第5話

 一息ついて、きつく押さえていた目頭を離す。滲んだ涙を拭い、のりの利いた病衣の胸を押さえる。痛みが収まるのを待って、枕元を探り携帯を手にした。

「現在の時刻は」

「十九時五十六分です」

 私の問いに、携帯は即座に答える。これまであまり使ったことのない機能だが、これは便利だ。しばらくは世話になるだろう。手探りで病衣のポケットへ突っ込み、溜め息をつく。

 八時、か。

 本来なら真っ先に祖父母に連絡すべきところだが、全てを話すのは気が引ける。かといって離婚だけ伝えても、眠れぬ夜になってしまうだろう。共に九十過ぎの祖父母は未だ矍鑠としているが、少しのきっかけで崩れてしまう話ならあちこちにある。

――どんなことがあっても、じいちゃんばあちゃんは暁の味方だ。なんでも言えばいい。

 それでも僅か二年で離婚する上に目も見えなくなっているなんて、やっぱりちょっと言えない。

 連絡は明日の朝、ひとまず離婚のことだけ正直に話そう。それでも、二人の命が消えた離婚だ。楽な報告にはならない。

「親不孝が過ぎるなあ」

 溜め息をつき、項垂れる。この世には、自分が傷つくよりつらいことがある。自分の幸せを自分以上に祈り喜んでくれる人達を、悲しませることだ。

 やっと、安心してもらえたと思ったのに。

 掻き上げた髪は指の隙間から零れ落ちて、頬を撫でた。

 日羽は、母の実家だ。父の実家は東京にあるが、事件現場に近すぎたからかもしれない。両家話し合いの結果、私は日羽の祖父母の養女として搗杵町で暮らすことになった。

――ねえ、なんがつうまれ?

 境内で初めて会った私に、千聡はいきなり生まれ月を聞いた。戸惑いつつ手のひらで十を作ると、ぱあっと顔を輝かせた。

――じゃあ、ぼくのほうがおにいちゃんだ。

 実際には一ヶ月ほどの差だが、年の離れた姉を二人持つ末っ子長男の千聡には、重要なことだったのだろう。でもその無邪気な関心と愛情が、私をより窮地に追いやった。

 一息つき、携帯を掴む。先代が亡くなった今は、千聡を頼るしかないのだろう。

 願えば繋がるが、今はいろいろと気が引ける。こちらも明日の朝、警察署を経由しよう。

 再びベッドへ横たわり、目を閉じる。閉じても景色は何も変わらない。でも目の奥に、沈み込むような痛みが走る。検査結果は問題ないのに瞳孔が光に反応しないらしく、医師が唸っていた。明日からは専門的な検査を受けるらしいが、おそらく何も見つけられないだろう。多分、二十五年前と同じだ。あの時は、声を失った。

