第35話 屁理屈も使いよう
帰り道の俺たちにこれと言って会話はなかった。陽葵と夏希が歩幅を合わせて歩くその少し後ろを、俺は密かに見守るような気持ちで追いかける。
さては互いに気を遣っているのだろうか。
これまでは気さくに話しているイメージだったから、この神妙な空気が違和感ですらあった。
とはいえあんなことがあった後だ。
こうなるのも当然と言えば当然か。
「ねぇ、陽葵」
市街地から外れ、住宅街に入ったところで。
夏希の一声が、俺たちの間にあった沈黙を破った。
「相談、聞いてもらってもいい?」
「うん、いいよ」
神妙な声音で呟かれた”相談”という一言に、場の空気は更に重みを増した。目を合わせずとも、心で向き合っているであろう二人の会話に、俺は静かに耳を傾ける。
「前々から言おうとは思ってたんだけどさ」
「うん」
「でもこれを言って嫌われたらヤダなって」
「うん」
「だから、中々言えなかったんだけどさ……」
やがて数秒ほどの間を置いた夏希。
覚悟を決めたように続きの言葉を口にした。
「実はうちね、敬語が使えないんだ」
それは予想していたほど重くはない。
だがきっと夏希にとっては非常に重要な相談。
「どうしてなのかはよくわからないんだけどね。敬語を使おうとすると、頭がパニックになっちゃって、途端に言葉が出てこなくなっちゃうの」
思えば最初からこの子は、俺に対してタメ口だった。俺はそういうの一切気にしないから、『意外とフレンドリーな子なのかもな』ぐらいの認識だったが。
「美緒ねぇには気にしなくていいって言われてる。でも今年は受験もあるし、何とか敬語で話せるようになろうっていっぱい練習してるけど……やっぱりダメで……」
気にも留めていなかったことの裏に、まさかそんな事情が隠れ潜んでいたとは。敬語を使えないとなると、当然年上とのコミュニケーションは困難になる。
そりゃ安達とあんだけバチバチになるわけだ。
「そのせいで、今日も美緒ねぇに迷惑かけちゃった……」
「迷惑だなんて、美緒さんは思ってないと思うよ?」
「それでも、うちのせいでああなっちゃったのは事実だから」
俯きながらそんな弱音を溢す夏希。
弱った友人を前に、陽葵は悲し気に目尻を下げた。
「うち、ダメな子なんだ。いっつも誰かに迷惑かけてて……」
「そんなことない。なっちゃんはすごく優しくていい子だよ」
「ありがとう。うちも陽葵のことは大切な友達だと思ってる」
ここで、夏希は不意に足を止めた。
両手をグッと握りしめ、俯いた彼女の横顔は酷く荒んでいて――やがて全てを諦めてしまったかのような、乾いた笑みを浮かべ呟いた。
「でも、他の人は違うから」
あまりにも脆く、今にも消えてしまいそうな声だ。
「陽葵や美緒ねぇが許してくれても、他の人は許してくれないから」
きっとこの子は理解している。
今のままではダメだということを。
ちゃんと理解しているからこそ。
こうして思い悩んでいるのだろう。
「敬語を使えないことで、たくさんの人に迷惑を掛けちゃうから。今日みたいに美緒ねぇの友達と喧嘩したりして、結局は大切な人たちを傷つけちゃうんだよ」
「なっちゃん……」
「ホントは敬語が使えるようになりたい、でもうちにはできないの……」
頭ではわかっていても現実はそうならない。
それで苦しむ夏希の気持ちは痛いくらいにわかる。
「やっぱりおかしいんだよ、うちって……」
話しているうちに、色々な感情が溢れ出てしまったのだろう。相談の一言から始まった二人の会話は、いつしかとても重く深刻な空気を伴っていた。
落ち込む夏希をただじっと見つめている陽葵。
きっと陽葵は友達として、夏希の悩みを自分のことのように捉えているんだろう。唇をグッと噛み締めるその横顔は、あまりに辛そうで見ていられなかった。
「なっちゃん……」
何か声を掛けて慰めてあげたい。
そんな想いがひしひしと伝わってくる。
「陽葵は……」
ここは俺が出るべき場面じゃないのかもしれない。
だが別れ際、最後の最後に古賀はこう言っていた。
悪いけど井口、夏希のことよろしくね。
もしかしたらあいつは、こうして夏希が落ち込むことを想定していたのかもしれない。それであの言葉を残したのだとしたら――今の俺に出来ることは一つ。
「別におかしくないだろ」
俺は考えるよりも先に声を発していた。
これにより二人はハッとした顔で俺を見る。
「おかしいところなんて一つもない」
そう言ったのはいい。
が、あいにく俺には、夏希を肯定できる根拠はない。ただ、自分の役割を全うするという使命感だけで、言葉を繋いだだけのことだった。
「なんでそう言い切れるの……?」
となれば当然。
夏希はそう返すだろう。
なんでおかしくないと言い切れるか。
それを証明するだけの明確な根拠は?
