第35場 あっけない結末

 目を覚ますと、すでに藍香の意識は麻白へと向けられていた。

 先ほど話が本当なのだとすると、どうやら俺は何も妹のことをわかっていなかったらしい。


 今更後悔などしたって意味ないが、それでも誤魔化すことなんてできない。

 ぼんやりとする頭をなんとか働かして、そっと麻白へと視線を向ける。


 アーモンド色の瞳は、チラッと俺の捉えたようだ。

 浅く息を吐いて、何かを決心したような顔つきになった。

 

 なんだ?

 麻白の雰囲気が変わった。

 いや、先ほどまで黙って藍香の話を聞いていたのに、今は身体をわざと傷つけるかのようにジタバタとし始めた。

 

 麻白は何度も足を動かして藍香から離れようした。しかし、絡みつくツタ——糸が、麻白の両足から自由を奪ているのだろう。

 おそらく、そのツタから魔力が奪われている。視界に赤い粒子や青い粒子が流れているのが見える。明らかに魔力の流れに違いない。


 ジタバタと身体をひねるようにして、麻白はなんとか最後の力を振り絞っているようだ。

 それに——すでに魔法を使えないほど、魔力が枯渇し始めているのだろう。


「——っ!」

「ふふふ、おしゃべりできる時にはもう遅かったんですよ?魔力が枯渇して始めて、麻痺の効果が緩和されるように調整していますからね?ふふ、きっとお兄様がお目覚めになったら、悲しんでくれますよ?でも大丈夫です。あとは藍香がお兄様のそばにずっと、ずっとおりますので——」

「今更……シンジが藍香さん——あなたのことを一人の女性として見ることなんてないんじゃない?」

「はい?」

 

 麻白の挑発に乗せられて、藍香の身体から尋常じゃないほどの魔力が放出された。


 ——うっ、なんで空気が重く感じるんだよ?

 足が動かせない。

 ああそうか。あの時——宗吾が使っていたあの指輪と同じような効果があるのか。

 でも、藍香はそのような指輪は着けていない。

 ということは、素でこんな化け物じみたことができるのか?


 いや、今はそんなことどうだっていい。


 藍香は麻白の目の前まで近づいて、パチンと頬を叩いた。

 麻白のクリーム色の髪が顔に掛かった。


「——!?」

「ねえ、麻白さん。何にもわかっていないんですね?そんなことだから、紫苑が魔力欠乏症で寿命があと少しだったことにも気が付かなかったんではないですか?」

「あなたに関係ないでしょ——」


 パチンと藍香は反対側の頬を叩いた。


「うっ」と麻白が声を上げた。すぐに麻白の鋭い視線が藍香を睨んだ。おそらく口内を切ったのだろう。口元から血が流れた。


 藍香は見下すように、冷めた声で言った。


「その反抗的な視線、止めてくれませんか?」

「……」

「ふふふ……そうですか。仕方ありませんね。まだ儀式には時間がありますから、手足の一本でも奪って差し上げましょうか?」


 藍香の身体から赤い粒子が舞い散った。

 

 だめだ。これ以上、見ていられない。


「もう止めれてくれ!」

「……お兄様?」

 