 人生で二度も呪いを受けるなんて、褒められたことではない。やっぱり私は、生きているだけで恨まれるのか。

「すみません、剣上さん。失礼しますね」

 突然聞こえた女性の声に、我に返る。ぼんやりしていたから、全く気づかなかった。残りの感覚で視覚をカバーするのは、まだ道が遠そうだ。

「点滴が終わりましたので、外しますね。あと、ご家族がお見えになったんですが、面会時間が過ぎてまして」

 すまなげな声に、ああ、と思い当たって苦笑した。義父母が先回りして、詫びの連絡を入れてしまったのだろう。罪悪感に耐えきれなかったのか。

「病室では無理ですが、ほかの場所なら少しだけOKなのでご案内しますね」

 看護師は手早く処置をしながら、時間外の面会を許す。本来は許されないところを、救急で運び込まれた状況に免じて見逃してくれるのだろう。

「ありがとうございます」

「いえ。じゃあ、手を掴みますね」

 予告のあと手が触れて、私を支えるように助け起こす。指示されるままスリッパを履き、声と手を頼りに先へ進んだ。

「まだ、光も感じられませんか」

「そうですね。開いても閉じても真っ暗で、変わりません」

 面会時間を終えたせいか、廊下は静まり返って気配もない。私達の足音以外には、遠くでナースコールが聞こえるくらいだ。

「先生がなんで見えないんだろうって言ってましたよ。検査の結果は問題ないのにって」

 小さく笑ったように聞こえて、声の方へと視線をやる。私の知る看護師とは、少し違うタイプなのかもしれない。腹は立たないが、驚きではあった。

「もしこのまま見えなかったら、大変ですね」

 感じ取った悪意は間違っていなかったのか、続いた言葉にも棘がある。

「そうですね、大変です」

 前回は、先代住職が二年掛かりで解いてくれた。千聡も、きっと何年掛けても解こうとしてくれるだろう。まさか、「次」があるとは思わなかった。

「余裕があるんですね、見えないのに」

 声が少し低く揺らいだような気がして、戸惑う。一瞬だが、男の声のようにも聞こえた。部屋で聞いた声に似ている。

「着きましたよ」

 ためらう私の手を強引に引き、看護師はどこかへのドアをくぐる。どこかではない、外だ。肌に触れる空気はひやりと冷たく、震えが走る。不意に、看護師の手が離れた。

「あの、すみません」

 慌てて振り向こうとした背が突き飛ばされ、よろける。耳元で、死ね、と女が笑った。

「先輩!」

 背後で声が響いたあと、勢いよく腕を後ろに引かれる。バランスを失った体に目を閉じて構えるが、痛くはなかった。

「……大丈夫すか」

 聞こえた声に、きつく瞑っていた目を開く。ただ、開いたところでやっぱり暗闇だ。触れているのはどの辺りか、掴んでいた何かを慌てて離す。

「あの、櫛田さん、ですよね?」

 念のため確かめると、え、と短い声が答えた。全てを知って来たわけではないのか。

「すみません。今日倒れた時から、目が見えなくて」

「目が?」

 はい、と頷く私の視力を確かめているのか、櫛田は少し間を置いた。

「櫛田です。ひとまず、病室に戻りましょう。腕から血が出てますし」

 櫛田は名乗ったあと私を抱え、腰を上げた。記憶にある姿は細身だったのに、私の重量にもよろけない。

「ごめんなさい、重くないですか」

「大丈夫です」

 櫛田は私を抱え直してドアをくぐり、廊下を行く。ナースコールの音が、どこかで立て続けに響いた。

「つらい気持ちはお察しします。俺で良ければ聞きますんで、こんなことはもうしないでください」

 少し硬く、神妙な声の願いに気づく。ああ、そうか。櫛田の助けがなければ、あのまま突き落とされていたのだろう。ただ、確実に誤解されている。

「違うんです。さっきは、飛び降りようとしたんじゃなくて」

「剣上さん」

 訂正を始めた私を呼ぶ声がして、びくりとする。さっきの声と、よく似ていた。近づく足音に怯え、思わず櫛田にしがみつく。

「良かった、点滴を外しに行ったらいらっしゃらなくて。大丈夫ですか」

 今度は本当に、本物の看護師なのか。私を運んでいるのは本当に、櫛田の腕なのか。そもそも、なぜ櫛田がここにいるのか。どこへ連れて行こうとしているのか。

――余裕があるんですね、見えないのに。

 思い出された悪意の台詞に、肌が粟立つ。そうだ。見えないのに、何も信じられないのに。今になって理解できた真意に息が荒れ、汗が噴き出す。

 姿が見えないだけで、事実が映らないだけで、こんなにも恐ろしい。

「先輩、大丈夫すか」

 様子の違う私に気づいたのだろう。櫛田はしがみつく私を抱え直し、耳打ちするように小さく尋ねる。今は、信用するしかない。

「お願いです、病室に帰さないで」

 震える声で願うと、黙った。

「大丈夫、少し気持ちが昂ぶってらっしゃるだけですよ。眠れないのなら、お薬お持ちしますね。ひとまず、病室に戻りましょう」

 さあ、と促す看護師に、足を止めていた櫛田は続く。

「あの、すごく具合が悪そうなんですが、大丈夫なんですか」

「頭を打ったあとなので、今は安静にしていないといけないんです。ただ、見えないものが見えたり暴れたりする患者さんは珍しくないんですよ。剣上さんは、まだ全ての検査を済ませたわけじゃありませんしね」

 ドアを引く音がして、身を縮める。頼めば、一晩くらいなら泊まってくれるだろうか。一人では、とても。

 黙ったままの私をベッドへ下ろし、櫛田は怯える私の背をさする。言葉を選びかねているのか、さっきから口を開かない。

「大丈夫、ゆっくり休めば落ち着きますよ。面会時間も過ぎてますし、あとはお任せください。捜査のお話は、また明日にでも」

 途切れそうな救いに、見えない目で櫛田を見上げる。助けて、とか細く情けない声が漏れた。

 不意に腕を掴まれ、再び抱え上げられる。

「すみません、剣上さんは一旦こちらで保護します」

「そう仰られましても、困ります」

 丁寧な口調が戸惑ったように返す。本当に、さっきの「何か」とは違うのか。今更迷い始めた私とは逆に、櫛田は、では、と短く告げて向きを変える。静まり返った背後に、なんとなくいやな予感がした。

 廊下へ出た櫛田は、足早に外を目指す。

「俺はさっき、ナースステーションに『弟』だと話して部屋を聞きました。警察とは、一言も言ってないんです」

 じゃあなぜ、さっきの看護師は警察だと知っていたのか。

「ちょっと、あなた!」

 響いた声は、ナースステーションからだろう。櫛田も急ぐ足を止めて私を抱え直し、何かを探った。警察手帳か。

「すみません、警察です。剣上さんは一旦こちらで預かります」

「そんな、急に……え、何?」

 ナースコールが一つ響いた次の瞬間、一気に鳴り響く。不調と言うにはあまりに不穏で、異常だった。ぞわりと総毛立つ肌が、異様さを感じ取る。

「櫛田さん、逃げて! 狙いは私です」

 後ろから迫る、悍ましい圧があった。

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