コラム③ 言葉の定義、レトリック

 NHKに『ザ・バックヤード 知の迷宮の裏側探訪』という30分番組があります。

 国立音楽大学や水族館などの施設に入り、一般人には公開されていない裏側を取材するという内容です。

 番組はいつも、次の1文と共に始まります。

「本当の知は、裏に隠されている」

 このフレーズを聞くたびに、「上手いこと言うものだ」と感心します。

 何も言っていないのに何か言っているふうで、しかも誰からの反論も許さない、見事なレトリックです。

 ここで言う「レトリック」とは、美辞麗句びじれいく、雰囲気が良いだけで(よく考えると)中身がともなっていない文言フレーズというくらいの意味です。


 解説しましょう。

 「知とは何か」という難しい話は一旦脇に置いておきますが、「本当の知」というからには、「本当ではない知」があるはずです。

 とすると、このフレーズの意味は、「本当ではない知は裏に隠されていないけれど、本当の知は裏に隠されている」となります。

 このとき、「本当の知」と「本当ではない知」という言葉は意図的に曖昧あいまいなままにされています。

 2つを区別する基準は、「裏に隠されている」か「裏に隠されていない」かしかありません。


 お分かりいただけるでしょうか、「裏に隠されている」、すなわち番組が施設を取材するまで視聴者が知らなかった「知」だけを「本当の知」と定義し、番組を見る前から視聴者が知っていた知識や番組で取り上げない情報は「本当ではない知」だと宣言しているわけです。

 しかも、「知」というものの性質上、それが視聴者にとって有意義な情報かどうか、楽しめる情報かどうかは、番組を最後まで見てみないと分かりません。

 国立公文書館のように、一般人にはあまりなじみのない施設の特集であっても、「本当の知は、裏に隠されている」のが本当なら、「裏」を知る内に興味を持てるようになるはずということになります。

 もし最後まで番組の内容に興味を持てないとしたら、その視聴者は「本当の知」に価値を見出さない、知的好奇心や知識欲とはえんのない反知性的な人間であり、ひかえめに言っても番組が想定する視聴者層ではないことになりますから、仮に酷評されても、番組としては痛くもかゆくもありません。


 ですから、「本当の知は、裏に隠されている」というフレーズは、主語と述語で同じことしか言っていないトートロジーであるにもかかわらず、誰も反論できませんし、反論できるようになった頃には番組を見終わっているはず、というわけです。

 TV番組の序盤に置くフレーズとして、実に見事だと思います。




 トートロジー的な迷言で有名なのは政治家の小泉進次郎氏ですが、いわゆる進次郎構文が話題になる前から、ちまたにはそれらしいレトリックが流布していました。


 たとえば、「私たちは同じ空の下でつながっている」。

 基本的に人間関係を指すフレーズですが、人と人のつながりが物理的な制約を受けない時点で、つながっていない、つながりが切れているという状態が想定されていません。

 手紙や電話などでのコミュニケーションがなくても、心はつながっているという状況を可能にするのが、「同じ空の下で」という部分です。

 ここで言う「同じ空」はかなり広い範囲を指すはずで、天気や雲の形、時刻、標高などは無関係――もっと言えば「空」自体とさえ無関係――でしょうから、そもそも「違う空」、「異なる空」の存在が想定されていません。

 この文法の世界においては、相手が地球上にいる限りは、いや、宇宙ステーションにいたとしても、すでに亡くなっていたとしても、みんな「同じ空の下でつながって」います。


 この他、「真実の愛は永遠」、「親子のきずなは切っても切れない」といったフレーズも、意味や根拠が曖昧あいまいなのに妙に説得力を認められているレトリックです。


 「真実の愛は永遠」は、分かりやすいですね。

 真実の愛は永遠に続くと定義している以上、永遠には続かないもの、途中で終わってしまう愛はすべて、原理的に「真実の愛」ではありません。

 仮に一時は「真実の愛」に見えたとしても、交際が終了したらその時点で、「真実の愛ではなかったと明らかになった」ことになります。

 また、もしケンカしていた2人が仲直りし、交際関係を再開させたなら、そのときは「2人の愛は真実だった」ことになります。

 どちらにしても悲しい話です。


 世間の皆様の恋愛事情など1mmも知らない私の個人的な偏見ですが、愛情は状態や物品ではなく、感情の方向性とそれを反映した行動のはずですから、達成されるもの・獲得されるものというよりは、保つもの・続けていくものだと思います。

 永遠なるものを手に入れたと考えて胡坐あぐらをかくのではなく、テレパシーや神通力が通じない相手を絶えず気遣い、話し合い、分かり合う努力を続けることが、肝心なのではないでしょうか。


 続いて、「親子のきずなは切っても切れない」。

 言っていることは明確ですが、根拠や判断基準が不明という例です。

 絆が「切っても切れない」ということは、「一見すると切れたように見えるときもある」ということで、そこから復帰するから、「本当の意味では切られていなかった」という感動話が成立します。

