第4話
シューズクロークの中で倒れていた私を見つけたのは、朝晴と義父母だったらしい。
「明日も、当番で出る先生はいるでしょ。しばらく療養するって連絡しておくから」
右側から聞こえる朝晴の声に、顔をそちらへ向ける。パイプ椅子か、ぎしりと軋む音がした。薬品臭さは嗅ぎ取れるし、肌の感覚でベッドに横たわっているのも点滴をしているのも分かる。ここが病室なのは、頭で理解している。でも目を見開いても、見えるのは暗がりだけだ。一筋の光も見えない。
救急車で運び込まれてひとまずの検査を受けた結果、頭を打って神経にダメージが出ているのだろう、と医師は判断した。
「ありがとう。でも後期の引き継ぎがあるから、自分でするよ」
うちの後期は、この連休明けから始まる。私の受け持ちは普通科の一年、三年生よりは気が楽だが申し訳なさはもちろんある。女子の多い賑やかなクラスだ。あの子達が、心配しないわけがない。
脳裏に浮かぶ生徒達の顔に一息ついて胸を切り替え、再び右側へ視線を上げた。
「それより、詳しい話を聞きたいの」
切り出した私に、朝晴は少し間を置く。多分、膝を繰り返しさすっているのだろう。布を擦るような乾いた音がした。
「ちゃんと検査して、症状が落ち着いてからの方がいいんじゃないか」
「ううん。落ち着いてから逆戻りするより、最初にどん底に落ちとく方がいいから」
回復の最中に心を折られるより、底から這い上がる方がいい。もう既に、一度経験している。二度目も同じようにできるかどうかは、分からないが。
「お義父さん達も来たってことは、家族ぐるみで私を騙してたの?」
「違う、そうじゃない。僕が父さん達を巻き込んだ。悪いのは、僕なんだ」
朝晴はすぐに否定したあと、長い溜め息をついた。
朝晴の名前でうちへ送りつけられた赤ちゃんの死体、朝晴がまるで見つけに行ったかのような死体、シューズクロークで私を襲った女性の声を出す何か。
――いやな女。
非現実的な要素は目立つものの、多分、間違いないだろう。
「君と結婚する前……婚約したあとから、付き合っている人がいた。うちに届いた赤ちゃんは、『多分』だけど……僕と彼女の子供、だと思う」
予想どおりの告白だったが、堪えないわけがない。まさか、結婚前から。
浮かび上がる記憶が、脳裏で次々に黒く塗り潰されて朽ちていく。入籍の時も、一緒に暮らし始めた日も、二回目を迎えたばかりの結婚記念日も、「私だけ」だった日は一度もなかった。全て、偽物だ。
胸に沈み込む痛みを長い息で逃し、震える手でゆっくりと拳を作る。
「産むのは反対した。でも彼女が一人で育てるし認知しなくていいって言うから、許したんだ。職場では事実婚で通ってたみたいだし。でも最近になって、やっぱり離婚して欲しい、無理なら認知して欲しいって言い出して。もう臨月だったから間に合わなくて……それで、父さん達に相談した」
離婚と認知を求めた彼女を、「約束が違う」とでも詰ったのだろうか。妊娠は一人でできないことを棚に上げて。
「父さん達は認知や離婚ができない代わりにって、彼女に渡すお金を用意してくれた。金曜の夜はそれを渡して、別れ話をして帰った。もう二度と会わないつもりだった。でも日曜の朝に『子供と一緒に死にます』ってメールが来て、不安になって行ってしまったんだ」
私には、死ぬまで隠し通すつもりだったのか。何も知らない顔で、これまでどおり「夫のふり」を。
吐けるものなら吐きたいし泣けるものなら泣きたいのに、まるで凍りついたように体が機能しない。怒りは感じるのに何も起きないなんて、壊れてしまったのだろうか。どうせ壊れるならこんな中途半端じゃなく、砕け散ればいいのに。
暁、と気遣う疎ましい声に、儚くも美しい現実逃避から引き戻される。
