第9話

 凛果と駿平の日常は、細々と、でも確実に続いていた。


 毎日毎日、最初の一、二分で今日の概要を話す。駿平がそれに相槌を打って、感想を少し返す。最後の一分で互いの薄れることのない想いを伝え合えば、もう声は途切れてしまった。


 それでも凛果は幸せだった。もう後悔することなく、存分に想いを伝えられる。たった五分でも、シュンの柔らかい声が聴ける。

 駿平も喜んでくれていた。「リンの風鈴みたいな声がこっちでも聴けるなんて、思わなかった」と。「最期に徳を積んだからかもしれない」と笑っていた。


 駿平の体さえこちらにあれば、と思う日がないわけじゃない。やはり声が途切れた途端にある種の虚無感が全身を襲って、悩んだ挙句に枕を抱きしめたことは何度もある。

 でも駿平の声があるおかげで、凛果のワンルームを埋め尽くそうとしていた「今日こそは」の山や「今日もできなかった」の山は、徐々になくなり、元の床が見えそうになっていた。


『リン。明日は遅くなりそうなんだよね?』


「うん。取引先主催のパーティーで、挨拶回りすることになって。いつもよりは少し遅くなりそう」


『そっか。無理しないでね』


「仕事だから、多少の無理はしないと。新人だし」


『そうじゃなくて、俺との会話を義務に思わなくていいからねってこと』


「そんなことあるわけないじゃん。私は、シュンと話すために毎日頑張ってるの。もし明日、遅いせいでシュンが先に寝ちゃったら仕方ないけど……」


『そこは心配しないで。死んじゃうとね、眠いって感覚も少しずつ薄れてくるから。だから俺は、リンを待ってる』


「そうなんだ。分かった、ありがとう。頑張るね」


『俺はいつでも、リンの味方だから。大好きだよ』


「私も大好き、シュン。おやすみ」


『おやすみ』


 職場でのコミュニケーションが取れるようになってきたとはいえ、やはり見知らぬ人だらけの場所は気が重い。演劇サークル出身といっても、必ずしも目立つことが好きだったり、人見知りせずに話せたりするわけではないからだ。


 凛果は目立つのが好き、というわけではなかった。

 ただ、自分以外の誰かになれる演劇というものに、魅力を感じただけだ。自分が何者なのか、何が強みで、譲れない価値観が何かということが、全く分からなかったから。だから自分以外の誰かになることで、自分と親和性の高い価値観を探そうとしていた。

 たまたまセリフを覚えるのが苦ではなかったし、歌うのも嫌ではなかったから、演劇に片足を突っ込んでみただけだ。結果として人より少し目立ってしまっただけで、そこに凛果の願望があったわけではない。


 駿平も、凛果とどことなく似ていた。

 たまたま舞台映えする身長に恵まれていて、たまたま声量がそこそこあって、たまたまセリフ覚えが早かった。そしてたまたま目立つのが大好きだった幼馴染のユウに引っ張られるようにして、演劇サークルに入会した。入会してみると、瞬く間に人から愛され頼られて、主演ではなくても、物語のキーマンをよく任された。結果として目立ってしまっただけだ。


 自分が何者なのか分からない者同士が、現実と虚像の狭間で言葉を交わし合って、惹かれていった。だから凛果と駿平は長く交際を続けている。……駿平が死んでも、ずっと。


 舞台上はもちろん、現実でも凛果はどこか、着飾っていた。もちろん、世間の潮流からはぐれてしまわないようにだ。言葉と思考と体、全てをありのまま見せられた相手は、駿平が初めてだった。彼はいつも、凛果を受け入れてくれたから。

 甘える凛果も悲しむ凛果も、怒る凛果も全て、内田凛果という一人の同じ人間の側面として見てくれた。だから、変な言い方かもしれないが、自信を持って喧嘩ができた。この関係が修復不可能なものになりはしないかと、怯えて本音をしまい込む必要がなかった。


 死んでも駿平は変わらない。ずっと、この世で付き合っていた時の目黒駿平のままだ。

 嬉しそうに話す凛果も、愚痴を言う凛果も、拗ねる凛果も受け入れてくれる。だから、心から信じられる。「俺はいつでも、リンの味方だから」という言葉を。


 今日も両手で包み込まれたような心を見つめて、そっと電気を消す。

 駿平の声が途切れた後に自動再生されたプレイリストの曲達が、凛果を深い別の世界へと誘った。



 ◇



「内田さん、準備できた?」


「はい。できました」


「じゃあ、行くよ」


 先輩の松井杏香に連れられて、荷物をまとめて身だしなみを整えた凛果はエレベーターホールへと向かった。最近は、杏香とタッグを組まされることが多くなっていた。小夏も一緒だ。


「内田さん、宮崎さん。あまり緊張しすぎなくてもいいからね。基本的には私と一緒にまわって、ニコニコしながら名刺交換してくれればいいよ。相手の顔とか特徴は覚えるように頑張って。少ししたら、立食ビュッフェもぜひ食べな。あそこのホテルのサイコロステーキ、冷めても美味しいから」


 スレンダーな体型ながら食べ物に目がない小夏は、分かりやすく瞳を輝かせた。6月半ばに入り、5月には肩につく程度だった小夏のボブヘアは、少し伸びて鎖骨に差し掛かっている。


 タクシーでホテルに向かい、宴会場に入ると、様々な香水や食べ物、お酒の香りが鼻孔をついた。

 この時、凛果は気づいていなかった。



 一人の男による、熱を帯びた視線に。

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