正直に言う。
そんなものは知らん。
なぜなら俺はただの
落ち込んでいる女の子を立ち直らせることができる、いかにも主人公らしい能力は備わってないし。優しい言葉で人を慰められるほど、性根の綺麗な人間じゃない。
ステータス不足の俺では、まず間違いなく正攻法で解決するのは不可能なのだ。となれば俺に残されたのは、正攻法からハズれた変化球を投げることのみ。
敬語が使えないことを肯定できる明確な根拠はない。明確な根拠がないなら……それをでっち上げてしまうというのはどうだろう。
おそらく今の夏希に必要なのは正論じゃない。
要は敬語を使えないことは悪いことじゃないと、夏希が自覚できたならそれでいい。これを成し得る為に必要なのは、正論と真逆の、俺が最も得意としている曲論。
(やれ、井口悠。捻くれたお前を今こそさらけ出すんだ)
いつもの屁理屈な自分を叩き起こせ。
そしてその屁理屈を極限まで活かせ。
正論をそれ以上の屁理屈で上書きしろ。
「いいじゃねぇかタメ口。何というかこう、お手軽で」
何を言うかなんて決まってない。
どうすれば夏希を慰められるかもわからない。ひねくれ者の
「俺は敬語より断然タメ口派だね。敬語なんてクソくらえだ」
「クソくらえって……」
もっともっと頭を回せ。
「あんな言葉はただの言い損だ」
事実を、正論を、全て上書きしろ。
「考えてもみろよ。敬語なら『ありがとうございます』のところを、タメ口ならたった5文字の『ありがとう』で済ませられる。文字数が半減するんだよ」
我ながら酷い言い分で笑ってしまいそうだった。
が、今ならこの笑いすらも有効な武器として使える。
「こんな効率が良くて楽な言語、使わない方が損だろ?」
「それは、そうかもしれないけど……」
今の俺は一体どんな顔をしているのか。
考えただけで、どんどんどんどん笑えてくる。
「つまりお前は得をしているということだ」
「得って……」
あまりの暴論故に、当然夏希は困惑していた。
「でもいつかは敬語を使わないといけない時が来るよ」
「まあそうかもな。今のはあくまで俺のご都合的解釈に過ぎない」
「じゃあやっぱりうちは――」
「だが!」
正論を言う暇なんて与えてやらない。
赤っ恥を承知で、俺は大きく胸を張った。
「それの何がわるい!!」
「えっ……?」
「お前は今、いつか敬語を使わないといけない時が来ると言ったな?」
「う、うん」
「ならそんなものは、使うべき時が来た時に考えればいいだけの話だ」
ここまで来ると夏希も絶句。
目を丸くして、呆れたように俺を見ている。
「それじゃ問題を先延ばしにしてるだけじゃ……」
「いいじゃねぇか先延ばし。夏休みの宿題だって最終日まで持ち越すのがセオリーだろ?」
俺が得意げに語ると、夏希は眉を顰めて言った。
「めちゃくちゃだよそれ……」
「そう、俺はこんなにもめちゃくちゃな人間なんだ」
今更めちゃくちゃな自分を繕う気はない。
むしろそんな自分をさらけ出したからこそ、言えることがあった。
「めちゃくちゃな人間だけど、傍に居てくれる奴は確かにいる」
「……っっ」
「俺に比べれば、お前なんてまだ可愛いもんだろ」
困惑の色に満ちていた夏希の瞳がキラリと揺らいだ。
「敬語が使えない? なら使わなきゃいい」
ここまで言って、俺は大きく息を吸った。
そして腹に残った想いを一つ残さず吐き出してやる。
