第39話 出動

 一時間後、真夜中にも関わらず、寝静まっていた宮廷からランプ用の油がかき集められた。人一人では持てないほど大きなカメにいっぱいだ。それを荷車に乗せて前をラブローが引き、後ろでネイピアが支えて運ぶ。東街区側にあるロキ大橋の門前まで来ると、多くのたいまつが二人を出迎えた。待機している兵たちだ。


 ネイピアとラブローに冷たい視線が注がれる。国王が派遣する密使という扱いになっていたから手出しはできない。しかし、あからさまに嫌がらせをしてきた。唾を吐きかけられ、泥を投げつけられた。しかし、二人はそれを気にも留めず油を運んでいく。


 橋のたもとにくると、「開けてくれ」とネイピアは一言つぶやいた。


 鉄格子の門が開き、長いロキ大橋の道筋が見えた。二人は荷車を慎重に押して行った。ガタガタと石畳の上を転がる車輪の音があたりの静寂の中、聞こえてくる。


 ネイピアは近づいてくる西街区の街並みを見ていた。寝静まっているようにしか見えないこの街で、今、確かにこの国は亡国への道を辿ろうとしているのだ。


 錯乱したジューゴの表情が忘れられない。あれは人間ではなかった。魔物だ。自分は魔物の巣窟へと足を踏み入れようとしているのだ。頭ではそう考えても、目の前に広がる大陸屈指の美しさを誇る街並みが邪魔して不気味なほどくつろいでいる自分にネイピアは気づいていた。美しいとすら感じてしまう。


 さまざまな思いがネイピアの脳裏を掠める。駆け出しの軍人だったころ、作戦決行が近づくほど、なぜか心が落ち着いていったことがあった。決死の作戦と言われ、成功率も低かったにも関わらずだ。数時間後には命を落としてしまうのかもしれないと思いながら、草原を撫でる風を心地よく感じていた。数日前、作戦を聞いた時には緊張が走り、逃げ出してしまいたい気持ちになったのに。


 経験の浅いラブローはどうだろうか。これはまさに決死の作戦だ。地下牢で相談した時、ラブローは二つ返事で「一緒に行きます」と言った。その瞳に迷いなどカケラもなかった。


 しかし、ラブローには戦地での経験はない。命を懸けるということがどういうことか本当に理解しているのか? いや、理解することと現場で感じる全身を駆け巡る死への恐怖は別物だ。次元が違う。それは理性ではどうにもならない。生へ執着する生き物のどうしようもない性なのだ。それを感じた時に初めて理解するのだ。本当の恐怖とはこういうものなのだと。


 ラブローはもしかしたらこの先に待ち構えている地獄を目の当たりした時、後悔するかもしれない。たまたま赴任してきた自分みたいな男と組むことになっただけで、軍紀は犯すわ、牢屋には入れられるわ、挙げ句の果てに立った二人で死地へ送られるわ。ずいぶんとツイてないやつだ。


 ネイピアは前を行くラブローの背中を見ていた。もう部下が死ぬのは見たくない。


「ラブロー、無理はするなよ」


「はい、班長」いつもと変わらない声の調子だ。ラブローの本心は読み取れなかった。


「とにかく死ぬな、分かったか?」


「はい、班長。なるべく死なんように頑張ります」


「なるべくじゃねえ。絶対だ」


「班長」


「なんだ?」


「小せえ頃、夜中に急に怖くなったことありませんか? 真っ暗な中、眠れんで一人、死んだら僕どうなるんやろうかっち考えて。今ものを考えちょる自分がいなくなるっちどういうことなんやろうかっち。そりゃ考えても分かるわけないんやけど」


「ラブロー、今なら間に合うぞ。引き返せ。俺一人でも大丈夫だ」


「いや、今、別に怖いわけやないんです。なんか、あん時のこと急に思い出して……多分、逆に今、こげえ落ち着いちょん自分が意外で、自分でもよう自分のこと分かっちょらんのやなあって。あ、何言いたいかよう分からんなって、すんません」


「フン、なんとなくしか分からんが、俺も一緒だよ」


「ありがとうございます」


「は? 何がだ?」


「別に僕、ヒーロー願望とかなかったんやけど、今はなんかヒーローの気分味わっちょります。これは班長のおかげや」


「訳のわからんヤツだなあ、アハハ」



 ロキ大橋を渡り終え、対岸の門にたどり着いた。鋼鉄の格子扉は閉じられていて誰もいない。普段ならばここには衛兵がいるのだが。


 ラブローが扉のかんぬきをはずした。


「ゆっくりだ。ゆっくりやれ」ネイピアは小声で指示を出した。


 ラブローは、頷いて少しだけ扉を開けた。ネイピアが覗き込む。


「ここには誰もいないみたいだな」


 ほっとしたように言った瞬間、向こう側から扉に強烈な力が加わった。衛兵だ。錯乱した大柄の男が不気味な唸り声を上げて、こちらに入ってこようとしていた。


「閉めろ!」ネイピアが叫んだ。


 二人で扉を押して閉めようとするが、相手の力は並大抵じゃない。二人ははじきとばされ、扉は開いた。


 ネイピアは剣を抜いて構えた。しかし、斬りつける間もなく、男は倒れた。


──ガシュッ。


 衛兵の首に突き立てられたのは、ガラスのビンの破片だった。静脈が切れ、おびただしい血が吹き出した。その背後で血まみれになっていたのは、十四、五歳くらいの少年だった。


 少年はネイピアに狙いを定め、ガラス瓶を振りかざしながら、襲いかかってきた。ネイピアは、一瞬躊躇したが、少年の胸に剣を突き刺した。断末魔の叫びと共に、少年は倒れた。返り血を浴びたまま立ち尽くしているネイピア。


「なんだんだよ! 畜生!」ネイピアは転がっていた樽を蹴飛ばした。手には少年を殺した感触が残っていた。


「危ない! 班長‼︎」ラブローが叫んだ。


 ネイピアが振り返ると、完全武装した衛兵が剣を振りかざしていた。


──やられる!


 目を見開いたネイピアだったが、斬撃の音と共に衛兵は崩れ落ちた。ラブローの剣が衛兵の胴体を切り裂いていた。門前に倒れる三つの死体と二人の剣士。しばし、時間が止まったように動かなかった。


 やがて、ラブローが口を開いた。「何がなんだか分からんです」その目からは涙がこぼれ落ちていた。「こいつは、ここの門番で、結構イイやつなんです。挨拶すれば返してくれるし、馬鹿話にも付き合ってくれるし……酒をおごってくれたこともあった。なのに、僕は……」


「黄色い花にかかれば、どんな人間だろうとこうなる。ジューゴのおっさんも、そうだった。そして、俺はおっさんを殺した」


「ヤツらはヤツらで殺し合いを?」


「錯乱した人間には敵も味方もない。ただ、目の前にいるヤツを殺そうとするんだ」


「ミューロの村で何が起きたんか、ようやく分かった気がします」


「この様子じゃ、街の中は油を運べねえだろう。一旦ここに置いて行くぞ」


「はい」

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