第7話

 予定どおり櫛田は私を連れて署へ帰還し、人気のないどこかの部屋に案内した。もう半日くらい経っていてもおかしくない感覚なのに、まだ九時過ぎらしい。初めて入る警察署は、様々な音で溢れていた。

「なかなか帰って来ねえと思ったら」

 向かいに座っているらしい中室が、溜め息交じりに零す。

「最初はマンションへ話を聞きに行ったんです。でも留守で、管理人に聞いたら倒れて救急車で市立病院へ運ばれたって言うんで。カフェオレです、熱いから気をつけて」

 櫛田は経緯を語りつつ、私の手に熱い缶を握らせた。すっかり私の扱いに慣れたらしい。礼を言って肩の毛布を手探りで掛け直し、缶をゆっくりと傾ける。ほろ苦い温かさに癒やされて、長い息を吐いた。

「市立病院で化け物が出たって通報が回ってきた時、いやな予感がしたんだよ」

「中室さんは、事実だと信じたんですか」

 驚きつつ、缶を下ろす。櫛田より遥かにシビアな印象の中室から、肯定めいた台詞が聞けるとは思わなかった。

「長く刑事畑にいると、いろいろあるんですよ。上に言えば外されるから、報告できませんけどね」

 そういうことか。確かに幽霊を見たとか化け物がいたとか、そんな報告は受け入れられないだろう。お蔵入りになった事件には、そんなものもあったのかもしれない。

 隣に座ったらしい櫛田が、盛大な溜め息をつく。

「じゃあ俺、どう報告すればいいんですかね。あの時は必死だったから感覚が麻痺してたっぽいけど、思い出したら、ちょっと」

 どんな姿だったのか、見えなかった私には分からない。それでも、迫り来る音を思い出せば背筋が寒くなる。見てしまった衝撃はどれほどか。

「ごめんなさい、私のせいで」

「いや、いいんです。助かったんですから」

 警察官だから、だけではないだろう。あんな不可解な一件に巻き込まれて死にそうになったのだ。窮地に追い込まれれば、人の本質は露わになる。憑き物を前にしても逃げず私の命を最優先にした櫛田の善良さには、頭が下がった。

「剣上さんは、どうも私達の知らない何かをご存知のようですね。こういったことが初めてではないのでは?」

 中室はさすがの落ち着きぶりだ。もっとも私も、今更隠すつもりはない。千聡が来る前だが、話してしまっても問題はないだろう。頷き、缶をもう一度傾けたあと握り締めた。

「見た記憶はありませんが、私の両親も憑き物に殺されました。父の同僚が取り憑かれて。私も呪いの影響で口が封じられ、二年間話せませんでした」

 憑き物、と小さく繰り返した中室の声に頷く。

「そのあと母方の祖父母の養女となってこちらに。私の呪いは、菩提寺の先代住職が二年がかりで解いて」

 不意に体が縦に大きく揺れ、ぶわりと全身が総毛立つ。まさか。

「地震か」

「どうすかね。照明がおかしいし、いやな予感しかしませんけど」

 私も同意だ。粟立つ肌が落ち着かない。忘れる暇すら与えられないのか。

「呪いが、私を追ってるんだと思います」

「落ち着いて話もできねえな」

「プロが着くまで逃げるしかないっすね。少しでも早く合流できるように、回避しつつ玄関へ向かいましょう」

「俺が先導する。お前は彼女の安全を最優先に動け」

「はい。多分電気系統がやられるんで、階段で行きます」

 櫛田は答え、私から缶を引き取る。毛布に触れたあと、着てください、と毛布の代わりにスーツの上着を着せた。

 行くぞ、と掛けた中室の声に櫛田は私を抱え上げる。

「すみません、よろしくお願いします」

 二度目の体にしがみつき、合流までの無事を祈った。

 ドアを出ると、途端に人の声が騒がしく聞こえる。

「説明はあとでするから、全員じっとしてろ。変なもんが見えても騒がずに、机の下に入ってやり過ごせ。絶対に手ぇ出すなよ!」

 中室の指示に室内は静まり、空気が変わるのが分かった。有事への適応力は、さすが警察と言うべきか。再び走り出した櫛田に、しがみつき直す。

「階段、下ります」

 櫛田の声に頷き、しっかりと口を閉じておく。しかし少し下りたところで、すぐ下で電話のベルが鳴り響くのが聞こえた。ナースコールの次は、電話か。見えていれば、音以外にも存在を知らせる反応があるのかもしれない。

「なんか上がってくるぞ」

「早くないすか」

 確かに早いが、ありえないわけではない。

「理屈は分かりませんが、病院の時と同じで署内の人に取り憑いているはずです。近い階の人なのかも」

「戻るぞ、外階段から下りる」

 中室の指示に、櫛田は再び階段を上る。

「有前先輩は、あとどれくらい掛かりますか」

「多分、あと十分くらい」

 千聡の寺は、町の中でも県境に近い位置だ。市内までは四十分くらいか。夜だから車は少ないだろうが、市内に入ってからも警察署までは少し距離がある。

「こっから十分か。長えな」

「逃げ切るしかないですね」

 走って再び通路を戻る両脇で、電話のベルが鳴り響き始めた。ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。後ろに、いる。