 藍香が振り返った。

 エメラルドグリーンの瞳は、キョトンとしていた。

 そしてすぐに、チラッとボロボロの麻白へと視線を向けた。


「眠ってもらっていたはずですが……ああなるほど。麻白さんが最後の魔力でお兄様の意識を戻したんですか……」

「あなた……悲劇のヒロイン面しているみたいだった——」


 パチンとまた藍香が麻白を叩いた。


 なんで藍香がこんなことしているんだよ。

 意味がわからない。


 でも、これ以上はだめだ。


「藍香、お前はこれまで何人の魔力を奪ってきた?」

「えっと……紫苑さんも含めると、900人くらいでしょうか」


「一般人から魔力を奪うと衰弱してヘタしたら死ぬらしいが、それは知っていたか?」

「ふふふ、当然そんなことは紫苑さんから伺っていましたよ」


 藍香は金色の髪をくるくると弄ぶように指先でいじった。

 まるでつまらない講義を受けている生徒のように退屈そうに俺の話を受け流している。


 きっと誰が死のうと、何人が生きようとも、そのことに対して本当にこれっぽっちも思いなんてないし、何も考えていないんだろう。


 藍香が……ここまで頭のおかしい人間だということに気が付かなかった。


 やはり、俺は藍香をもっとしっかりと見てやるべきだったんだ。

 もっと——愛するべきだったんだ。

 もっと時間を共有でもなんでもするべきだった。


 そんなこと今更、振り返ったところで意味なんてないのに。


 いつの間にか、エメラルドグリーンの瞳がじっと俺へと向けられた。


「もしかしてお兄様、私のことを憐れんでいるのでしょうか?」

「いや、そんなことはない」

「ふふふ、嘘ですね」

「ち、違う」

「ねーお兄様?何年一緒に暮らしてきたと思っているんですか?お兄様の少しの変化でもわかるんですよ?」


 だめだ。

 今の藍香は何を言っても伝わらないんだ。

  

 俺は藍香を無視して、麻白と藍香の間に入りこんだ。


 チラッと麻白を見ると——色白い肌が赤く染まっている。すでに浅い息を繰り返しており、今にでも魔力が枯渇して意識を失ってしまうのではないか。


 何にしても大規模魔術とやらには時間があるようだから、麻白に意識を失われては困る。いや、魔法協会とやらのお仲間たちが駆けつけるであろうが、それまで俺一人で藍香を説得することに自信なんてない。


 だからこそ——麻白にいなくなられては困る。

 

 確か回復魔法は——


「『原初へと戻れ』」


 麻白の身体がみるみると元に戻っていく。

 それと同時に、俺の身体から魔力が抜けていく。

 やはり貧血のように足元がおぼつかなくなる。

 それでも意識を保つことはできる。


 藍香がじっと俺のことを黙って見ていたが、ついに声を上げた。


「ねえ、お兄様、なんでそちら側に立っているんですか?」

「そちら側もあちら側もないだろ」

「なんで勝手に麻白さんを助けるんですか?藍香はそんなこと望んでいません」

「そんなこと知るかよ。てか、そもそもお前が本当に藍香かわかんねーしな」

「は、はい?」

「だから、そもそもお前がさっき語った話は信じれないって言ってんだ」

「い、今更、お兄様は何をおっしゃっているんですか!?」


 藍香は焦ったように声を上げた。

 身体から漏れる魔力の粒子が一斉に縮まった。

 

 そして、ローブの裾をぎゅっと握り締めて、下唇を悔しそうに噛んだ。


「へー。確かに生前の藍香の癖を完璧にコピーしているようだが——」

「私自身が藍香なのですから、当然ですっ」

「でも、藍香がそんな簡単に他人を傷つけるはずないだろ?」

「……そんなことはありません」


「藍香であれば、なんだかよく知らないが自分の魂と紫苑さんの魂を一度入れ替えて、それで元に戻したら身体の構成が変わるから、兄妹で肉体関係が築ける、だから魔法を使いました?だなんてそんな荒唐無稽——いや、そんなバカなことを信じる頭を持っていないはずだしな」


「あ、藍香は、ば、バカではありませんっ!」


 悔しそうに下唇を噛んで、上目遣いに俺のことをキッと睨んだ。

 エメラルドグリーンの瞳は、すでにうっすらと戸惑いの色が現れ始めていた。


 相変わらず、押しに弱いくせにそれでいて頑固だから扱いずらい。

 でも、一度俺のペースになってしまえば簡単だ。

 

「あーはいはい。藍香の癖を真似して、悔しそうにこちらを見たって全然説得されないからな?」

「——っ!」

「てか、大規模魔術を行使する理由が、『器』に保存している紫苑さんの魂で、それを消えてしまわないように維持するためだ、なんて信じられるかよ?なー麻白だってそう思うだろ?」


「え、ええ」と背中越しに相槌が聞こえた。


 チラッと状況を確認すると、麻白の身体を覆うように伸びていたツタは少しづつ赤粒子となって消えていた。


 どうやら回復魔術を使ってもすぐに魔力まで回復されるわけではないらしい。

 ツタのようなものを少しずつ青白い炎で焼いているようだった。


「それに……自称藍香?仮に『器』とやらに閉じ込めている紫苑さんの魂を維持して、その魂を入れる身体がどこにあるんだよ?自称藍香——お前がその幻影魔法かなんかで紫苑さんの身体を書き換えて、青葉芽実としての身体を構成しているんだとして、要するに元々は紫苑さんの身体を乗っ取っているってことだろ?だったら、紫苑さんの魂を戻す身体がないだろ?とっくに藍香の身体は灰になってないんだからな」