まあ、無理だと知っている。この程度で砕け散るなら、とっくに私は粉々だ。こんなことでは、今更。踏みにじられるのも、今更だ。
感傷に浸りきれなかった胸を整え、冷え切った頭へ主導権を戻す。
彼女は出産した我が子を殺し土曜日に宅配便で送り、日曜日の朝に朝晴へメールを出したあと自殺した、か。
もしかしたら、最初は本当に一人で育てるつもりだったのかもしれない。でもお腹の中で赤ちゃんが育つにつれ、父親の存在を諦められなくなったのだろう。うちに子供がいないことくらい、知っていたはずだ。
「あなたは彼女と子供を隠すより、私に『子供ができたから離婚してくれ』って土下座で頼み込むべきだったんじゃないの?」
「離婚したくなかったんだ」
馬鹿じゃないの、と反射的に出そうになった言葉を飲む。いや、飲まなくても良かったか。まあいい、もう……このまま夫婦でいるのは無理だ。愛想が尽きるとは、こういうことを言うのだろう。
「その浅はかな考えが、二人死なせたって分かってる? 地獄に落ちればいいのに」
見えないから確かめられないが、少しくらい感情を伝える表情ができたのだろう。朝晴は黙った。
そのまましばらくしても布をさする音と溜め息しか聞こえてこない状況に、呆れた息を吐く。自分から進めることも、終わらせることもできないのか。
「私が物足りなくて浮気したの? もっと、いい感じだったら良かった?」
「違うんだ、そうじゃない」
雑に投げた問いを否定して、朝晴は苦しげな息を吐く。言葉を探しているのだろう、頭を掻く音が聞こえた。決して口の達者な方ではない。でも誠実だと、今朝までは信じていた。
「二高から異動してきた人が、君と婚約したって言ったら僕をすごく評価してくれたんだ。その影響で周りの見る目も変わって、一目置かれるようになった。人生で初めて味わう感覚に浮かれて、舞い上がったんだ」
同僚か先輩か、どちらにしろろくな奴ではない。私の影響で朝晴の評価が上がったのなら「日羽と婚約? あいつ進路実績すごかったぜ、お前あいつに気に入られたのかよ、すげえな」的な、ゴミのようなやり取りがあったはずだ。
「周りの反応が変わったら……急に、モテるようになったんだ。これまで僕に興味を持ってくれる女性なんて、君だけだったのに。それで、つい」
言い淀む声に、思わず溜め息が漏れた。
七年前、教育係として学年主任に紹介された朝晴の第一印象は、正直あまり良くなかった。見た目は地味で野暮ったかったし、過剰に私を気遣う言動はどこか怯えたようで、卑屈でもあった。気を使われすぎて余計気疲れする悪循環に、運の悪さを恨みながら帰路に就いたこともある。でもその嘆きは、長く続かなかった。
朝晴は面倒くさい生徒や裏作業を押しつけられても、態度を変えない教師だった。どんな案件でも腐ることなく丁寧に取り組み、誠実に向き合った。職員室で軽んじられていても、生徒や保護者の間で一定の信頼を得ていたのはそのせいだろう。言葉より雄弁に、その姿勢は私に多くのことを教えてくれた。
朝晴が教育委員会へ異動したのは三年前、私が二高へ異動した翌年だった。職員室には、さぞ激震が走ったことだろう。教育委員会は教職員の出世に欠かせない異動先だが、本人の希望だけでいけるような場所ではない。おそらく保護者の中に対応を感謝した「お偉いさん」がいて、校長に推薦か何かしたのだろう。割と、そういうことが幅を利かせる異動だ。
それはさておき、朝晴の傍で働くうちに私の中にあった嘆きは尊敬へ、尊敬は恋心へと変化を遂げた。いつしか周囲に疎まれがちな性格は弱点ではなく、朝晴を形作る大切な要素だと思えるようになっていたのだ。まるで、自分だけの宝石を見つけたかのような気分だった。