「角を曲がれ!」

 中室の声に、櫛田は速度を上げて左へ走り込む。

「あああああきいいいいいいいい!」

 突風とともに響き渡った咆哮は、男の声だった。

「病院の時は女だったけど、今回は男ですね」

「節操がねえな」

「でも多分、私を呪っているのは璃子です。百合原璃子。私とは同じ町の出身で、中学高校の同級生で、主人の……浮気相手でした」

 信じられないが、状況的に考えて璃子しかない。我が子を殺して送りつけるほどの怒りと恨みだ。

「病院には、その辺を聞きに行ったんですよ。でもあれが百合原なら、不倫相手の妻を恨むのはお門違いじゃないですかね」

「話せば分かってくれそうか」

「無理っすよね」

 走りながら交わされる軽口のおかげで、病院の時より少しだけ気持ちが楽だ。いい関係なのだろう。

 背後から再び聞こえた咆哮に、辺りがびりびりと震える。やべえな、と中室の声が聞こえた次の瞬間、何かが折れ、ガラスの割れる音がした。

「本格的にやべえな」

 中室の舌打ちに、櫛田も速度を緩める。

「俺がドアを蹴破ったあとで塞ぐから、お前は連れて下りろ」

「だめです!」

 櫛田より早く否定して、荒い息を吐く。だめだ、そんなのは絶対にだめだ。

「私の父は、そうやって私を守って死んだんです、絶対にだめです!」

「そうですよ。お嬢さんが泣きますよ」

「余計なことを言うな、分かったよ」

 中室の答えは苦笑交じりに聞こえたが、なんだっていい。死なせるわけにはいかない。子供がいるなら余計だ。思い浮かんだ父の最期に、唇を噛む。

「ああきいい……おまえ、はああ……おれを、おおお……」

 少しずつ近づく何かが、恨み言を吐く。掠れているが、確かに男の声が何かを言っている。「俺」? 璃子ではないのか。

「開いたぞ、先に行け!」

 鈍くいやな音を立てて開いたドアをくぐり、櫛田は外へ出る。ガラスを踏み締める鈍い音がした。

 再び下り始めたのは鉄階段か、中の階段より音が響く。複数ある音に安心して、しがみつき直した。

「櫛田、止まれ! 前だ」

 中室の声に、櫛田は足を止める。

「伝って下りてきたのか」

 おそらく、外枠でも伝って先回りしたのだろう。

「当分ホルモン食えねえな」

「なんでそんなこと言うんすか、俺好きなのに!」

 そういう、見た目なのか。一瞬想像してしまったグロテスクさに、胸を押さえる。

「ああきいい……なんでええ……おれをおおお……」

 低い声で呻く声は、やっぱり「俺」だと言っていた。

「ほんとに百合原璃子ですか? 未練がましい男みたいですけど」

「『多分』だから、違うかもしれません。でも、このタイミングで璃子以外なのは」

「考察はあとだ、戻れ!」

 はい、と櫛田は再び階段を上がり始める。しかしすぐに、足を止めた。けけけけ、と耳障りな音が響く。笑っているのか。

「こいつ、遊んでんのか」

 苛立つような中室の声がする。少しずつ追い詰めてから殺す気か。病院の時とは、また違う気がする。誰だ。

「ああきいい……おいでえええ……」

 べちゃり、と何かが叩きつけられるような音が響き、振動が伝わる。後ずさる櫛田に、憑き物が近づきつつあることを察す。このままだと、全員死んでしまう。

「それの目的は、私です。千聡くんが来るまで持ち堪えますから、置いて逃げてください」

「できませんよ、有前先輩に殺されます」

「そうだな」

 不意に差し込まれた違う声に、顔を上げる。櫛田が振り向くのが分かった。

「千聡くん!」

「遅くなって悪かった、大丈夫か」

「『死んでない』という意味では大丈夫です」

 確かに死んではいないが、状況的には大丈夫ではない。あとはもう、千聡に任せるしかないだろう。

「ちさ……と……」

 なぜか、憑き物が千聡の名を呼ぶ。

「ああああ……ああありいいいまあああええええええ」

 怒号のような声が響き渡り、突風が吹き抜ける。生温く、腐ったような臭いがした。そのあとに、ふと甘い匂いが鼻を掠める。この香りは。一瞬、脳裏に昔の記憶が浮かんだ。

「俺の目には、余計猛って見えるんだけどな」

「俺の目にもそう見えます」

 中室と櫛田の見解はもっともだろう。私にも、咆哮をやめない憑き物が一層猛っているように感じる。璃子じゃないにしても、名字を呼ぶくらいだ。私達の知り合いなのは間違いない。