 当然ながら、親子と言っても人間ですし、それは自由に選択できる関係ではありませんから、どうしようもない親、どうしようもない親族も、中にはいます。

 過去・現在・未来のいずれにおいても、世の親子すべてが仲良しということはあり得ません。

 仮にそう言われる時代や社会が到来したのであれば、家族間の不満が抑圧され、おもてに出されなくなったディストピアと考えた方が自然でしょう。

 それでも、「親子の絆は切っても切れない」というフレーズがまるで真実かのように機能するのは、結局のところ、「きずな」という言葉の性質上、こじれた関係に修復の余地があるかどうかを確認できる人が誰もいないからです。

 当事者たちの声とは関係なく、耳を傾ける前に、一般論という形で「親子の絆は切っても切れないのだから、頑張り続ければ関係を修復できる」と確定させてしまうのですから、発言者の主観では、彼ら彼女らも親子の絆を(本当の意味では)失っていませんし、その状態は永遠に続くのです。


 もちろん、このフレーズが自分自身に対する激励であるなら、親子関係をより良くすることにつながるかもしれませんが、部外者が自分の人生観・倫理観(もっと言えば偏見・固定観念)を他者に押しつける口実に使われるとしたら、その無理解と暴力性は悲惨でさえあると思います。




 以上、言葉の定義の曖昧さとそれを使った美辞麗句(レトリック)についてお話ししてきました。

 私が言いたいことはすでにお察しいただいていると思いますが、あえて明言しますと、世間には核心を突いているふうに聞こえるフレーズ、この世の真理のように思われているフレーズがありますが、よくよく考えると、その中には何も言っていないに等しいか、あるいは的外れであり、言葉遊びでの域を出ないものも含まれています。

 創作活動で使う場合、効果的に作用することもありますが、状況によっては、作品を読み終わった後に読者の心に何も残らないということもあり得ます。

 文芸作品でレトリックを使うなとは言いませんが、何かのテーマを一般化するとき、それが中身をともなわない安っぽいものにならないよう、ご注意いただければと思います。




 余談ですが、言葉の定義に着目すると、一時期Twitterマンガ(現Xマンガ?)で流行った「オタクに優しいギャル」は存在し得ないということが、お分かりいただけると思います。


 言葉の上でもビジュアルの点でも、この場合の「オタク(多くはオタク男子)」はいわゆる陰キャ、すなわち、友達が少なく、人間関係やコミュニケーション全般を苦手とし、いわゆる陽キャの一員にはなりたくてもなれない人間の代表です。

 対する「ギャル」は、いわゆる陽キャ、すなわち、友達が多く、人間関係やコミュニケーション全般に心得こころえがあり、(リアルはともかくフィクションの上では)陰キャやサブカルチャーを軽蔑しがちでデリカシーのない人間を代表するはずです。

 この対比においては、陰キャと陽キャは水と油のようにまじわらない存在であり、グレーゾーンは存在しません。


 「陰キャに優しい陽キャ」という構図にすると分かりやすいと思いますが、外見上はギャルであっても、オタクに優しい人間を「ギャル」とは言いません。

 同様に、一見するとオタクであっても、ギャルに優しくされて、なおかつ交友関係を継続できるくらいコミュニケーションに支障のない人間のことは、「オタク」とは言いません。

 オタクに優しいギャルはギャルという集合を抜けて、「ただのギャルとは違う存在」になりますし、ギャルに優しくされたオタクもまた、オタクという集合から外れて、「ただのオタクとは違う存在」になるわけです。


 さらに別の言い方をしましょうか。

 恋愛小説やラブコメの文脈で考えると、ここで言うオタクは男性としての魅力がない男子、ギャルは男性にびない女子ということになると思いますが、このとき、「オタクに優しいギャル」とは、「普段男性に媚びることはないし恋愛にも関心を示さないが、(主人公である)オタクには男性としての魅力を見出して恋愛感情をいだく女子」を指すことになります。

 そうでないと、恋愛小説やラブコメとして成立しません。

 ですが、お分かりいただける通り、これは明らかな矛盾ですから、設定が動かない限り、そんな関係性はあり得ないのです。


 この議論が不毛なのは、結局、ギャルや陽キャをどう定義するかによって話が変わってくるにもかかわらず、マンガに登場するような「ギャル」や「陽キャ」など、この世界のどこにも存在しないからだと思います。

 人間関係について常にポジティブな人間はいるにしても、何の悩みもかかえておらず、過去にも経験したことがない人間はめったにいません。

 仮にいたとしても、彼女あるいは彼は、陽キャだの陰キャだの、ギャルだのオタクだのといった実体のない枠組みに拘泥こうでいすることはないでしょう。

 オタクに優しいギャルだと彼女を定義すること自体が、血のかよった人間関係の描写として的外れなのです。


 本来個別的であるはずの人間関係を単純なキャラ同士の図式に集約することは、創作物としては分かりやすく、読者にとっても状況が把握しやすくなるものですが、その分、話が安っぽくなったり矛盾を起こしたりする要因になりかねないので、書き手の皆さんには注意して取り扱っていただければと思います。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文章チェックのヒント あじさい @shepherdtaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