「タメ口上等! むしろ推奨! 少なくとも俺や陽葵、そしてお前の姉貴だって、今の、ありのままのお前だから傍に居ようと思うんだ」
言いながらくっさい台詞だと思った。
でもこれは俺の本心であることには違いない。
夏希が抱えている問題は、今すぐ解決できるほど簡単ではない。だが、それを克服したいからって、無理に焦る必要は一ミリも無いと俺は思うのだ。
ありのままの自分を受け入れてくれる人たちと共に、ゆっくりとその問題を解決していく。今この子に必要なのは、信頼できる人との協調なのではないだろうか。
「そ、そうだよ! なっちゃん!」
と、ここで。
陽葵も俺に続いて慰めの言葉をかける。
「なっちゃんはすごく可愛くていい子だよ!」
うんうん。
「悠にぃなんかよりも百万倍くらい立派だから!」
うんう……ん?
「だから自分を責めないで! 責めるのは悠にぃだけにして!」
おい、マイシスター。
夏希を慰めるために俺を傷つけるのはやめろ。
「今のままのうちでもいいのかな……」
全てを聞いた上で、夏希はポツリと呟いた。
だがその表情には、未だ不安の色が残っている。
「ああ。少なくても俺はそう思う」
だから俺は迷いなく頷いてみせた。
「陽葵も! なっちゃんはなっちゃんだから好きなんだよ!」
陽葵も続いて、ありのままの夏希を肯定する。
「そっか……そうだったんだね」
やがて夏希は目に溜まっていた涙を慌てて拭った。
「ごめんね、うち相談とか言って急に落ち込んで……」
「いいんだよ。誰でも不安になることくらいあるもん」
きっと不安で不安で仕方がなかったのだろう。
そっと身を寄せ合った二人は、揃って大粒の涙を零していた。
「なっちゃん、大好きだからね!」
「ありがとね陽葵……ありがとっ……」
目の前で繰り広げられる友情に、自然と笑顔が漏れる。
これで古賀に与えられた役割をこなせただろうか。結局何一つとして根拠は見つからなかったが、俺の曲論で少しでも夏希の傷が癒えてくれたのならそれでいい。
(屁理屈も使いようだな)
* * *
「うち、ここだから」
やがて俺たちは古賀家へ到着。
玄関前の階段を上がる夏希の背中を、俺と陽葵は静かに見送る。
「今日はごめんね。二人にも迷惑かけちゃった」
「気にすんなよ」
「そうそう。陽葵はぜーんぜん気にしてないよ!」
安心したように微笑む夏希。
が、すぐに目尻を下げては。
「美緒ねぇにも後で謝らないと」
と、姉思いなそんな一言を。
「謝るのもいいが、あいつの場合もっと違う何かを期待してると思うぞ」
「それもそうかも。美緒ねぇ重度のシスコンだし」
「それはうちの悠にぃも一緒!」
そう言って顔を見合わせた二人は、ぷすっと噴き出した。
そんな微笑ましい光景を前に、ついつい俺の口元も緩む。
「じゃあ、今日はありがとね」
「おう」
「じゃあね、なっちゃん」
やがて夏希は扉に手を掛けた。
そしてガチャリと、一度は玄関を開けたのだが。
「あ、そうそう。一つ言い忘れてたことがあったんだった」
そう言うと、くるりと振り返る。
その夏希の視線は、なぜか真っ直ぐ俺に。
「ん、どうかしたか?」
もしや明日の集合時間とかだろうか。
夏希の言葉をじっと待っていると――。
「うちも”悠にぃ”って呼ぶことにしたから」
「へっ……!?」
飛び出したのはあまりに予想外な一言。
