第10話

「あぁ、田村様。お世話になっております。彼女達は新人なんですが、徐々に私の仕事も任せていこうと考えておりまして」


 杏香の目線を感じ取り、小夏と凛果は見よう見まねで名刺ケースを取り出した。


「初めまして。営業二課の宮崎小夏と申します」


「初めまして。同じく営業二課の内田凛果と申します」


 よろしくお願いいたします、と頭を下げる。相手は凛果達の名刺を受け取りながら顔を見て、「あぁ、よろしく」とか「頑張ってるね」などと声をかけていく。

 これを続けること、小一時間。


「凛果、流石に疲れたね」


「ずっとヒールで立ちっぱなしだからね……」


「先輩は全然表情が崩れてなくてすごいわ。凛果は足とか大丈夫?」


「あ、うん。小夏は?」


「私もまだ何とか生きながらえてるよ……でも、こっちは死にそう」


 小夏が自分のお腹に手を当ててそう言ったので、凛果は小さく吹き出した。得意先と談笑している杏香の方を見てから、二人は頷き合う。


「小夏……食べようか、サイコロステーキ」


「うん! 先輩もおすすめしてたんだから、食べなきゃ損よね」


 一応この宴会場では最年少のはずなので、遠慮して小皿にサイコロステーキと、数品の付け合わせを乗せた。小夏は工夫を凝らし、小さなスペースを最大限活用した食材の乗せ方をしている。

 立食形式なので、立ったまま二人で「いただきます」をして、共にサイコロステーキを口に運んだ。


「凛果……これヤバいね。ジューシーすぎる」


「うん。ソースも美味しい……うちのよりコクとか深みがある」


「ははっ、そりゃプロのシェフお手製だもん! でもうちのもこれくらい、クオリティを上げられるといいよね」


 期せずして仕事の話に夢中になっていると、40代前半くらいの、ストライプのスーツを着た男性が、シャンパングラスを手にこちらにやってきた。靴は輝き、にこりと笑いかけた時に覗く歯が、彼の小麦色の肌とのコントラストを描いている。先ほど名刺交換はしたはずだが、何せ人数が多すぎて、凛果も小夏も把握できていなかった。彼が話しかけてくることを予想して、二人は近くのテーブルに小皿を置く。


「パーティー、退屈ではないですか?」


「あ、いえ、全然。えっと……」


 小夏が彼の顔を見つめたことで、彼も小夏の言いたいことが分かったようだった。


「あぁ、一気に名刺交換したんじゃ、忘れちゃうよね。GPフーズの加藤です」


「そうでした、加藤様……失礼いたしました」


「いや、いいんだよ。きっと仕事関係でのこういう場は、初めてでしょう。実は僕も色んな人と話しすぎて、ちょっと疲れちゃってね……おっと!」


 加藤がシャンパングラスを傾けようとした時、手が滑ったのか、グラスが床に落ちた。宴会場の床は絨毯なのでグラスが割れることはなかったが、三分の一ほど残っていた中身が凛果の足元にかかる。ストッキングがまだらに濃くなった。


「あぁ……ごめんなさい。確か、内田さんでしたね。大変申し訳ない。お怪我は?」


「怪我はないです。大丈夫ですから、お気になさらず」


「いや、これは僕の責任です。内田さん、ストッキングと靴、綺麗にさせていただけませんか」


「本当に、大丈夫です。安物ですし、そろそろ買い換えようかとも思っていたので」


「そのお金は僕に出させてください。この姿で中を歩かせるわけにはいかないから、僕と一緒に一旦、外に出ましょう」


 凛果はなおも食い下がろうとしたが、小夏が「奢ってもらいな」と耳打ちして凛果の背中をポンと押したので、結局加藤についていくことになった。


 宴会場を出れば、人の声は一気に止み、代わりに静かなクラシック音楽だけが廊下に響く。人間というのはあんなにもうるさい生き物だったのかと、凛果は少々驚いた。


「僕、このホテルは結構詳しいんです。こっちに売店があるので、行きましょう」


 加藤に言われるがままについていくが、売店らしきものは見当たらない。普段ほとんど使われていないであろう、他よりも照明が落とされたホールにたどり着き、その右手に並ぶ化粧室に沿った壁で、加藤は立ち止まった。

 嵌められた、と思った時にはもう遅かった。逃げたくても道を把握していないし、何しろ立ちっぱなしだった上に何分も歩いた足は、窮屈なパンプスの中で悲鳴を上げている。


「さっき名刺交換した時にさ、ビビッと来たんだ。久々に俺のタイプど真ん中の女の子、見つけちゃったなぁって思って。名前もすぐに覚えたよ。凛果ちゃん」


「なんなんですか……」


「焦らしてもいいんだけど、今日は単刀直入に行こう……大人しくしてくれれば、悪いことはしないからね」


「や……やだっ……!」


 加藤は凛果の両肩を掴み、壁に追いやる。シャンパンの香りが激しく鼻孔をつくほどに二人の距離は近い。加藤の白い歯の奥に、肉の繊維が挟まっているのが見えた。

 金色の腕時計がついた右手を壁につけ、これまた金色の結婚指輪がついた左手が、凛果の胸元にじわりじわりと近づいてくる。凛果のうなじや胸元は恐怖で汗ばんでいたが、それがかえって加藤を欲情させてしまっていた。

 加藤の中指が、凛果のワイシャツの繊維に触れようとした、その時——


 ——♪ ♪ ♪


 凛果がジャケットのポケットに入れていたスマホが、大音量で着信音を流し始めた。CMで一時期流れていた、お馴染みのキャッチーな着信音で、どこからか足音が迫ってくる。

 驚いた加藤が反射的に離れた一瞬の隙に凛果は加藤の太ももを蹴り付け、そのままの勢いで走り出した。迫ってきた足音の正体と目が合い、素早く告げる。


「警備員さん! あのホール奥の化粧室に変態いますから。あ、私は大丈夫なので」


「了解です」


 言葉を交わした直後、スマホの着信音は止んだ。スマホを取り出してみると、「非通知設定」とある。着信のタイミングは完璧だったが……。


「誰?」

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