君を愛する犬になれたら

 思い出せる限りいちばん古い記憶は、わたしの背中をさする手の温度だ。白く冷えた床にうずくまって呻くわたしの苦しみをどうにか和らげようとする懸命な体温。幼い頃の思い出はもう忘れてしまったことのほうが多いのだけれど、あなたの手のあたたかさだけは克明に覚えている。あなただっていつもひどい痛みを抱え続けていたのに、わたしの痛みをも思っていてくれた。

 生まれ育った病院を離れた日のことさえ、わたしは満足に思い出せない。その日、わたしを送る車をあなたが追って倒れてしまったと、ずっと後になってから聞いた。

 わたしの記憶の乏しさは、もちろん普通よりずいぶん早くに終わってしまった生涯とそれを構成する苦痛に起因するのだけれど、それに加えて、あなたの隣にいられなくなってからの乾燥した日々、その膨大さに圧迫されて失われたところが大きいのだろうと思う。わたしの転院先は田畑に囲まれた小さな療養所で——そう、あれは病院ではなかった、もはや手の施しようもない病人が、ただ穏やかに死んでいくまでを待つ場所だった——、そこを流れる時間はむごたらしいほどに遅かった。窓の外はいつも美しい自然に満ちていて、こんなにすてきなところにいるならきっと体もよくなるね、と家族には言われた。彼らは心からそう信じたがっているようだったから、わたしは笑ってうなずくことにしていた。

 そこでは二度、夏を過ごした。夏になると、療養所の誰かの親戚らしい子供が毎日のように大きな犬を連れて遊びにやってきたから、わたしはそれを部屋の窓越しに眺めていたのだった。庭を遊びまわる犬は死なんて知らないようで、とても幸せそうで、ただ飼い主ひとりを愛しているのだからすてきだ。それを見るたび思い出すのはいつもあなたのことだった。もしもわたしがあの犬で、そしてあなたがその飼い主だったなら、それはどんなにすばらしいことだろう、と、そんなふうにばかり考えた。あんなにも元気にあなたへ飛びつくことができたなら、そうやってあなたと草の上に転がって、どこまでも素直に笑い合えたなら、きっと幸せだろうと思った。

 最後にあなたと会った日も夏だった。あなたが会いにきてくれると知ったとき、わたしは当然心から喜んだけれど、それと同時になんだか怖いようにも思った。もしもあなたの体がすっかり衰えてしまっていて、たとえば車椅子や何かに乗せられたりして、そうしてわたしに向かって弱々しく震える手を振りでもしたならと考えると恐ろしかった。そんなあなたの姿は決して見たくなかった。けれども、そんなことを恐れて会わないまま、会えないままでわたしかあなたがいなくなってしまう日が来たらと思うと、そのほうがよほど嫌なのも間違いないことだった。

 その日はよく晴れていた。部屋の扉を開けたあなたは、想像していたほどではなかったけれど、それでもやっぱり一緒にいた頃よりはずっと病状が進行しているようだった。悲しかった。しかしあなたはもっと悲しそうにわたしの顔をじっと見つめた。あまりにきれいな目だと、確かに思った。だからわたしは笑ってみせた。あなたにも笑ってほしかった。

 お互いの姿に目を向けていたのはほんのわずかな間だけで、そのほかは二人とも窓の外へ視線をやり、風に吹かれてはゆるやかに形を変えていく雲ばかり見ていた。わたしの変貌ぶりはあなたにとってひどく悲痛なことのようだったから、それならなるべくわたしを見ずにいてほしいと思ったのだった。

 そうやってぽつぽつと何かを話した。何を話したのかは覚えていない。なんでもない話だったのだろう。あなたがその時間をどう思ったか知ることはできないけれど、わたしは楽しかった。心から楽しいと思っていた。

 陽が傾き始めた頃、面会の時間が終わったことを職員の人が知らせに来た。また会おうね、絶対また来るから、と約束し合って、あなたはベッド脇の丸椅子から立ち上がった。その背中がドアの向こうへ消えてしまおうとしたとき、わたしは思わず声をあげていた。行かないで。あなたが息を呑んだのがわかった。困らせてしまった。迷わせてしまった。いっそう強く思った、犬になりたい、と。しわがれた痛々しい声でなく、愛らしく吠えてあなたの服の裾でも引っ張って、そうできたならあなたを苦しませもしなくて済んだのに!

 それからしばらくしてわたしは死んだ。そのことにはなんのわけもなくて、ただ、わたしは生まれてきたときからその日に死ぬと決まっていたのだと思う。それほど単純にわたしの命は途絶えた。


 そうしてわたしはこの場所に辿りついた。わたしの好きな季節が辺り一面に広がるこの場所には、わたしの好きな花がいたるところに咲いていて、わたしの好きな鳥の鳴く音がいつも聞こえていて、そしてわたしの体はもうどこも痛まないらしかった。ここには時間がないようだから、わたしがここへやってきたのが今しがたのことなのか、それともずっと前のことなのかもわからない。生きていた頃の記憶というのは、そのすべてがついこの間のことのようにも大昔のことのようにも思い出される。

 どこまでも美しく続く景色の中を歩いて、走って、ときに立ち止まって、地面に寝転んでみたりもして、そんなふうにこの場所を漂っているうち、あなたと出会った。それは突然のことだったけれど、ちっとも不思議なことなんかではなくて、きっとこうなるとわかっていたような、そんな穏やかな安堵ばかりがあった。木陰の道を抜けて歩いてきたあなたは、こちらを見るやいなや駆け寄ってきてわたしの体を抱きすくめた。その力強さはあなたの健やかさを確かに示していたから、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

 わたしたちは手を繋いで歩き始めた。ずっとこうしていようね、とあなたが言う。ずっとこうやって寄り添って、それで、いつか、飽きたらさ、一緒にまた生まれてみようよ。今度は、きっと幸せだよ。

 大真面目な顔で言うのがおかしかった。そんなのわかんないでしょ、と言って、二人で笑い合った。けれど、絶対にそうなれるはずだとも思えた。だから今度はわたしからあなたを抱きしめた。

 空は明るく、風は心地よくて、それからあなたの手のひらにはいつかの日と変わらない温もりがある。あなたとなら、どこまでも一緒に行けるだろう。そんな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャングリ・ラ クニシマ @yt66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説