「そ、それは麻白さんの魂を壊して、その身体に紫苑の魂を移し替える予定だったんですっ」


「へー。それで、麻白の魂はどうなるんだよ?」

「いなくなります」

「じゃあ、紫苑さんが麻白の魂を壊したってことになるよな?」

「ち、違います。藍香が——」 

「紫苑さんがそんなこと望んでいたのかよ?」

「……どういう意味ですか」

「だから、紫苑さんが魔力欠乏症で死にそうだから藍香に『麻白の健康な身体を奪ってほしい』って頼んだのかよ?」

「それは……頼まれていませんが……」


「じゃあ、お前の勝手な自己満足だろ」


「ち、違いますっ!」


「でも、誰からも頼まれていないことを勝手に自分の判断でして行動に移しているんだから、自己満足以外にも何でもないだろ?あーあれか。それとも、自分だけ生きているから、それに対する罪滅ぼしか?」


「……なんでそんなことおっしゃるんですか」

 

 蚊の鳴くような声が聞こえた。

 すでに俯いて、藍香の表情はよくわからない。


 でも、おぼつかない足取りでフラフラと二、三歩後ずさった。


「おいおい、大丈夫か、自称藍香さん?」


 俺が一歩近づくと、藍香の小さな肩がピクっと動いた。

 ワナワナと少し震えながら、口早に何かをぶつぶつと呟いた。


「——なんだもん」

「は?なんか言ったか?」

「だって……お兄様が大好きなんだもんっ!ずっと一緒に居たいってそう思うんだもんっ!自分でもわかんないだもんっ……!意味わかんないっ!紫苑も勝手に死んじゃうし、何も言ってくれないんだもんっ!!!」


 ボロボロとエメラルドグリーンの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 しまいには、腰をちょこんと下ろしてまるで幼い子どものように嗚咽した。

 それでいて、何かを吐き出すように叫んだ。


「誰にも渡したくなんてないっ!だからずっと一緒にいてほしいだもん……藍香のこと一生、愛してよっ!藍香だけを愛してくださいっ!!!」


 藍香の色白い手は、ローブの袖をグッと握っている。

 エメラルドグリーンの瞳からは、次々に涙が流れ落ちている。


 ちょこんと座り込んだまま動かない子どものように、ただただ泣きじゃくる姿。

 赤い粒子、青い粒子など様々な魔法の流れが、不規則に藍香の身体から四方八方に向かって散逸している。


 ああきっと、藍香は自分を抑え込んでいただけなんだ。

 勝手に藍香は強い女の子なんだって思っていた。


 いつも自分のことよりも俺のことや家のことを率先してくれていた。

 だから、勝手に藍香に甘えていた。


 でもそんなことは俺の勝手な思いだったんだ。


 いつだったか、ハウスキーパーに全て家のことを任せようと言った時だって、ここまで取り乱さなかったがひどく抵抗していた。


 きっと藍香の存在意義——自分の生きている証明がなくなりそうで、なんとかしたかったんだろう。


 それと同時に単に俺に振り向いて欲しく、色々と暴走していたところもあるんだとしたら、俺はバカだ。今まで何ひとつ藍香のサインに気がついていなかったんだから。


 それにしたって、藍香はなんて不器用でそれでいて、なんて自分勝手なんだろうか。


 俺が藍香のことを見捨てることなんてできないこと——そんなこと天地がひっくり返ったとしても起きやしないことをわかっている癖に。


 それに目の前でこんなに取り乱して泣いている女の子を放っておくことなんてできない。


 背中越しに視線を感じて、振り返ると、すでに麻白はローブについたツタを手で払っていた。


 やっと麻白は回復したようだ。


「……すまなかったな、妹が迷惑をかけたみたいで」

「ううん、元々は紫苑の入れ知恵だから……こちらこそ巻き込んでごめんなさい」

「……魔力は回復したんだよな?」

「ええ、でももう必要ないでしょ?」


 麻白の視線は地面でちょこんと泣きじゃくる藍香を見ていた。

 すでに戦意はないことは明らかだった。


 藍香の鳴き声は暗闇の中で掻き消えるように反響している。

 さて、こういうときはどうするのが正解なのだろうか。


 すでに夜空は真っ暗くなっていた。

 暗闇が空を覆っている。


 きっと、月食とやらが近いのだろう。


 そんなことを思った。

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