第2話

 駿平が亡くなったと分かってから、自分がどういう行動をしたのか、凛果には記憶がない。


 共にいたユウによれば、あの後病院の霊安室に行き、変わり果てた駿平の顔を見て、凛果は彼の手を包みながらずっと泣いていたという。それまで一滴の涙も見せずに体を震わせていた凛果は、駿平の亡骸を見て、初めて泣いた。いつまでもいつまでも泣き止まない凛果を、逆に駿平の母親が心配し、その日凛果は彼女の手配したホテルに泊まった。

 その後自宅に帰り、喪服の準備をして、駿平の葬儀に参列した。ユウの知る限り、凛果が駿平の死に涙したのは霊安室の中だけで、葬儀では何の感情も読み取れない顔をしていたようだ。駿平と特に親交の深かったサークルのメンバーが数人参列し、凛果に声をかけたようだが、凛果にはその記憶すらなかった。



 ◇



 それからどのくらい休んで、いつから大学に再び通い始めたのかすら、凛果は覚えていない。


 付き合っている彼氏が死ぬなんて、誰が思うだろうか。

 病気でもないのに、突然いなくなるなんて、誰が思うだろうか。

 全身血まみれになって病院に運ばれるなんて、誰が思うだろうか。


 きっと駿平もそうなのかもしれないが、凛果だって心の準備など全くできていなかった。

 多分あの時、駿平は自分も幼女も助かると思っていたのかもしれない。そう思わなければ、凛果は自分を保てなかった。


 醜い考えなのは分かっていた。だけど止められない。


 本当は……自分の身を挺してまで、幼女を救おうとしたなんて思いたくない。

 道徳的には素晴らしいこと。立派で、勇敢な人。

 でも遺された人の気持ちは? この気持ちを、心のどこに、どんな名前で保存すればいいの?

 駿平……シュンにとって、2年付き合ってた私より、目の前の幼女の方が大事だったの? 価値ある命だったの? 道に飛び出す幼女を見つけた時、私の顔は頭に浮かばなかったの?


 なんであの子が助かって、シュンは死んでしまったの……?


 毎晩毎晩、そんな考えが凛果の頭を支配した。自分がこんな醜い考えを持つ女だなんて、信じたくなかった。自分で自分に幻滅した。

 でも、でもあの時、シュンがあの場所にいなければ、幼女が飛び出したりなんてしなければ——。



 家でも授業中でも卑屈になって、食欲はなくなり、よく眠れなくなった。駿平やユウと出会うきっかけになった演劇サークルも、クリスマス公演が近づいていたというのに、無断で休むようになっていた。配役が決まっていたにも関わらず、全てを投げ出した。

 きっと誰も、こんな卑屈な女とは、一緒にいたくないはずだから。四六時中駿平の死を嘆いている自分に、演技などできるはずもない。


 駿平が亡くなってから2ヶ月ほど経って、凛果は正式にサークルを退会した。誰も引き止めようとしなかった。きっと誰も、凛果の深い心の傷に寄り添う術を持っていなかっただけなのだが、当時の凛果には、引き止める人間が誰もいないことこそが、凛果が卑屈であることの答えになりうると考えていた。


 それから、サークルや恋愛に明け暮れて疎かになっていた就職活動に集中し、ゼミでも仲間を作らず一匹狼で卒論を書き上げた。バイト先の予備校でも、心配してくれるマネージャーと一言二言話すだけで、会話を避けた。今まで何度か出ていた飲み会も避け続けていると、だんだんと誘われなくなっていった。

 そしてたった一人、スーツ姿で証書を持った写真を見知らぬ人に撮ってもらって、凛果は大学を卒業した。就活に過集中したせいで、大学一年の時には考えられなかったような大手企業の総合職の内定を獲得していた。



 駿平がいたら、どんな人生になっていたんだろう。


 内定を取ったら、まるで自分ごとのように笑って、苦しくなるくらいに抱きしめてくれたかもしれない。優しく口づけを交わした後に、「頑張ったから、旅行でも行こうか」って頭を撫でてくれたかもしれない。


 卒業式で袴を着たら、一つ年上の駿平は、仕事を休んででも駆けつけてくれたかもしれない。凛果の全身をくまなく見つめて、「よく似合ってるよ」って笑って、セットした髪が崩れないように、軽く抱きしめてくれたかもしれない。凛果の卒業証書を眺めて、「よく頑張ったね」って、肩をポンポンと叩いてくれたかもしれない。


 勤務先が決まったら、遠距離になっても、毎日電話できていたかもしれない。たった五分でも、「大好きだよ」と、「おやすみ」の声が聞けたかもしれない。



 凛果の頭には、駿平を過去として生きていく可能性など全くなかった。

 内定者の集まりで、凛果に想いを寄せてきた男が一人いた。だけど、凛果の心は一ミリも動かなかった。


 恋人と一緒にやりたいこと、行きたい場所、してあげたいこと、してもらいたいこと。

 その相手の顔は全て、駿平だったから。彼の死後、新しい観光スポットやレストランができたニュースを見たって、凛果の頭では駿平と二人で楽しむ画が浮かぶ。お彼岸やハロウィンの時期に彼がお墓から出てきて、何事もなかったかのように凛果の前に現れるのではないかと、真面目に考えることすらある。



 だからこそ、駿平もいた地元から遠く離れた新生活が、凛果には憂鬱でたまらなかった。

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