「理屈はともかく、暁より俺を恨んでるみたいだな」

 唸る憑き物にも動じず、千聡は冷静に答える。

「心当たりはある」

「あるんすか」

「呪いを返せば分かる。櫛田、暁を頼む」

 数珠を擦るような音がして、読経の声が響き始める。途端、臭いと突風は途絶えた。あとは病院の時と一緒だ。経に反応した憑き物の、水っぽいものを叩きつけるような音が繰り返し響く。

「おまえ、のおおおお……おまえのせいで、ええええ……」

 苦しげな声が叫びながら、激しく攻め立てるのが聞こえる。思わず耳を塞ぎたくなるが、なぜかきちんと聞かなければいけない気がした。

 私を恨んでいて、多分、璃子ではない。千聡のことも知っていて、私よりもっと恨んでいる誰か。

――何、そのしゃべり方。ちゃんと喋れよ。

 話せないのは心理的な要因で意思の疎通や知能に問題はないからと、小学校は普通の子供達と一緒に入学した。でも事件で両親が惨殺された話が「三角関係のもつれ」だの「娘は加害者の子」だの、尾ひれつきで流れていた状況だ。保守的で閉鎖的な町に、間違いであっても「罪の子」の烙印を押された私を快く受け入れる土壌はなかった。最初の担任は私を疎み、ことあるごとに「話せない人はここで見てて」「みんなにできることができないんだから」と私をクラスの輪から外した。やがて子供達もそれに倣うようになって、私の傍には千聡しかいなくなった。

 話せない、みんなと同じことができない子。

 繰り返されるうちに、私は「周りより一段低い立場の子」になっていた。

 呪いが解けて声が出るようになったのは一年生の終わり頃だったが、すぐに元通り話せたわけではなかった。舌足らずで音にならない話し方はすぐに、嘲りの的になった。口を噤んだ私を小突いて、わざとしゃべらせようとする奴もいた。最初は言葉で窘めていた千聡も、半年経つ頃には拳で制裁するようになっていた。

 中学に入る頃には、見た目や振る舞いは完全に普通の子供になっていた。でも二つの小学校が流れ込む校舎では情報のやり取りが盛んに行われていて、当然のように事件の話も回った。まともな判断力で接してくれる璃子のような生徒も増えたが、というより璃子のおかげで増えたのだが、興味本位で聞き出そうとしてくる奴もいた。千聡は相変わらず、よく殴った。

 高校は町の境を越えて一高へ進学したおかげで、付き合う層が一新されて生きるのが楽になった。頭の良さと品格はそれなりに比例するのだろう。下世話な噂話や差別が「眉を顰めるべき愚行」として存在する、初めてのコミュニティだった。千聡は多分、殴らなかったはずだ。

 質を変えた呻きに、思考を引き上げる。咆哮が、悲痛な叫びに変わっていた。

「どうなったの?」

「なんか、燃やされながら締め上げられてます」

「容赦ねえな」

 冷静に告げられる状況に、慌てた。

「千聡くん、お願い。やりすぎないで」

 取り憑かれた理屈は分からないが、本体は人間だ。子供の鉄拳制裁とはわけが違う。

 ぱん、と手を打つ音がして、読経の声が強さを増す。大丈夫だろうか。見えたところで分かるわけはないが、見えないと余計不安だ。

 不意に、耳を劈くような叫びが辺りに響き渡り、突風が突き抜ける。思わず身を縮めた私を、櫛田は守るように抱き締めた。

 音が消えると同時に風も収まり、待っていたかのように雨音が響き始める。

「終わりました」

 千聡の声に反応したのは中室だろう、鉄階段を駆け上がる音がした。不意の風が、雨の匂いとともに肉の焦げる臭いを運ぶ。本当に、燃えていたのか。突き上げる吐き気に思わずえづき、顔を背ける。火葬場とはまるで違う生々しさだった。

「日羽先輩をお願いします」

 櫛田も私を千聡へ預け、中室に続く。業界用語らしきやりとりを祈るような思いで聞きつつ、支える手に視線を上げた。

「大丈夫か」

「うん。生意気なこと言って、ごめんね」

「いや、慣れてないならそう感じるのは当然だ」

 千聡の答えに少しの引っ掛かりを感じて、手探りで法衣の袖を掴む。

「……助けてないの?」

「助けられない。人の形を変えるほどの呪詛は、脳を侵食する。彼の場合は憎悪の強さで身が燃えた。俺がここで御仏に託すか、苦しみを数分伸ばして救急車で死ぬかだけの違いだ。その数分に、俺は慈悲を感じない」

 淡々とした説明に、視線を落とす。千聡の言う「避けられない死」は、私の思うそれとは最初から違っていた。病室で家族が死を選択する場面にすら、彼は辿り着けないのだ。

「ごめん、何も知らなくて」

 何も知らないくせに、とんでもないことを願ってしまった。私のせいで、余計な苦しみを与えてしまうところだったのか。

「大丈夫だ。あとは、御仏が救い上げてくださる」

 顔を上げ、見えない姿を映す。拡がる安堵にまた俯いた。これは、どちらなのだろう。余計な苦しみを味わわずに済んだ彼への安堵か、罪悪感から解放された私の安堵か。区別のつかないものが、胸で揺れていた。

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