これには思わず素っ頓狂な声が漏れた。
「悠にぃって……じょ、冗談でしょ……?」
確認する意味も込めて夏希の顔を見やれば。
徐々にその口角は上がり、やがて年相応の悪戯な笑みに。
「これからもよろしくね、悠にぃー」
にひっと笑い、家の中へと入っていく夏希。ガチャリと閉められた扉を前に、俺は訳も分からず、しばらく立ち尽くすことしかできなかった。
「いやぁ、新しい妹ができちゃいましたなぁ」
やがて陽葵はおちょくるような口調で言う。
「これはめでたいめでたい」
「いや、笑い事じゃないけどね……」
何がどうなってそうなったのか。
夏希の思考が一ミリたりとも理解できん。
「きっとなっちゃんは、悠にぃのこと認めてくれたんだよ」
「だからっていきなり過ぎない? 今日会ったばっかだよ?」
「時間は関係ないと思うけど」
別に夏希に悠にぃ呼びされるのが嫌とかじゃない。むしろその辺は好きなように、呼びたいように呼んでくれて構わないと思っている……が。
(これ、古賀に知られたらマズくない?)
俺が懸念しているのはこれ。
もし明日以降、古賀の前で夏希が俺を悠にぃ呼びしようものなら、重度のシスコンであるあの人に、ボコボコにされる可能性がある。
「わりぃ、お兄ちゃん死んだかも」
「どうして!? もしかしてなっちゃんが可愛すぎた!? キュン死!?」
俺はそんなチョロい死に方はしない。
「ダメだよ? なっちゃんに手出したら」
「出さねぇよ……それこそ即死案件だわ」
冷静に突っ込むと、続けて陽葵は顎に手を置いて「んー」と喉を鳴らした。
「でも困ったなぁ」
「どしたの」
「これじゃますます悠にぃのシスコンに拍車が掛かっちゃうや」
なるほどなるほど。
兄がシスコンだとそういう懸念も生まれるんですね。
「安心してくれ、その辺は大丈夫だ」
「ホントにー?」
疑いの目を向ける陽葵に、俺はグッと親指を立てて見せる。
「だって俺の妹愛は、あくまで陽葵に対してのものだからな」
「うわっ、サラッとキモいこと言う悠にぃマジ引くわぁ……」
「……」
心配してたっぽいから言ったのに……。
少しくらいお兄ちゃんの愛を受け取ってくれてもいいじゃんかぁ……。
「でも」
と、陽葵は唐突に神妙な面持ちに。
そのままゆっくりと俺の前を通り過ぎた。
一歩、そしてまた一歩。
その小さな背中が遠ざかっていく。
帰るのだろうか。
そう思い、あとを追おうとしたその刹那。
陽葵は背中を向けたまま、夕日に向けてポツリと呟いた。
「今日の悠にぃは凄くカッコよかったよ」
「えっ……」
あまりにも唐突すぎて、頭の中が真っ白になる。
き、聞き間違いだろうか。
もしかしなくても今、俺のことをカッコよかったって――
「わるい陽葵、もう一回言ってくれる?」
我に返った直後、当然俺は事実確認をした。
が、くるりと振り返った陽葵は、顔の前で大きな罰点を作ると。
「いやでーす。もう一回はありませーん」
容赦なく俺の願いを切り捨てたのだった。
「えぇぇぇぇ!! たのむよぉぉぉぉぉ!!」
「ムリでーす」
「後生ですからぁぁぁぁぁ!!」
必死に懇願するも、その後の陽葵は嫌だ無理の一点張り。結局俺は陽葵の『カッコいい』を引き出すことは出来ず、あの一瞬は俺の中で伝説の数秒となった。
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