第31話 フラーツ・ロマ

 フラーツ・ロマは大聖堂にいくつもある聖人像の彫刻の裏に身を潜めていた。もう丸二日、腹に何も入れていない。空腹で死にそうだ。


 ロマは腹の虫が鳴くたびに肝を冷やしていた。少しの物音でも響くのだ。誰かに気づかれでもしたら……。夜中になり、人の気配がなくなると、ロマは動き出した。隠し部屋に入り、ペダルを操作して地下道へと戻った。


 真っ暗だったが、何日かここで暮らすうちに勝手が分かっていた。壁伝いに歩いて、ランタンを隠している場所を探り当て、灯りをつけた。やはり黄色い花は蹴散らされて、滝壺へと落ちてしまったようだ。


──探さなければ。一株でいい。見つけなければ。


 ランタンの灯りを滝壺へと向ける。岩肌に目を凝らし、隈なく探す。こんなことで長年の計画を台無しにされてなるものか。


 滝から上がる水しぶきを長時間浴び続け、すでに服はびしょ濡れだった。夜の冷気がどんどん体温を奪っていく。


 ロマは故郷の渓谷を思い出していた。そこはボミラールルから遠く離れた小国で風光明美な景色が広がっていた。


 標高が高く固有の高山植物がたくさんあった。その一つがリグル草だった。黄色い綺麗な花が美しく、群生する花畑は圧巻だった。いつも仲間たちと花畑で遊んでいた。しかし、大人たちに見つかると厳しく叱られた。他の花畑なら何も言われないのになぜ? 


 子供たちのそんな疑問は、成長するにつれ、自然と分かって行った。リグル草の花粉を吸い込むと幻覚を見るのだ。村ではその花粉を集めて輸出していた。麻薬で生計を立てていたのだ。


 荒涼とした不毛の山地には、作物は育たず、家畜も痩せこける。生きるために、村人は代々麻薬を売ってきた。

しかし、麻薬の原料であるリグル草のことは門外不出だった。どうやって麻薬を手に入れているかは村人以外の者には絶対に知られてはいけないというのがルールだった。知られると略奪が起きるからだ。


 ロマが思春期を迎えたころ、高山植物の効能に興味を持った。花畑を一緒に駆け抜けていた友人たちは、すっかり渓谷に足を運ぶことはなくなり、恋文を書いたり、愛の歌を歌ったりしていた。


 しかし、ロマが恋していたのは植物だ。リグル草の他にも、さまざまな効能を持つものがあった。ある葉っぱは煎じて飲むと、胃腸にいい。花の蜜が下痢止めになるものもあった。家に代々伝わる本を参考に、いつも渓谷に出掛けては植物採取に勤しんでいた。


 あの日も、渓谷でリグル草によってくる虫を観察していた。この小さな生命も幻覚を見ているのだろうか? そんなことを想像しながら観察をしているとロマは時間を忘れた。いつしか、太陽が山の陰に隠れ、暗闇がすぐそこまで迫って来ていた。ロマは慌てて、山を下りて集落へと帰って行った。


 半分ほど下ると集落の灯りが見えた。ロマはほっとした。しかし、何かおかしい。異変を感じた。あちらこちらから煙が上がっている。


 おそるおそる村に戻るとそこは地獄だった。裕福な村に何かあるとふんだボミラールルの将軍が軍を派遣し、村を襲ったのだ。


 村人はリグル草のことは隠し通した。それが村の再建の唯一の方法だからだ。しかし、軍隊は村に何もないことを知ると、女たちを陵辱し、男たちを無残に殺した。まさに悪魔の所業だった。ロマの両親も剣を突き刺され、殺されていた。村中が血に染まっていた。結局、村人はロマを残して皆斬殺されていたのだ。


 軍隊が去ったあと、三日かけて村人の死体を集め、土に葬った。その途中、長老の家である本を見つけた。それには禁止となったリグル草の育て方が書いてあった。かつて偶然発見され、封印された死の麻薬だ。


 ロマは復讐を誓った。それから三十年の歳月をかけてリグル草を改良し、禁断の花を作り上げたのだ。


 そして、十年前にボミラールルに入国し、ミューロの村で実験を行った。


 ロマの読み通り村は滅んだが、課題があった。花粉を吸い込んでいるはずなのに、錯乱しないものも多かったのだ。後の実験で、人によって耐性が違うことが分かった。耐性のない者は錯乱状態になるが、多くの者は何の変化もない。


 村を滅ぼすだけであればこれで十分かもしれないが、ロマの標的はボミラールル王国の首都ベルメルン、大陸でも有数の大都市だ。ロマの村を滅ぼした軍隊はそこから派遣されたものと聞いている。


 改良にはさらに十年かかった。繁殖能力もパワーアップさせた。最強の兵器だと自負があった。戦争ではなくこの美しい花でボミラールルは滅びるのだ。しかも、何が原因か分からぬまま恐怖におののきながら。


 ベルメルンの住人たちのそうした表情を思い浮かべるだけで、幸せだった。それだけがロマの生きがいだった。


 最初の計画は宿屋で苗木を育て、広場で売るつもりだった。そうすれば花好きの住人たちが勝手にベルメルン中に”あの成分“を広めてくれる。百株ほど街の中に持ち込んだ。


 しかし、タッカーの宿に泊まっていると、あの若者が現れたのである。いきなり苗に火をつけると、ロマに切り掛かってきた。右手首を切り落とされたが、何とか十株ほどズタ袋に入れて逃げ出すことができた。


 しかし、なんとか持ち出した株も花がもげていた。そこで、ここの井戸からの太陽光と井戸水で三日ほど育て、花も蕾をつけた。ようやく明日、ベルメルン中の花壇に一株ずつ植えようとしていた。


 そんな時、あの二人がやってきたのだ。屈強な体をした巡察隊員と自警団長のジューゴ・バン・マルディナードだ。今度は逃げるのが精一杯で一株も確保できなかった。


──あいつらのせいだ!


 ロマがいくら探してもリグル草は見当たらない。諦めかけたころ、ふと上を見ると、井戸の穴のちょうど真上に満月がさしかかり、地下室をほのかに明るくなった。


 今まで死角になっていた岩の窪みに一株だけ引っかかっているのが見えた。滝壺に落ちることなく、巡察隊の目を逃れ、奇跡的に生き残っていたのだ。


──神が導いてくれている。


 ロマは計画の成功を確信した。


 腹ばいになって手を伸ばす。しかし、届かない。リグル草をつかむには直角の岩壁を二メートル以上下る必要がある。


 屈強な若者でも難しいだろう。ましてやロマは片方の手首から先を失った状態だ。足を滑らせれば、滝壺が待っている。しかし、行くしかない。ロマは轟音の穴の中へ入って行った。


 足場はようやく親指の先が引っかかっているだけだ。左手の指だけで体を支えている。しだいに力が入らなくなってきた。


──もうダメだ。


 また、あの渓谷のことを思い出した。高山植物を追い求めるあまり、いつしか足場の厳しい岩場に入り込んでしまった。戻りたくても戻れない。来る時に足をかけていたところはもろく崩れていた。あの時、初めて死という恐怖を感じた。その時、かけられた声を思い出す。


「ほら、フラーツ。そっちの手を出せ」


 声の主は親友だ。いつも助けてくれる親友。頼りになる親友。ロマの顔は自然と綻んだ。

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