硬い文体、柔らかい文体②

 どういうわけか、この小論で最も閲覧数(PV)が多い記事は、「語り方① かたい文体、やわらかい文体」です。

 この記事に、「Web小説を書いている途中で文体がくずれていく、ということにお悩みの方もいらっしゃると思います」と書きましたが、この予想が当たっていたのかもしれません。

 とはいえ、PVと「いいね」の数が釣り合っていないので、この記事ではご満足いただけていないということでしょう。


 率直に申しますと、自分から硬い文体、柔らかい文体という話題を出しておいて何ですが、これに関して私から言えることは多くありません。

 作品の方向性や題材にもりますし、語り手の性質にも依ります。

 それに、一般的な理屈としてどうこう言うよりも、実際に出来上がった作品を読者が読んでみたときに違和感を覚えるか/覚えないかという話だと思っています。

 もちろん、硬い文体で書くなら(大学のレポートや会社の書類と同様に)「……なので」、「……だから」という口語的な言い回しは控え、「……であるため」、「……によって」などの言い方で用いましょう、といった話はできますが、個別的すぎて際限がありません。


 あえて忠告めいたものを書くなら、自分が理想とする作家さんや評論家先生(あるいは書き手さん)ならどう書くかを考えてみてはどうですか、くらいでしょうか。

 身もふたも無いと思われるかもしれませんが、それ以上に理にかなった対策はないと思います。

 外国語を深い意味で学ぶなら外国人との会話をけられないのと同様に、日本語の文章力を深い意味でみがくなら、優れた文章を書く日本人作家との「対話」が最も良い学習法であるに違いありません。




 ということで、ここから先の話は、まとを射ないものである可能性が高い、と私自身も思っていることです。

 それをまえてお付き合いいただきたいのですが、私個人の感覚としては、硬い文体と柔らかい文体(の印象)を分ける大事な要素には、心理的な距離感と知性という2つがある気がしています。



 1つ目の心理的な距離感というのは、語り手(地の文)が読者に対してどれくらい心を開いているか、どれくらいれ馴れしいかということです。

 馴れ馴れしいとは、読者の感情にうったえかけているということです。

 つまり、地の文が読者の理性的な部分ではなく感情的な部分に訴えようとしているなら、その作品の文体は柔らかいという印象になるでしょうし、逆であれば文体が硬い印象を読者に与えると思います。


 『桃太郎』の冒頭を例に考えてみましょうか。


――――

 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。

 おじいさんは山へ柴刈しばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。

 おばあさんが川で洗濯をしていると、川上かわかみから大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。

――――


 これを柔らかくするなら、読者に語りかけるような口語的な表現をベースに、感情に訴えて、


「むかーし、むかしのことじゃ。あるところに、年を食ったじい様とばあ様がおったそうな。

 あるとき、じい様は山へ柴刈りに、ばあ様は川へ洗濯をしに出かけたのじゃ。

 ばあ様が川で洗濯をしておると、川上からおおーっきな桃が、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきおった。」


 こんな感じでしょうか。

 逆に、硬い文体で書くなら、感情ではなく理性に訴えるわけなので、


「昔、ある村に、年配の夫婦が住んでいた。

 夫は山へ柴刈りに、妻は川へ洗濯に出かけた。

 妻が洗濯に励んでいると、川上からあまりにも常識外れな大きさの桃が流れてきた。」


 といった具合になると思います。



 さて、私は先ほど、硬い文体と柔らかい文体を分けるもう1つの大事な要素に、知性があると言いました。

 文章表現において、知性とは何でしょうか。

 つまり、文章が知的な印象を与えるための条件とは、何でしょうか。

 それを決めたり定義づけたりするのは当然ながら難しいですが、文体に直結することで言うと、具体性と的確さだと思います。

 ここで言う具体性とは、あいまいで、読者の想像力による補完を頼りにしているのではなく、情報が客観的で、読者の誰もが等しく同じ情景を想起できるということです。

 そして、的確さというのは、提示する情報に過不足がなく、それぞれの要素と因果的つながりが明確で、誤解をまねかない(読者が余計な疑問で気を散らされない)ということです。


 これを踏まえて、先ほど書いた硬い文体の『桃太郎』冒頭を、さらに硬くしてみましょう(一部、私の裁量で情報を加えます)。


「なにぶん昔のことで、詳細については諸説あるが、室町時代のことと伝えられている。舞台となったのは、現在の愛知県、香川県、岡山県のいずれかという説が有力だ。ともかく、その年代のその場所に、共に60歳を過ぎた夫婦が暮らしていた。当時は人生50年と言われていたため、2人は相当な高齢だったと言える。

 その朝、夫婦はいつものように、夫は山へ柴刈りに、妻は川へ洗濯に出かけた。2人とも、ひざも腰も肩も、体中のありとあらゆる関節が痛む歳ではあるが、それでも働き続けなければ食べていけないのだった。

 洗濯に励んでいた妻がふと顔を上げると、川上から直径4尺、すなわち1m20cmはあろうかという巨大な桃が、右へ左へ大きく揺れながら流れてくるのが目に入った。」


 ……文体というより作風かもしれませんが、「硬い」印象を受けるのではないでしょうか。

 ここまで硬いと、おいそれとは近寄りがたいですね。



 ここまで、硬い文体と柔らかい文体を分ける大事な要素が2つで、それは心理的な距離感と知性だという話をしてきました。

 この仮説が多少なりとも妥当性のあるものなら、私はこの記事を通して皆さんに、硬い文体と柔らかい文体を意識的に書き分けるときのヒントを提供できたことになると思います。

 なぜなら、コツの1つは「語り手がどれだけ読者に馴れ馴れしいか」を意識することであり、もう1つは「作品全体をどれだけ具体的な情報で固めるか」を意識することだと言えるからです。


 この点について別の言い方をしますと、途中で文体が変わって読者に違和感をいだかせるWeb 小説は、「語り手の馴れ馴れしさ」と「情報の具体性」について一貫性を保つことに失敗している、という話になると思います。

 語り手が読者に対して他人行儀なところから始まった物語が、途中から若者言葉、俗語、ネットミームなどを使い始めたり、親しげに共感を求めたりすれば、読者は違和感を覚えることになるでしょう。

 また、物語の序盤は細かく具体的な情報を明記していたにもかかわらず、途中から曖昧あいまい模糊もことした描写、要領を得ない情報提示、状況説明の過不足が増えてくると、これに対しても読者は、違う作品を読んでいるような印象を受けるはずです。


 書き手の立場から取れる対策としては、ひとまず、コメディ路線の作品であれば友人に接するときのように感情に訴えるつもりで書き、シリアス路線の作品であれば職場で誰かに接するときのように大人な、理性に訴える言葉づかいをすること。

 そして、コメディ路線なら必要最低限の情報だけを伝えて想像の余地を残し、シリアス路線なら具体的な情報をなるべく省かずに正確性を期すことです。

 だいたいの作品は、これで硬い文体と柔らかい文体のどちらか(あるいはそれらと似た印象)に振れると思います。


 最後にくり返しますが、以上の理屈が正しいなら、硬い文体でシリアスな物語を書く場合、作品全体を通して文章を知的に、作中の情報を具体的かつ的確なもので固める必要があります。

 つまり、それだけ構想とプロットを練るのが大変になるはずです。

 もしあなたがその路線で本格的な作品を書くつもりなら、それ相応の準備が必要になる(準備不足だと構想通りの作品にならなかったり、エタったりする可能性も出てくる)という点、ご留意いただければと思います。

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