第3話

 中室達は「またお伺いすると思います」と予言を残して帰って行った。同情的な前半と打って変わった後半の厳しさに、もう精神力が底を尽きかけている。まあ何はともあれ人を疑うのが仕事なのだから、仕方ない。昔会った刑事は皆優しかったが、あれは私がまだ幼く、純然たる被害者だったからだ。

 あれからもう、二十五年か。

 ベッドへ倒れ込み、枕を抱き締めて目を閉じる。目の奥が鈍く痛んだ。

――逃げろ! 管理人のおじさんのとこに行くんだ!

 血塗れの父は私を通路へ押し出し、答えを待たず玄関のドアを閉めた。鍵の掛かる音のあと、逃げろ、と叫ぶ声が続く。うろたえつつも従い、裸足のまま走り出す。冷たい通路を走り抜け暗い階段を駆け下り、辿り着いた管理人室のドアを叩いた。

 おとうさんが! おかあさんが!

 必死の訴えは声にならなかったが、管理人はすぐに異常を察し受話器を掴んだ。

 これで、おとうさんもおかあさんもだいじょうぶ。

 がくりと力が抜け、冷えた床に座り込む。汗を拭おうとしたパジャマの腕が赤いのに気づいて、視線を落とす。全身が、血に染まっていた。


 ……いやな夢を見た。

 薄闇の中で目を覚ますと、汗だくになっていた。抱き締めていた枕を手放し、ゆっくりと体を起こす。額の汗を拭い、張りついた前髪を掻き上げる。急に冷めていく熱に、小さく震えた。

 レースのカーテン越しに見える空はそろそろ日没か、曇天は区別がつきにくい。

 五時過ぎを確かめた携帯をジーンズの腰ポケットに差し込み、首を回す。昼寝にしては長すぎるが、おかげで少しだけ胸は落ち着いていた。眠れるなら、まだ大丈夫だろう。

 朝晴は今も警察署なのか、静まり返った部屋に私以外の気配はない。

 栗ごはんは無理でも、豚汁なら間に合う時間だ。まだ必要なのか分からないが、ほかにできることもない。ベッドを下りて、リビングへ向かった。

 リビングのドアを開けようとした時、出てきたばかりの寝室で何かが割れるような音がした。窓が割れたにしては、少し軽い音だ。花瓶が落ちたのかもしれない。でも。

 朝の一件を思い出すと、足が向かない。科学的には説明できそうにないあれの影響がまだ続いているのなら、行くべきではないだろう。不審な状況を確かめに行ってひどい目に遭うのは、ホラー映画のお約束だ。朝晴が帰って来てから一緒に確かめればいい。蘇った恐怖に、ようやく廊下の照明ボタンを押した。

 点かない。

「ちょっと、やめてよ」

 押し寄せるいやな予感に、焦りつつボタンを押し直す。停電なんて聞いていない。昨日の台風の影響だろうか。でもそれなら連絡が。

 一層焦る指がボタンの上を滑った時、背後でばちんと音がした。今度は分かる、ブレーカーが落ちた音だ。我が家のブレーカーはおそるおそる振り向いた先、玄関のシューズクロークの中にある。

 薄暗い廊下を照らすのは、ドアのガラス越しに差し込むリビングの明かりのみ。それも自然光だから、日没と共に消えてしまう。懐中電灯の備えはあるがそれもシューズクロークの中だし、防災リュックは寝室だ。携帯のライトを利用するにしても、充電できなければ限界がある。

 ネットに、停電情報が出ているだろうか。

 検索しようと取り出した携帯がなぜか圏外で、絶句する。確かにここはど田舎だが、それでも駅南で比較的栄えている地区だ。停電でマンションのWi―Fiが落ちていたとしても、キャリアの通信まで圏外になるような場所ではない。

――逃げろ! 管理人のおじさんのとこに行くんだ!

 夢で見たせいか、脳裏に蘇る父の声は鮮明だ。否応なく引き戻される死の恐怖に、荒い息を吐く。もう暗がりに飲まれた玄関が、これまでになく悍ましく不気味な場所に見えた。見えない何かが塒を巻いて待ち構えているように、そこだけ闇の密度が高い気がする。

 このままリビングへ逃げたところで、事態は悪化するだけだ。ひとまず外を確かめ管理人のところへ行くか、ブレーカーを上げるか。どちらかを選ばなければ解決しない。

 私宛てに届いた赤ちゃんの死体、朝晴が見つけた誰かの死体、突然の停電、落ちたブレーカー、ありえない圏外。

 一体、何が起きているのか。唾を飲み、汗ばむ手のひらをジーンズになすりつける。震える手をさすりつつ、一歩ずつ玄関へ近づく。歩を進めるほど質を変えていく空気に、湿ったニットが肌を冷やす。いつもなら十歩ほどで着くはずなのに、やけに長く感じた。おかしいのは分かっているが、もうあとには引けない。

 スニーカーに足をねじ込み、手探りで玄関ドアに触れる。ドアガードを外し、鍵を回す。ハンドルを押してゆっくりと開……かない。まるで何かに固められているかのように、ドアはびくともしなかった。

 焦りつつ鍵を元に戻して試してみると、今度はがちりと鍵の抵抗があった。再び鍵を回し、ドアに体を押しつけて力を込める。それでも、やはり微動だにしなかった。数度叩いたあと、耳をつけて向こうの気配を探る。声も足音も聞こえない通路に、体を起こした。

