第19話 ワネルの人面岩

 昨夜からの雨で今日のトロヤン川は濁流となっていた。ようやく雨足は弱まったが以前として、しとしと嫌な雨が降っている。


 ネイピアが消えて三日目。ラブローは、自腹で船頭に金を渡し、舟に乗ってトロヤン川を下りながらネイピアの姿を探していた。


 戦場を生き抜いたネイピアのことだから、まず死んではいないだろう。しかし、自分が見つけない限りネイピアは投獄……いや殺されてしまうことだってありえる。


 実際、ラブローはネイピア捜索の陣頭指揮にあたっているメイレレス中尉がこう言うのを聞いた。


「もし、ネイピアの野郎が息をしてたら、殺せ。俺が許可する。報告書には溺死と書いておくがな」


 ラブローは捜索隊をこっそり抜け出して一度寄宿舎に戻り、ズタ袋に着替えやパンなどを詰め込んで持ってきていた。自分用ではない、ネイピアの逃走のための備えだ。


 ラブローには分かっていた。ネイピアは自分に責任が及ばないようにあえて一人で行動しているのだ。


 ロキ大橋の上で話をした後、何か作戦を思いついたというネイピアに問いただしたが、ついぞ何も教えてくれなかった。


 そして、「女のところに行くからお前は帰れ」と言われた。嫌いだと言っていたチーズは、女への差し入れだと。それは確かに嘘ではなかったが、まさかその女というのが新聞記者だとは。


 ほんの数日のことだが、ネイピアと共に行動したラブローは良くも悪くもその振る舞いに感化されていた。今までは当たり前だと思っていた巡察隊の任務だったが、それは上から言われたことを機械的に行う操り人形に過ぎなかったのだと気付かされた。ネイピアは自分の頭で考え、行動している。ワクワクしている自分がいた。巡察隊として過ごす毎日に自分がこんなにも辟易しているとは思わなかった。彼に着いていけば、事件を解決できるのではないか。そして、何か知らなかった景色が見られるのではないか。


 だから、自分自身のためにネイピアを救うのだ。そうすれば、ネイピアは自分を認め、次に何か大きなことをやらかす時には、誘ってくれるに違いない。そうなってこそ真の相棒と言えるだろう。


「もう暗くなってきましたぜ。そろそろ切り上げた方がいいんじゃないですか?」


 船頭の言う通り、だんだんと視界が狭まってきている。もうすぐ漆黒の闇が訪れるだろう。


「もう二十ステア余分に払うっちゃけん。もうちょい、頼むよ。たいまつも持ってきちょるけん」


「へいへーい。お好きなように」


「すまんねえ、船頭さん」


 ラブローはたいまつに火をつけた。


「こっちは金さえもらえれば何でも。しかし、巡察隊のみなさんも大変ですなあ。そんなにしてまで」


「他の隊員はもう引き上げちょるよ。さっき城の鐘がなったやろ? あれが終業の合図やけん」


「アンタはなぜ、引き上げないんです?」


「放火事件あったやろ?」


「ああ、タッカー・ヴォルドゥの宿が焼かれたやつ?」


「そう。あの事件を解決するためなんよ」


「アンタが探してる、その班長だったか、その人とどう関係があるんです?」


「真相に迫れるのはあの人だけなんや。他の連中には期待できん。やけん、俺は事件を解決するために班長を見つけなならんのや」


「なぜそれを早く言わないの⁉︎」


「え?」


「ワシだってタッカーの友達だからね。あんな酷いこと……絶対に許されないよ!」


「そうやったんか」


「金なんていい。ダンナ、あんたこの後、時間はあるかい?」


「いくらでも」


「じゃ、ワネルの人面岩のところまで行こう」


「人面岩? なんじゃそれ?」


「ここからだいぶ下流の方になるんだけどさ、もう岸はうっそうとした森でねえ、そこに人間の顔みたいな形の巨石があるんだ。それがワネルの人面岩。そこにアンタの探し人はいるかもしれない」


「なんでそげなことが分かるんかい?」


「ロキ大橋から身を投げて自殺するものは少なくないんだけどさ、必ずと言っていいほどそのワネルの人面岩のあたりに打ち上げられるんだ。このへんの船乗りならみんな知ってることさ」


「なるほど。じゃ、船頭さん、骨折れるやろうけど頼むわ」


「まかせとけって」


「で、人面岩ってデカいんかい?」


「四、五メートルはあると思うけど、その名のとおり顔に見える岩さ。表情がまた怖いんだ。何かに怯えているような、呪っているような。だから、俺たちが前を通るときは目を合わせないようにしてる」


