今日も耳に、そっとあてて

水無月やぎ

ワイヤレスな彼氏

第1話

 2年前の秋のことを、一生忘れることはないだろう。

 銀杏の葉が黄色く色づき、アスファルトを少しずつ黄色で埋めていこうかという時期だった。昼はまだ日差しが暖かくても、夕方になれば頬を刺すような寒さに身をすくめる、そんな季節だった。


 あの日の夕方5時頃、内田うちだ凛果りんかのスマホは、彼女のコートのポケットの中で長く震え始めた。30分後に迫ったアルバイトに遅れてはならないと走り始めたものの、赤信号に足止めを食らった瞬間のことで、凛果は少々イライラしながら、相手も確かめずに通話ボタンを押した。


「もしもし」


『あぁ、凛果ちゃん? 俺……俺だよ、佐々木ささき悠貴ゆうき


 電話の相手は、ユウこと佐々木悠貴。凛果が大学で所属している、演劇サークルの一つ上の先輩だった。ユウは話す頻度の多い先輩だったが、電話が来るのはこの時が初めてだった。彼の声は、心なしか少々震えているように感じられた。


「ユウさん? どうしたんですか」


『大変なんだ……駿平しゅんぺいが』


「え、シュン? どうしたんですかシュンが」


『駿平が、救急車で搬送された。今、意識がない』


「え……え?」


『おばさん……駿平の母ちゃんが、慌てて俺に連絡してきて。凛果ちゃんも来てくれない? 病院は後で連絡するから』


「は、はい。連絡待ってます」


 すぐに電話を切ったものの、次に何をして良いのか分からなかった。

 歩行者用の信号は青になり、幾人もの歩行者が横断歩道を渡っていく。こちらに向かってくる歩行者の何人かは、青信号なのに歩かない凛果をチラリと見た。しかし凛果は動けなかった。


 どうしよう、どうしよう。

 シュン……私は……。


 立ち止まっている間に、青信号は点滅して再び赤になる。同時に駿平の幼馴染であるユウから病院の住所が送られ、凛果は我に帰った。そうだ、まずはバイト先に連絡を入れないと。


 バイト先のマネージャーに電話を入れ、「身内が危篤なので急遽休む」と伝えた。彼氏と言うより、身内と言った方が許してくれそうな気がすると思うくらいには、頭は微妙に回転していた。普段の勤務態度が悪くないせいか、すんなりと受け入れ、凛果を気遣ってくれた。凛果は一応平謝りをして電話を切り、道端で手を上げた。

 幸い道は渋滞しておらず、行灯あんどんに白い光を灯し始めた一台の黒いタクシーが、凛果の近くに止まった。乗り込んだものの足が震え、そんな自分にひどく戸惑いを覚えた。


「あの、か……河村、えっと……河村市民病院までお願いします、急ぎで」


「分かりました」


 運転手が暖房の温度を上げてくれるのが見えたが、凛果の震えは収まらなかった。車で20分の距離が、何時間にも感じられた。



 ◇



 病院に着くと、エントランスにいたユウが見えた。未だ震える足を何とか前に動かし、凛果はユウのもとに向かった。


「ユウさん!……シュンは」


「凛果ちゃん……」


 ユウは、ゆっくりと首を左右に振った。彼の顔をよく見ると、瞳は真っ赤に腫れていた。

 そんな馬鹿な。


「嘘……ですよね……? 嘘でしょ……?」


「即死に近かったみたいだ……病院に着いた時には、もう……」


「そんな……なんで……なんで、なんでシュンが!」


 思わず昂ぶる気持ちを凛果が抑えたのは、廊下の奥からフラフラと歩いてくる駿平の母親と、彼女の隣で気遣うように歩く見知らぬ女性を見たからだった。


「シュンの、お母さん……」


「皆さん……誠に……誠に、申し訳ございませんでしたっ!」


 長い髪を一つに結った女性が、深々と頭を下げた。女性と凛果を見やりながら、駿平の母親が口を開いた。


「凛果ちゃん、来てくれたの……駿平ね、このお母さんの娘さん、庇ったみたいなの」


「庇った?」


「幼い娘さんが道路に飛び出しちゃったのを、見つけた駿平が咄嗟に庇ったんだって。幸い命に別状のなかった娘さんが、このお母さんに事情を話してくれたんだって」


「シュン……」


「凛果ちゃん。不器用な息子を好きでいてくれて、ありがとうね。ユウくん。あの子といつも一緒に遊んでくれて、ありがとうね……」


「おばさん……」


 謝罪した女性は、「息子さんをお返しできるのが最善なんだって、分かってます。でも、でも……何かの形で、必ず、償わせてください」と言い残し、泣きながら去って行った。その瞬間に駿平の母親が膝から崩れ落ち、ユウが咄嗟に彼女を支えた。駿平の父親や弟は、まだ病院に到着していないようだった。



 目黒めぐろ駿平が、死んだ。

 内田凛果の彼氏が、佐々木悠貴の幼馴染が、死んだ。

 道路に飛び出した、幼い女の子を庇って、大きなトラックにゴロゴロと轢かれて死んだ。22歳で、呆気なく死んだ。



 凛果にとって、初めての彼氏だった。

 大学のサークルで出会った、一つ年上の彼氏。ユウも同じサークルで、彼は凛果と駿平のキューピッドのようなものだった。


 仲の良いカップルだと、凛果は自負していた。

 喧嘩もするけど、翌日までには必ず仲直りをした。会えた日も、会えなかった日も、毎日電話をした。義務やルールではなくて、自然とお互いに。

 昨日だって、いつもの延長線上にあった。「週末会えるね。水族館、楽しみだね」って言ってくれた。「大好きだよ」って、伝えてくれた。


 でも次の日にはもうこの世界にいないなんて、聞いてないよ。

 昨日、照れ隠しで「私も」って返すだけじゃなくて、ちゃんと「私も大好きだよ」って言えれば良かった。「早く会いたい」って、言えれば良かった。


 聴覚は最後まで残るというけれど、病院に着いた頃には事切れていたのなら、もう凛果の声は聞こえないだろう。

 なんで、なんで一人で逝っちゃったの。


 君はまだ、あちらに行くには早すぎるのに。

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