 何が起きているのかは分からないが、異様なのは間違いない。深呼吸を繰り返し、不安と恐怖に揺れる胸を宥める。

 もし「何か」に閉じ込められたのだとしたら、ベランダも開かないはず。壁を叩いて隣の部屋に知らせるにしても、ここは防音が売りのマンションだ。壁を壊す勢いで叩けば聞こえるだろうが、そのための工具はシューズクロークの中にある。携帯が繋がるか誰かの来訪をじっと待つ他力本願な方法では、先に夜が来てしまうかもしれない。夜は、待たない方がいい気がする。

 仕方ない、ブレーカーを上げよう。

 消去法で渋々選び取った選択肢に、携帯を取り出す。充電は六十八パーセント、少し使っても大丈夫だろう。

 ライトを点け、シューズクロークの方を照らす。なぜか開いていて、一瞬で恐怖が増した。竦む足に深呼吸を繰り返し、滲む汗を拭う。俯き、足元だけを確かめながら少しずつ進んだ。しんと静まり返った中に気配は感じられない。大丈夫、か。

――短いお経だし、覚えてて損はないと思うぞ。

 突然脳裏に湧いた懐かしい声に、思わず上げた視線を慌てて戻す。あれは高校の頃か、千聡から教わった経は五十字もない短いものだった。

 そうはいっても、最後に唱えたのはもう十年は前だ。朝夕の習慣は、少しずつ生活から消えていった。「消していった」が正しいかもしれない。恐怖に混じり込む鈍い痛みに惑いながら、進めなくなった足を揃えた。

 仕方ない、背に腹は変えられない。そもそも覚えているかも分からないし。

 意を決して口を開くと、経は予想外の滑らかさで流れ始める。十数年前とはいえ、朝に夕に唱え続けていた成果だろうか。驚きつつも少しだけ救われて、また足を進めた。

 ブレーカーは入ってすぐの、収納扉の内に隠されている。ただ私の身長では届かない場所にあるから、まずは奥から脚立を引っ張り出して来なければならない。あまりの怖さで竦みそうになった足に、必死で意識を違う方へと向ける。何か、何か全く関係のない、平和な思い出を引っ張り出さなくては。

――言っても分からない奴は殴るしかないだろ。殴られるほどのことはしてないって言う時点で、もう間違ってんだよ。

 違う方向で掴んだはいいが、全く平和な記憶ではなかった。

 さっきより少し若返った声は、中学生の頃か。一高へ進学して町の境を越えるまで、千聡は私のためにしょっちゅう手を腫らしていた。寺の息子がけんかなんて、と眉を顰める大人の声は無視していたが、あんな子のために、と漏らせば大人でも噛みついた。千聡は……しまった、どこまで唱えただろうか。

 脇道に逸れた思考に経を止めた瞬間、何かがべたりと口に張りつくのが分かった。じっとりと湿って、小さい。少しずつ肩の重みが増していき、頬にもひやりとした何かが触れる。耳元で、か細い息遣いが聞こえた。

 進むことも退くこともできず、固まったまま脂汗を流す。奥へ向けた携帯のライトが、小刻みに揺れている。塞いだ私の唇を握ろうと動く小さなものは、指だ。肩に多分、「赤ちゃんのようなもの」が乗っている。あの赤ちゃんかもしれない。でも、現実ではありえない。

 胸の内で改めて唱え始めた経に、赤ちゃんが、ぐじゅ、と洟を啜るような音を立てた。塞いでいた小さな手を滑らせ、少しずつ前の方へと動き始める。私と、正面で向き合おうとしているのか。

 目を合わせてはいけない。

 本能的に察した危険に目を閉じ、経を唱え続ける。湿った物体は私の顔を拭うように這って、多分、正面に回った。肩は軽くなったが、震えが止まらない。片手の拳は、暴れだしそうなほど揺れていた。

 ……次。次が出てこない。

 最後の手前で途切れた記憶に、再び汗が噴き出す。なぜか、そこだけがどうしても思い出せない。落ち着け、落ち着けば思い出せる。焦りと恐怖で叫びたくなる胸を落ち着かせ、記憶を掘り起こす。分かっている、似たようなフレーズだ。でも、言葉が出てこない。

 不意に、両目の瞼に小さな手が触れてびくりとする。続いて、恨めしい、と低く呻くような声がした。男性か女性か、どちらとも取れそうな声だ。混じり合っているようにも聞こえる。でも、赤ちゃんの声ではなかった。

 経文は、忘れたわけではないのかもしれない。「これ」は、私に思い出されては困るのだ。

 瞼を押し上げようと力を込める手に抗い、必死で目を瞑る。

「いやな女」

 今度は低いが、女性と分かる声だった。汗だくの体を、冷たいものが走り抜ける。ぞわりと漣だつように寒気が走った。

「誰」

 震える唇の隙間から、意図せず掠れた声が漏れた。途端、触れていた手が目を突き、奥へと跳ね飛ばされる。どこかに叩きつけられた頭が、鈍い音を立てた。ずるりと体は滑り落ち、感じ始めた痛みの中で意識は朦朧としていく。目を開いても、暗がりには何も見えない。ただ再び性別不明になった何かの、密やかな笑い声が聞こえた。

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