「気味が悪い話やなあ」


「その岩はもともと川を下る人間を襲って食ってた悪魔だったのが、大昔に名のある魔法使いによって石化されたんだとよ。石になってからでも人間の身体を欲している、なんて言い伝えがあるくらいだ」


「だから、死体が流れ着くん? 悪魔の仕業?」


「アハハハハ、んなわけないだろうよ。俺は信じないね。ちょうど川がカーブしてるところでね、たまたま水の流れがそうなってるだけだろうよ」


「なるほど」


「だいぶ下るから時間はかかるよ。覚悟しな、あんちゃん」


「了解。しかし、そんなところに班長は流れ着いてたとして、大丈夫やろか?」


「戦争の英雄なんだろ?」


 二時間は下っただろうか。すでにベルメルンは遠く離れ、森の中を船は進んでいた。たいまつの明かりの届かない暗闇では時折、何かが飛び立つ音がしたり、木々の葉を揺らす音がしたり、何かが蠢いているのが感じられる。この場所の主役は人間ではないことは確かだ。


「船頭さん、この森には何がおるんかい?」


「さあな。いろんなものさ」


「いろんなものって。この辺に詳しいんやないんか?」


「昼間は猿、野ウサギ、リス、なんかを見るね。夜は初めて来るから分からない。闇はいろんなものを連れてくるからね。昼間とはまた違った世界さ」


「魔物もおるかな?」


「いないとも限らないね。あ、そろそろ着くよ」


 ラブローがたいまつを掲げると、異様な形の巨石が闇の中から浮かび上がった。ワネルの人面岩だ。角のような出っ張り、釣り上がった目、長い鷲鼻、そして叫ぶように開かれた口、その中には牙のように見える尖った部分もある。まさに悪魔だ。


 ラブローはその禍々しさに魅入られてしまい、しばし我を忘れた。


「今にも動き出して襲いかかってくるんやないかっち思うわ」


「だろ? でも、大丈夫、ただの岩さ」


「わかっちょるけど。こえーな……船頭さん! あそこ‼︎」


 ラブローは巨石の横、川の中洲にあたる部分の岩場に打ち上げられている人間の身体を見つけた。うつぶせに倒れていて動いていない。


「班長!」


「探し人かい?」


「はっきりは分からん。近づかんと」


「おお、寄せるから飛び移れ、あんちゃん」


「よっしゃ。了解!」


 船頭は櫂を上手に使って舟を中洲につけた。


「班長、生きちょってくださいよ。もう大丈夫やけん」


 ラブローは舟から勢いよく降り、倒れている人間の元へ駆けつけた。


「班長、しっかり!」


 ラブローはうつ伏せの顔を起こした。


「これは……」


 なんと、それはネイピアではなかった!


「おーい、どうだ? 探し人か?」


 舟を中洲に上げた船頭が、遅れて駆けつける。


「おい! 兄ちゃん。どうなってんだ?」


 ラブローは、まるで狐につままれたような顔で、何が起きたのか図りかねている様子だった。


「こいつは……班長じゃねえ。マーシュレンや。行方不明の衛兵、ベクトール・マーシュレン」


「え? あの新聞に載ってた若い衛兵か」


 と、その時、闇の中から咆哮が轟いた。


 ラブローはとっさにその方向にたいまつを向けた。人面岩の背後からゆっくりとした足音が聞こえてきた。


「獣か?」


 船頭はひぃと小さく悲鳴を上げ、ラブローの後ろに回った。ラブローは剣を構え、足のつま先に力を込めた。いつでも斬りかかれる態勢だ。


 ラブローが闇に目を凝らすとやがてその輪郭が浮かび始めた。背丈は自分と同じくらいか。ラブローは一瞬、人間なのかと思った。二足歩行をしていたからだ。しかし、違った。たいまつの明かりに照らされて姿を現すと、毛むくじゃらで手足が細く異様に長い、見たこともない化け物だった。体を小刻みに震わせながら、不気味な言葉を発している。


「キチュルキチュル、キチュルルル、ヴヴヴヴ」


 ボロボロの歯の間から茶色とも緑色ともつかない液体がこぼれ落ち、異様な匂いを放っている。


 ラブローは思わず鼻を覆った。


「なんや、こいつ」


「あんちゃん、こりゃ、獣でもねえ。魔物じゃ!」


「じゃのう。よしきた! 斬っちゃる!」


 と、その魔物の目が光ったかと思うと、奇声を発しながらラブローたちの方へ猛ダッシュしてきた。その異様なことは筆舌尽くしがたい。腕をあらぬ方に曲げ、振り乱し、脚はガニ股で腰を前後左右に回し……


 虚をつかれたラブローは一瞬、腰が抜けてしまった。


 魔物は顔を前に向け、口を大きく開いた。ラブローの頭をそのまま飲み込まんとする大きさだ。


──体が動かない!