――この子は不器用で、子供の頃から損な役回りが多くて。でも、本当に優しくていい子なの。いつかきっと分かってくれる人がいるって信じてた。
初めて会った義母は、感極まった声を震わせた。
義母の言うとおり、長らく朝晴の魅力を知っていたのは親と親族くらいだったのだろう。それが、切っ掛けはどうであれ、私との婚約で周りの人達も目を向け、気づくようになった。これまでずっと裏方に徹していた人が、急に表舞台に引っ張り出されてちやほやされるようになったのだ。慣れない状況にのぼせ上がって冷静さを失い、足下を掬われてしまったのだろう。と、理解はできるが、そこまでだ。
「亡くなった彼女も教員なの? 誰?」
今更、夫婦の約束なんかどうでもいい。あっさり破棄した私に、朝晴はまた間を置いた。
「教員じゃない。県庁職員で、同じ第二庁舎の会計局にいた人だよ。……
控えめに告げられた名前に、思わず体を起こした。見えない目で、右側を見据える。
「『百合原璃子』?」
「そう、だけど……知ってるの?」
繰り返した私に、朝晴が困惑したように返す。「知っている」どころではない。
「璃子は私と同じ
溜め息をつき、手探りで髪を掻き上げる。
同じ町でも璃子は街の方、私は山の方の出身だ。小学校は違うものの、中学校は町に一つしかないから同じだった。高校は璃子も市内にある一高へ、町の境を越えて通った。
璃子は庄屋筋のお嬢様で、見た目も物腰もそれにふさわしい美しさと格を備えた子供だった。色の白い小さな顔には品の良いパーツが整然と並んでいて、形の良い唇はいつもきゅっと結ばれていた。高い位置で結ばれた黒髪は水を含んだ筆のようにまとまりが良く、あらゆる光に美しく照った。
頭も良く運動もできて、誰にでも、私のような訳ありにもいつも優しく接してくれた。そんな璃子が、なぜ。
――いやな女。
あの声は、璃子のものだったのか。押さえた額が、いやな汗を滲ませる。相変わらず、いくら瞬きをしても映るのは暗闇だけだ。
「璃子の家には、もう行ったの?」
「いや。明日、両親と一緒に行く予定にしてる。でも僕は」
「離婚するよ。たとえ浮気だろうと、我が子を見捨てるような父親とは一緒に生きていけない。このまま目が見えなくても、あなたにだけは絶対に頼らない」
私は、父が命懸けで守った娘だ。父の最期を汚すような真似は、絶対にしない。
「今すぐ、うちから出て行って。慰謝料も詫びもいらないから」
あの部屋は、遺産で買ったものだ。無駄にしない使い途だと信じていたが、無駄遣いでしかなかった。一生棲む予定がたった二年で崩れるとは。
「璃子の家との話が済んだら、離婚届を郵送して。家に残った荷物は、着払いで実家に送っとくから」
どこにいるのか分からない朝晴に言い渡し、肩で息をする。
少し落ち着けば、蘇る情もないわけではない。世の中には、許せる妻もいるだろう。でも私は、とてもその中には入れそうにない。
「謝って許されることじゃないのは分かってる。でも、愛してるんだ」
「私も今朝手を振って別れるまでは、死ぬまで傍にいたいと思ってたよ。最高の夫だと信じてた」
その言葉を初めて聞いたのは、入籍の時だった。分厚い手を握り返し、一生この人といようと心に誓った。二度目を、こんな気持ちで聞くことになるとは思わなかった。
俄に洟を啜る音が聞こえて、視線を落とす。私が泣かないから代わりに泣くのか、私にはまだ悲しみに浸る余裕はない。
「もう、行って」
小さく促した私に、腰を上げる音がした。椅子が軋み、靴底が床をすり、カーテンが少し引かれ、足音は少しずつ遠ざかる。やがて、ドアを引く音。少しの間を置いて、ゆっくりと閉まった。
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