第18話 屋根伝いの逃走劇
ネイピアはオレンジ色の屋根伝いに逃げながら考えていた。
勢いでやってみたものの、いつまで逃げればいいのだ。捕まれば投獄は免れないだろう。軍紀を犯したのだ。国王が新聞を見て、勅令を出してくれさえすれば、ジューゴの元へ胸を張って出かけられるのだが。
当然、そんな保証はない。出たとこ勝負には違いない。しかし、捨て身で事にあたらないと打開できない状況も確実にある。ネイピアは戦場の経験から学んだことだ。
それを実行に移すか移さないかは本人次第だ。そしてほとんどの人間は気づかぬフリ、見て見ぬフリをする。ネイピアは大人しくしていられないだけだ。
本人は英雄気取りでも何でもない。むしろ、そんな自分の性格を呪いさえした。ネイピアは突っ走ることで、実際多くのものを失ってきたのだ。家、住んでいた村、そして軍隊からも追い出された。ネイピアはこの性格は病気のようなもので、付き合っていくしかないと半ば諦めていた。
街のはずれまでやって来ると、もう伝っていく屋根もなくなった。すぐ前にはトロヤン川が流れている。眼下には道を囲むようにして武装した衛兵が待ち構えている。
振り返ると、一ブロック先の屋根の上に追っ手の姿が見えた。
「しつこい野郎だねえ」
ネイピアは仕方なく壁の前にある時計塔に飛び移った。この時計塔はベルメルンのシンボルの一つで三十数メートルの高さを誇っていた。
大通りに面しているから野次馬の数も増えてきた。その野次馬から声が上がる。追っ手も時計塔に飛び移ってきたのだ。
どんどんとよじ登っていくと、巨大な時計の文字盤にたどり着いた。直径十メートルはあるだろうか。足場になるレンガはここで終わり。ここから先は時計の針を伝っていくしかない。
「下を見るな。下を見るなよ。見たっていいことねえ。下を見て歩くヤツは偉くなれねえって、ばあちゃんも言ってたじゃねえか」
ネイピアは独り言を言いながら自身の勇気を奮い立たせた。長針につかまりレンガから足を離すと、ぶらんぶらんと左右に体が揺れた。全体重が指先にかかり、重力の残酷さを思い知る。
──無謀過ぎ?
一瞬、後悔したがもう引き返せない。少しずつ指先をずらしながらゆっくり時計の中心に向かって行った。
指の第一関節が針に引っかかっているに過ぎない。少しでも気を抜くと地面に吸い込まれてしまうだろう。やがて乳酸がたまり腕の筋肉が悲鳴を上げ始めた。
──うわ! こらえきれん!
ネイピアはスピードを上げた。体を揺らしながらバランスをとり、必死の形相で耐える。
ようやく時計の中心についた。そこから短針に乗り換え、時計を横断していく。最後はジャンプして時計の飾りの部分──天使の彫像にしがみついた。
「はあ、まだ神様は俺を見放してねえぞ、ばあちゃん」
ホッとしたのも束の間──
「マジかよ……」
彫像の先にはほんの三センチほどの幅のレンガの出っ張りが続いているだけだった。つま先しか乗っからないだろう。
「なあ、ばあちゃんよ、こりゃさすがに無理じゃねえか?」
しかし、ネイピアには進む以外の選択肢がない。追っ手も時計の針を伝って迫ってきている。
「行った方がいい? だよなあ。そうだよなあ。行くしかねえもんなあ」
レンガの切れ目に指をひっかけて上半身をささえ、つま先でその出っ張りをグリップしながらそろりそろりと進む。地面まで十数メートルといったところか。落ちれば間違いなく死ぬ高さだ。足がすくむ。
そのわずかな出っ張りも行き当たり、本当の行き止まりになってしまった。その先にはもうトロヤン川の急流があるだけだ。
「うう……どうするよ?」
ネイピアは上下左右を見回したが、起死回生の手がかりなどあるはずがなかった。
「班長、大人しく出頭してください!」
時計塔の下にいる巡察隊員の一人が叫んだ。
「危ないですから。こちらへ来てください。さあ」
出っ張りを伝ってきた隊員が手を伸ばしてきた。いつの間にか三メートルほどの距離に迫っている。次の瞬間、隊員が足を置いた場所のレンガの一部が崩れた。
「ひぃ!」
隊員はなんとか壁にすがりついて難を逃れたが、体が安定せず今にも落ちそうだ。
「大丈夫か⁉︎ その右の上の出っ張りを持て!」ネイピアが叫んだ。
「はい!」
ネイピアの言う通りにすると、幾分安定感が増し、隊員は思わずため息をついた。
「お前、足ふるえてるじゃねえか。テキトーに逃げられたって言ってごまかしとけよ。こんなとこで死んだら馬鹿だぞ!」
「で、できません! に、に、任務ですから‼︎」
よく見ると追っ手はまだあどけない顔をしていた。おそらく入ったばかりの新兵だ。
「なあお前、名前なんて言うんだ?」ネイピアは優しく語りかけた。
「え⁉︎」
「名前だよ。お前の名前」
「……ブランドリー・ボーリック二等巡査です」
「そうか、ブランドリー。よく聞け。お前みたいな真面目で勇敢な兵隊がこの国を守るんだ。死ぬんじゃねえぞ。しっかりつかまってるんだぞ」
ネイピアはそう言うと、壁を蹴ってジャンプした。宙を舞うネイピアの身体。その先にはトロヤン川の急流が待ち構えていた。
──バシャン!
川に落ちるとネイピアは懸命に泳ごうとしたが、流れは速く、トロヤン川は容赦なくネイピアの身体を飲み込んでいった。
「班長! 班長‼︎」
新米巡査の叫びは轟音にかき消され、響きもしなかった。
巡察隊の詰所で報告を受けたビールズは、顔色一つ変えずに次の指示を出した。
「船着場やネイピアが流れ着きそうなところは全て調べろ。ロキ大橋の橋脚に引っかかってるかもしれん。とにかく、油断はするな。見つけ出すんだ」
ビールズはどんな状況であっても、手を抜くことはしない。何事も異常なまでに徹底するのが彼のやり方だ。
そして、その命令通りに動く忠実な部下がいる。百人余りの巡察隊隊員たちはビールズの言葉どおり、シラミ潰しにトロヤン川流域を捜索したが二日経ってもネイピアの姿は確認できなかった。
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