 どろどろの液体を吐き散らしながら、魔物は腕を振り回し、尖った爪でラブローの身体に襲い掛かろうとしていた。


──ダメだ!


 と、その瞬間、斬撃の音が鳴り響き、魔物の腕が飛び散った。


 すさまじい叫び声とともに、赤い血がラブローの顔や身体にかかり、真紅に染めた。


 ラブローは何が起きたのか、分からなかった。


「ラブロー、大丈夫か?」


 呆然と見上げると、それはネイピアだった。


「は、班長……」


「ちょっと待ってろ」


 ネイピアは返す刀で魔物の脳天をかち割り、とどめをさした。


「こいつは一体なんなんです?」


「ここに流れ着く死体を食べて生きながらえているんだろ。見てみろ」


 ネイピアに促され、ラブローが辺りを見回すと大量の人骨が散乱していた。よく見ると、ラブローは頭蓋骨を踏みつけて立っていたのだ。


「ひええ、地獄じゃ。まさに地獄絵図とはこのことじゃ」


 ラブローは辺りを見回し、ようやく骨のない足場を見つけてホッとため息をついた。


 船頭は深く頷きながら言った。


「なるほど、合点がいった。死体が流れ着いたのを確認しても、次に通る時には必ずなくなっていたのさ。不思議には思っていたんだが、この魔物が食っていたとはな」


「そして、こいつも元は人間さ」


 ネイピアは切り落とした魔物の腕の付け根を剣で指した。そこには、紋章のようなものが刻まれていた。


「これは、近衛師団を示す彫り物」


「ああ、きっと脱走した若い衛兵がここにたどり着いて、流れ着く死体をあさっていたんだろう」


「でも、こいつは人間の姿やないと思いますが……」


「まあ魔物といえば魔物だな。カルヴィニと呼ばれている。人肉食を続けると、心が朽ち果て、やがて身体が人間であることを忘れる。その成れの果てがこんな感じだ。俺が戦場にいた頃にも出くわしたことがある。おぞましいったらありゃしないよ」


「やはり食人ちゅうのは呪われた行為なんですね」


「それよりお前、なんでここにいるんだ?」


「はあ? そりゃ班長を探しに来たに決まっちょるやないですか!」


「ハハ、そうかそうか」


「そうかそうか、やないですよ! 今までどうしちょったんです?」


「トロヤン川の流れに巻き込まれて気を失ったらしい。気がつくと、ここに横たわってたんだ。幸い怪我もなかったんだが、なんせ暗い。火もなくこの森を歩くのは危険だと思ってな。朝を待とうとそこの木の上にいたら、お前たちがやってきたってわけだ」


「ずいぶん長いこと寝ちょったんですね。もう、班長が川に流されて三日経っちょんのですよ」


「マジかよ! どうりで腹が減ったと思った」


「パンがありますけん、食ってください」


 ラブローは持ってきたズタ袋からパンを出してネイピアに渡した。ネイピアは一瞬にして平らげ満足そうに微笑んだ。


「さすがは戦争の英雄。頑丈にできてるな」


 船頭はそう言ってネイピアの体をポンポンと叩いた。


「船頭さん、アンタもわざわざすまなかったな。こんなところまで」


「いいってことよ。それよりも犯人を捕まえてくれ。タッカーのためにも」


「ああ」


「ところで、班長。ベクトール・マーシュレンの死体はなぜここに?」ラブローが言った。


「やっぱりベクトールか。寮母のおばちゃん、悲しむだろうなあ」


 ネイピアはそう言ってベクトールの亡骸に優しく触れた。


「腕に火傷のあとがありますね」


 ラブローは袖口から覗く皮膚のただれを見逃さなかった。


「ああ、新しい傷だな。ってことは……どういうことだ? ラブロー」


「ベクトールは火事の現場で目撃された若者」


「まあ、状況からしてまず間違いないな。そして、問題は死因だ」


「首の下、頸動脈を斬られちょりますね。ロマがやったんでしょうか?」


「もしくは、ロマに仲間がいたか。片手を失ったロマがベクトールに勝てるか? ましてやベクトールは衛兵の中でも指折りの剣の使い手だ」


「でも、ロマに仲間がいたとしたら、さすがに目撃情報があがってくるんやないでしょうか?」


「やはり、自警団の協力が必要だな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る