第6話
「あなた達はナースステーションへ入って、体を低くして隠れてください!」
櫛田は即座に反応し、看護師達に指示を出したあと走り出す。私を狙っているのなら、離れれば他人は巻き込まないはずだ。
「しっかり捕まっててください、階段下ります」
頷いて手を滑らせ、首にしがみつく。階段を駆け下りる小刻みな靴音と振動が響き始めた。
「千聡くんの連絡先、分かりますか」
「高校の時から変わってなければ、携帯に入ってます」
とはいえ、今は逃げるのが優先だ。ロビーまで下りたら、連絡してもらおう。不意に弾んだ体に、舌を噛まないよう歯を食いしばる。櫛田にしがみつき直し、あの経を胸の内で唱え始める。途端、地の底から湧き起こるような呻き声がした。
ナースコールの音が一階ずつ下りて、迫ってくるのが分かる。私を追っているのは明らかだ。
璃子が、私を殺そうとしているのか。
――日羽さんも、一緒にお弁当食べない?
中学に入ったばかりの春、初めての遠足で璃子は私に笑顔で言った。私をよく知る子が慌てて耳打ちしたが、璃子はまるで意に止めなかった。戸惑う私の傍にレジャーシートを広げて、食べようよ、と促した。とんでもなく清らかで、美しい笑みだった。
あの、璃子が。
「近づいてきましたね」
櫛田の声に、少し緩んでいた腕に力を込め直す。今は何階だろう。少しずつ迫っていたナースコールの音がすぐ後ろで聞こえて、冷や汗が噴き出した。
近い。
「電気が」
櫛田は荒い息の間に言って、足を止める。階段を下りるのを諦め、通路をどこかへと走る。非常灯は点くだろうが、それさえも消えたのか。
「今は二階で、人のいない診察棟の方へ向かってます」
渡り廊下か、声と足音が反響する。診察棟なら夜間は人がいない。入院棟をあのまま下りるよりは、いい選択だろう。
やがて櫛田はどこかの角を曲がり、私を下ろして隅へ押しやる。短く荒い息を吐きながら、繋がりますんで、と私の手に携帯を握らせた。
早く、早く出て。
無機質な呼び出し音を祈りながら聞く。ナースコールが、向こうで響くのが聞こえた。
「千聡くん、助けて!」
途切れた音に全てをすっ飛ばし、助けを求める。
「どうした」
「病院で、多分憑き物に追われてる。櫛田さんと逃げてるの。どうすれば」
櫛田は更に私を奥へ押し込み、来ます、と声を潜めた。
「俺の姿をなるべく鮮明に思い浮かべて、器を作ってくれ。そこに意識を移す」
千聡の、姿。
目を閉じて思い浮かべた姿は、高校時代のものだった。それでも、鮮明な方がいいなら構わないだろう。
ずるり、べしゃり、と水っぽい何かが這いずり近づく音が聞こえる。ゆっくりだが、確実に私達を目指している。悪寒が背を這い上がった時、えっ、と櫛田の小さく驚く声がした。成功、したのだろうか。
響き始めた読経の声に成功を悟ったが、再び咆哮のような呻き声も響き渡る。這いずる音の速度が一気に上がった。若い声で唱えられる経に、私の肌までぴりつく。
「……ゆるさない……ゆる、さない……あ、き……」
読経の間に聞こえる女の埋めき声は、確かに私の名前を呼ぶ。続いて、バケツの水をぶちまけるかのような水音が何度か響いた。
「何が起きてるの」
「有前先輩がバリアみたいなので守ってくれてますが、押されてます。なぜか学ラン姿なんですけど」
「もう少し成長させてくれ、力が巡らない!」
そう言われても、成人してからの姿なんて。
法衣に袈裟を掛けて剃髪で才槌頭で……彫りが深めで、鷲鼻の先が少し下を向いていて、一文字眉が凛々しくて、幅広二重の目尻は私と反対に少し上がっていた、はずだ。口元は固く締まっていて。
「成長しました、大丈夫だと思います」
報告の声に、場違いな安堵をする。さっきとは打って変わった太い声で朗々と唱えられる経に、水音と咆哮は一層激しくなった。人のものとは思えない声だ。ああああ、と耳を劈くような雄叫びが辺りに響き渡る。
「あき……あ、き……ああああきいいいいいいいい」
