第16話 エレメナの屈辱

「火事の現場から逃げた男を知ってるよ。最近、市場に顔を見せるようになった野菜売りさ。見るからにガラの悪い男でねえ、アイツが火をつけたんじゃないかってみんな噂してんのさ。ヴォルドゥさんの奥さん、美人だろ? 市場に奥さんが買い物に来た時にその野菜売りが変な目で見てたって話さ。だから……」


 奥にある応接室で老婆が唾を飛ばしながらしゃべっていた。


 エレメナは聞き耳を立てていたわけではないのだが、イヤでも聞こえてくる。全部デマカセだ。あの老婆は何か事件が起きるたびに、情報通をきどって訪ねてくる。


 最近、新聞社にはこうした輩がたくさん尋ねて来るようになった。世の中では情報が金になると気付き始めたのだ。


 ホラ話に嬉々として耳を傾けているのは、コスマトス・サドラー。エレメナの先輩にあたる記者だ。彼も老婆の話が本当だとは思っていないだろう。しかし、彼にとっては真実など大した価値もない。面白いか否か、それだけだ。


 エレメナが働くホイヘンス社は、ベルメルンにある二つの新聞社のうちの一つで、ホイヘンス日報を発行している。ホイヘンスというのは、一代で新聞社を築いた先代社長ホイヘンス・ミュンターの名前からとったものだ。ちなみにホイヘンスは新聞社を創業する前は詐欺紛いの錬金術師だったそうだ。


 老婆が席を立つ。一時間以上話をしていたが、ようやく終わったようだ。


 サドラーは彼女を見送ると、エレメナの左隣のデスクに戻ってきた。


「明日の一面はこれでイケそうだぞ!」サドラーは拳を振り上げた。


「さすが!」事務所にいた記者の男たちが口々に称賛の声を上げた。


 エレメナはそれに構うことなく、原稿に向かっていた。


「おい、お前は喜ばねえのか」サドラーがエレメナの耳元で言った。


「もちろん、喜んでますよ」エレメナは無表情で答えた。


「アウグストリ、こないだはまぐれで一面を任されたからって調子にのんじゃねえぞ」前の席の小太りが言った。


「あ、手が滑った」背後に立っていた吊り目がエレメナの原稿の上にコーヒーをこぼした。


「早く拭けよ。こっちまで流れてくるだろ」右隣に座っていた年下のスキンヘッドが醜い表情で睨んできた。


 エレメナが足元にあった雑巾をとろうと腰をかがめた瞬間、サドラーはエレメナが座っていた椅子を蹴った。椅子は勢いよく吹っ飛び、エレメナはドシンと尻餅をついた。


「でっけえケツだなあ、おい」サドラーが小馬鹿にして言った。


 みんな、どっと笑った。


「ついでに、俺のデスクの下も吹いてくれよ」小太りが言った。


「俺も頼む」「俺も」男たちは口々に叫んだ。


 エレメナは無表情で床を拭き始めた。机の下にもぐると、強烈な異臭がした。その源は至るところに無造作に置かれている履き潰した靴だ。男たちの、蒸れて脂ぎって染み込んだ獣のような匂い。改めて自分が異物であることを自覚させられる。


「俺のアソコもキレイキレイしてくんねえかな」吊り目が言うと、スキンヘッドが続けた。「どうせ仕事できないんだから、それくらいやってくれてもねえ」


──いつものことだ。いつものこと。黙って身を縮めていればやがて嵐は去る。


エレメナは自分にそう言い聞かせながら地面を這いつくばった。自分に向けられる敵意とまとわりつくような欲望を一身に浴びながら、必死で感情を押し殺した。


 エレメナがここで働き始めたのは三年前のこと。二十人いる記者の中ではまだ下っ端だ。


 彼女を雇い入れたのは、編集長のラポール・ベルダンだ。彼だけが、エレメナを正しく評価をしてくれていた。記事の割り振りも他の記者と公平だ。トクダネを仕入れたら、一面だって任せてくれる。


 しかし、そんなベルダンも味方ではない。


 ベルダンはエレメナがいじめを受けていることを知りながら、何の関心も示さない。新聞の発行部数を上げることが彼の全て。ベルダンが期待しているのはエレメナではなくエレメナの情報網なのだ。


