけ続けていたのか。

 愕然とした私に、千聡は小さく頷く。

「人の執念や執着は時の流れを遅くする。死んだ姑の仕打ちを五、六十年経っても訴え続けるばあさんなんてざらにいるし、二百年前のけんかを続けている家もある。その人達にとってはいつまで経っても、『昨日のこと』なんだよ」

「でもそれなら、恨むべきは祖母じゃないですか。なんで寄って集って日羽先輩を悪者にして、恨むんですか」

 櫛田の当然な疑問とまっとうな義憤が、胸に刺さった。

「先程、『避けられて、疎まれていた』と仰いましたね。話しにくいことだと思いますが、その理由を教えていただけますか」

 再び丁寧な口調に戻った中室が、慎重な言葉遣いで尋ねる。呪いを語るなら、避けては通れない話だ。

 視線を落とし、さっきとは違う缶を見つめる。喉の乾きを優先して選んだ微炭酸は、三口程で体を冷やしてしまった。気づけばまだ、櫛田の上着を借りたままだ。

「改めての話になりますが、私は二十五年前に東京で起きた惨殺事件の、生き残りなんです」

 高校時代に一度だけ調べた新聞の見出しには、『夫婦惨殺 エリートの凶行』とあった。数ある事件の中の、悲惨さを告げるセンセーショナルな見出しの一つだ。でも私は、見出しをなぞる指が震えた。

「私は東京で産まれて、五歳までは両親と暮らしていました。父はゼネコンに勤めていて、母は専業主婦。裕福な家庭だったと思います」

 父の実家である玉縒たまよりは、旧家で資産家だった。私達が住んでいたマンションも、おそらく所有していた不動産の一つだろう。なんでも好きなものを買ってもらえるような家ではなかったが、アルバムでは毎年のように海外旅行へ出掛けていた。

「事件の日は、父のお祝いをすると母が言っていました。あとで知った話では、大きなコンペで父の案が採用されたのだと。父はあの日、外で食事をして軽く飲んだあと、先輩を連れて帰ってきました。これまで何度か家に来たことのある、私をかわいがってくれていた人でした」

 あの日も、少し酔った赤い顔で私を抱き上げてくれた。

――暁ちゃん、大きくなったなあ。

 優しい目と手だと、信じていた。それでも。溜め息をつき、顔をさすりあげる。宥めるように背をさする千聡の手に頷いて、気持ちを整えるためにジュースを傾けた。

「いつもは七時過ぎに寝ていたんですが、その日は許されて起きていました。でもやっぱり眠くなったので、父のところへ行きました。平日は父とあまり会えない時間帯で暮らしていたので、父がいる時は父と寝る習慣だったんです。その日も、父は中座して私を寝かしつけに向かってくれました」

 優しい声で眠りに誘う母の読み聞かせも好きだったが、眠りに逆らう抑揚をつけた父の読み聞かせも好きだった。『ももたろう』はもちろん『赤ずきん』でも『シンデレラ』でも、父が読む物語はまるで冒険譚のように形を変えた。

「そのあと何があったのか、あまり覚えていなくて。覚えているのは血塗れの父に抱っこされて、玄関へ向かうところです。父は何かから逃げていて、私に『逃げろ、管理人のおじさんのところへ行け』と言ったあと、私を通路に押し出して玄関ドアの鍵を閉めました。私は言われたとおり逃げて、管理人室へ。これで両親も助かると思ったんですが、そんなわけはなくて」

 あの時は必死な父の言うことを聞けば、全てがうまくいくのだと思っていた。管理人のおじさんがゴールなのだと。でもそれは「私だけが生き残る」ゴールだった。

「両親を殺したあと、先輩は自殺していました。先輩もそのコンペに参加していて、選ばれなかった恨みで凶行に及んだようです。遺された私は母方の、日羽の祖父母に引き取られてこちらに来ました」

 あれから一度も、上京していない。中学の修学旅行は東京だったが、行かなかった。三十を過ぎたら行ってみたいと、いつか朝晴とそんな話をした。

「事件のあとから、私は話せなくなりました。事件のショックだろうとカウンセリングにも通いましたが、そうではなかったんです」

 ようやく視線を上げられた隣で、頷いた千聡が口を開く。

「先代住職は、事件は呪詛によるものだろうと話していました。ただ現場や遺体を確かめられなかったので、全貌は分からなかったようです。でもその残骸が暁の喉を封じたのは確かで、子供だった私の目にも、黒い帯のようなものが喉に巻きついているのが見えました。あれほどはっきりした呪詛を見たのは、初めてでした」

 話題を引き継いだ千聡が、呪詛について語り始める。尤も、私もずっと事件のショックで話せないのだと信じていた。両親が殺されたのも話せなかったのも呪詛のせいだと知らされたのは、解けたあとだ。

「事件のことや暁が話せないことは、瞬く間に地域を駆け巡りました。しかも巡るうちに、いろいろと尾ひれがついてしまって。暁が小学校に入る頃には、ろくでもない噂が一人歩きしている状態でした。子供は知らなくても大人が言えば知りますし、大人が疎めば真似をします」

「先代が呪詛を解いてくれたあとも、すぐにはちゃんと話せなくて。話せるようになっても、一度根付いた差別や蔑視は消えませんでした。それで、高校は逃げるために境を越えて一高へ。そのまま市内に住まいを移して、大学へ通いました。今、町へ帰るのは盆正月だけです」

 中室は聞き遂げたあと頷いて、少し間を置く。

「つらいことをお伺いしました。すみません」

 浮かべた痛ましい表情は、作ったものではないだろう。櫛田は娘がいると言っていた。父に、自分を重ねたのかもしれない。

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