一際太い咆哮のあと呻き声は少しずつ弱まり、やがて消えた。しん、と静まり返った周囲におそるおそる体を起こす。櫛田は前で壁になってくれていたが、どうしたのだろう。
「櫛田さん?」
小さく呼ぶと、あ、と気づいたように掠れた声が答える。振り向いたのか、ようやく動く気配がした。
「日羽先輩、見えてませんよね」
確かめる声に、いやな予感が湧く。まさか。
「亡くなった。ああなってしまったらもう、元には戻れない」
亡くなった。
冷静な千聡の声が、耳の奥で響く。なぜ、こんなことになったのか。がくりと崩れた私を支え、櫛田は長い息を吐く。どんな状況なのかまるで分からないが、櫛田は一部始終を見ていたはずだ。
「俺は、人を呼んできます。二時の方向に有前先輩がいますんで」
支える手が、少し震えていた。それでも職務を果たさなくてはならないのだろう。
「何もできなくてごめんなさい。よろしくお願いします」
見えていたらと思ったが、見えていたってどうせ動揺して何もできない。人の、死体なんて。
私は、両親の死体を見ていない。遺体の損傷が激しく、骨葬だったためだ。母は「おやすみ」と言って笑顔で手を振る姿、父は私をドアの外へ押し出すあの必死な形相が最後だった。
暁、と聞こえた声に気づき、膝を少し右へ向ける。視線を上げ、見えない千聡を視界に映した。助けてもらっておいて今更だが、本当に、そこにいるのか。
「助けてくれてありがとう。ごめんね、突然呼び出して」
話すのは、高校卒業以来か。蘇る記憶に、ぎこちなく礼を言った。
「気にするな。高校生に戻った時は驚いたけど」
笑う声が懐かしくて、少し視線を伏せる。大人になった姿は毎年ほんの少し見ていただけなのに、ちゃんと覚えていた。千聡も、名乗らなくても私だとすぐに気づいた。
「目が封じられてるな」
「やっぱり、これも呪いなの?」
控えめに尋ねると、ああ、と短く肯定される。
「迎えに行くから、櫛田と一緒にいてくれ」
向こうで聞こえ始めた人の声に、千聡の気配は消えた。よく考えたら、離れた場所で実体化するなんてとんでもない技だ。まあ副住職を務めるくらいだから、「普通」ではないのだろう。
千聡の実家である
――困ったら、千聡を頼ればいい。そのかわり。
思い出された先代の約束に俯き、唇を噛む。「頼らないから大丈夫」なんて、子供の浅はかな考えだ。私が約束を守らなくても千聡が見捨てないことくらい、分かっていた。
「先輩、大丈夫すか。有前先輩は」
「帰りました。迎えに行くから櫛田さんと一緒にいてと」
それで、と話し声のする方に視線をやる。数人が、そう遠くない場所で何かを話し合っている。
「看護師は、実際にいた人でした。さっきまではすごい姿だったんですけど今は元の、人の姿に……良かったです」
櫛田は気落ちした声で零し、また私を抱え上げる。話し声は変わらず、背後にあった。
彼女は、ただ私の近くにいたから巻き込まれたのだろうか。そんな理不尽極まりない理由で、呪いが伝播し始めているのなら。
「先輩は、このまま署で保護します。行きましょう」
疲れたであろう腕で私を抱え直し、櫛田は階段を選ぶ。身も心も、もう疲労困憊のはずだ。
「守ってくださって、ありがとうございました。櫛田さんがあの時助けてくれなかったら、私は今頃病室で死んでいました」
「助けられたのは正直、運が良かっただけです。看護師のあの一言がなければ、置いて帰ってたかもしれません。今回の件は異常だと分かってたのに」
異常。気になる表現に、少し顔をもたげる。病院へ来たくらいだから、もう璃子の事は分かっているだろう。捜査の方でも、何かあったのかもしれない。
「署で、有前先輩が来てから話します」
疲れた声で答えて一息つき、櫛田は階段を下りきる。パトカーのサイレンが、遠くに響いた。
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