「取材に出てきます」床を一通り拭き終えたエレメナは立ち上がって言った。


「ネイピア大尉のところか?」サドラーがにやけながら言った。


「違いますけど」


「女はいいよな、いろいろと使うものがあって。どうせあのスケベ軍人のオモチャにされてんだろ?」エレメナの体を舐め回すように見た。さながら、獲物を狙う蛇のようだ。


 エレメナは構わずにカバンを持って出て行った。その背中にサドラーは言葉の刃を突き刺した。


「お前みたいな女と同じ空間にいるだけで虫酸が走るんだよ!」


 エレメナがいじめられる理由、それは差別だ。彼女の出自が関係している。それはもっと後で語られることになるのだが……


 エレメナがこんな理不尽に耐えているのは、どうしても叶えたい夢があるからだ。それを実現するためには武器をとるのではなくペンの力が必要だと考えていた。そのために新聞記者になったのだ。


 だから、自分を見下し、誰のためにもならないホラ話を社会にまき散らして満足する男たちにも耐えられた。


 それにしても……。


 エレメナは路地裏にいた。ストラナ広場からほど近い場所だ。そこは定食屋などが立ち並ぶ一角だ。無造作に置かれたゴミ箱の中にはいつも残飯があり、野良犬たちが数匹、身を寄せていた。


 エレメナはよくこの場所にきて、犬たちと戯れていた。


 犬はいい。自分を色眼鏡で見ない。汚らしい男どもと違って性欲をぶつけてくることもない。そして、優しい。いつだって喜んで受け入れてくれる。


 いっちょうらの皮のジャケットが汚れるのも気にせず、エレメナは犬たちと遊んだ。

 その顔に笑顔はあれど、涙はない。エレメナはとうの昔に涙を流すことをやめていた。



 いつの間にか、夜の帳が下りていた。何時間経ったのだろうか。犬たちも疲れてだらりと寝そべっていた。


 エレメナはそっと立ち上がった。ふらふらと歩いていく。


 ストラナ広場を超えて、西十七番街にある家へと向かった。


──久しぶりだな。


 エレメナは自分がなぜ、まいっているのかが分からなかった。同僚の記者たちのイジメなど日常の風景だったはず。いつもの自分なら事務所を飛び出したあと、犬たちと少しだけ遊んだら気も紛れ、取材に出向いたはず。それが、どうして今日は……


 ロマがベルメルンに持ち込んだという黄色い花のこと、麻薬のこと、火事の現場から立ち去った若者、ネタになりそうなことはたくさんある。しかし、頭が働かないのだ。


 足取りも心なしか重い。記者になりたての頃はこんな日が多かった。でも、そんな段階はとうの昔に乗り越えたと思っていた。


 何か楽しいことを考えよう。


何かないかな? 


何かなかったっけ?


とくにないか……


家にワインの残りがあったはず。

今日は飲んで寝ることにしよう。少しは気分もマシになるかな。


誰かと話をしたいな。


でも、誰もいないしな。


ワインのつまみ、何かあったかな? 

チーズは食べちゃったんだっけ。もうお店閉まっちゃったよね。


さびしいな。


いつものことか。


……もう着いちゃった。


 エレメナは顔を上げた。自宅アパートの前にやってきたのだ。外付け階段を上って二階がエレメナの部屋だ。


 いつもは駆け上がっているが、今はそれすら億劫だ。エレメナはこの場に座り込んでしまいたい衝動に駆られた。



「はぁ……」



「なあに、ため息ついてんだよ」


 振り返ると、体格のいい男のシルエットが見えた。顔が見えなくても声で誰かは分かる。


「ネイピア大尉……どうしてここに?」


「エレメナちゃんに相談があってさ。あ、家の場所は新聞社で聞いたんだ。尾行とかしてないからな」


 一階の窓からこぼれた灯りでネイピアの顔が見えた。なぜか懐かしい気がした。


「……」


「なあ、エレメナちゃん、チーズ好き? ラブローのやつから仕入れやつを持ってきたんだが……」ネイピアは麻の袋を差し出した。


「チーズ?」エレメナの言葉にはすでに歓喜の色が付いていた。


「ああ、チーズだ。実は俺は苦手なんだよ、匂いが」


「ムダですよ」


「は?」


「口説こうとしたって、引っかかりませんからね」


 エレメナは笑った。その瞳から、忘れたはずの涙が一筋流れた。

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