第4話 王朝とは関係ない、民衆の物語

 「諸子十家」の著作リストを作った劉向りゅうきょう劉歆りゅうきんの父子は恐るべき博学のひとで、儒教で経典とされている五経ごきょうを広く研究しました。それだけでなく、暦を改良したり、十二音音階の音楽理論を作ったりといろいろなことをしました。

 十二音ですから、ピアノの一オクターブの間に黒鍵こっけん白鍵はっけん合わせて12音ある、というのを、ピアノが発明されるはるか以前に明らかにしているわけです。


 この父子が生きた紀元前1世紀ごろは、「古文こぶん経書けいしょ」と言われる経典が次々に「発見」された時代でした。

 もともと、経書は、秦の始皇帝のときの「焚書ふんしょ」で多くのものが失われ、その後、学者が記憶していた文章を基礎に復元されました。

 記憶していた文章……って、つまり経書をぜんぶ暗記していたわけですから、これもすごい話です。

 こうやって復元された経書を「今文きんぶん経書」といいます。

 これに対して、「古文経書」は、春秋戦国時代の本がそのまま出て来たんだ、「その証拠に、そのころの昔の文字(古文)で書いてあるではないか!」という触れ込みで登場してきた文書です。

 ……が。

 けっこう偽作が紛れ込んでいるらしい。

 で。

 劉向・劉歆はこの古文経書を尊重する立場でした。


 そこで、その古文経書の一部については、「発見されたのではなくて劉歆が自分で書いたのだ!」と言われています。

 つまり、その時点からでも数百年前のものとされる古典経書を、古代文字を使って書いた。

 しかも『春秋しゅんじゅう左氏伝さしでん』のような分厚い本を自分で書いた。

 紙の発明前ですから、「木簡もっかん」とか「竹簡ちくかん」とかに一行ずつ書いて、革紐かわひもで綴じてぐるぐるっと巻いて……。

 スマホで文章が書けるいまと較べればもちろん、紙の発明後と較べてもとても手間がかかります。

 ――そんな時代に、分厚い(かさばる)本を、わざわざ昔の文字を使って自分で書いたと疑われるくらいなので、すごい博学博識のひと、ということですね。


 まあ、著名な学者として弟子集団を抱えていて、その弟子たちに分担作業でやらせて、自分の名まえで発表したのかも知れませんが。

 暦法とか音楽理論とかも、その道の専門家が、弟子かアドバイザーか、そういう立場でいて、完成させたのでしょうし。

 でも、少なくとも、最後に弟子たちが上げて来た原稿を見て不統一を直す、とかの作業はやってるはずですからね。


 劉向・劉歆の作成したリスト自体は一部を除いて失われたので、そこに「小説」という分類があったかどうかはよくわかりません。

 この著作リストをもとに『漢書かんじょ』「芸文志げいもんし」が作られたときに、「諸子十家」のいちばん下に「小説家」を入れたわけです。しかも、「十家のうちで相手にする値打ちがあるのは九家だけだ(諸子十家、その観るべき者、九家のみ)」、つまりいちばん下の「小説家」は相手にしなくていい、と書かれているわけで。

 まあ、さんざんな言われようです。


 でも、考えようによっては、「小説家はくだらないから最初から入れなくていい」という判断ではなく、「小説家はくだらないけどいちおう入れておこう」という判断になったのだから、「無視できないだけのものを小説家の作品は持っていた」ということ……なのかな?


 ちなみに、『漢書』を書いた班固はんこも、劉向・劉歆と同じく、「儒教(儒家)をとても尊重するひと」でした。これは班固個人の問題でもなく、班固の生きた後漢ごかんの時代は儒教(儒家)が偉かった時代なのです。


 儒教は古代王朝のしゅうを尊びます。周王朝そのものは春秋戦国時代の終わりまで存続しますが、儒教が理想としたのは周王朝の始まりごろでした。

 『漢書』が成立した時代から見ても千年以上も前の時代です。その時代のことはよくわからなくなっていましたし、経書でいろいろと理想化されていましたから、儒教の描く周王朝の制度は、現実の制度というよりも「儒教の理想の制度」という性格が強くありました。


 それで、『漢書』「芸文志」でも、「諸子十家」は周の王の官制から始まった、という説明をしています。

 儒家は教育官(司徒しと之官)から、道家は記録官(史官)から、というわけです。

 そして、小説家は「稗官はいかん」から、とされています。

 稗官というのは、「街で話されていること、道で話したりきいたりしたことを集める」役人というもので、その街で見聞きしたことを集めたのが「小説」というわけです。

 つまり、小説は、王朝で伝えられたものでも、王朝が民衆を「教化」するために作ったものでもない。

 もともと民衆のものだったのです。

 もちろん、儒家は紀元前1000年ごろの教育官から始まったわけではなく、紀元前5世紀ごろ、孔子の生きた時代のの国の状況を強く反映して生まれました。道家も紀元前1000年ごろの記録官から始まったわけではありません。

 だから、この『漢書』「芸文志」による「小説家の起源」の説明も、たぶん史実ではないのでしょうが。

 でも、『漢書』が編集された時期、「小説」というのが、「民衆のあいだで流行している」、王朝の記録にもならなければ、王朝による管理や教化にも役立たない、王朝にとって何の役にも立たないものと認識されていた、というのは言えるわけです。


 王朝とは関係なく「民間社会」に流れている民衆の物語――それが「小説」。

 いや。

 それって、いいんじゃない?

 『漢書』は儒教的な価値観から「小説」を低く評価するためにそう書いているわけですけど、私たちから見れば、政治の都合に合わせて生まれたものではなく、人びとのあいだから生まれてきた物語というのは、けっしてマイナスの評価にはならない。

 むしろ、そう評価してもらえたことは、「小説の起源」にとって誇りにできることなんじゃないかと私は思います。

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