第33場 意見の相違
何かを言わなければならない。
でも何を言えばいいのか、咄嗟にはわからなかった。
「……芽実なのか?」
「ふふふ」となぜか黒いローブを羽織っている芽実は、ゆっくりと歩き始めた。
「ここで何をしている?」
「決まっているじゃないですか。お兄様を取り戻しにきたんですよ?」
「意味がわからん……てか、なんだその喋り方は?」
「ふふふ」と芽実は笑みを浮かべて、トントンと歩くたびに、屋上にその足音が反響した。
この違和感は何だろうか。
喋り方だけじゃない。
あの時の魔女——俺を襲ったあいつに似ている。
いや、それ以上に俺のことを『お兄様』と呼んだことの方が変だろう。
芽実とは血の繋がりもなければ、兄妹でもない。
それにもかかわず、俺のことをまるで本当の兄のように呼んだ。
それこそ——藍香が俺のことを呼ぶ時と同じ言い方だ。
「やっと、気が付いたみたいですね……お兄様?」
ふふ、と芽実は口もとをゆがめて笑みを浮かべた。
「藍香……?」
「はい、藍香ですよ」
エメラルドグリーンの瞳を細めて、クスクスと口元を隠して笑みを浮かべる。
金色の長い髪が風によってなびいた。
スカートがパタパタとあおられていることも気にせずにおかしそうに笑みを浮かべ続けている。
「ふふ、お兄様はどうして驚いた顔をなさっているのですか?」
「いや、そんなわけがない。嘘だ……芽実だよな?」
「もう、しつこいですよ?そんなことでは、いつまでたっても彼女ができませんよ、お兄様?」と少し呆れたような声色が含まれていた。そしてすぐに、なぜか照れるように言った。
「ふふ、そのぽかんとした表情も好きですけど、やっぱりいつも通りの凛々しい表情の方がお似合いですよ」
「何を言っているんだ……芽実?」
肌寒い秋の風——心地の悪い風が頬にあたり、凍えるような寒さが全身を支配した。
芽実——いや、藍香と名乗ったこの女は一方的にしゃべり続けようとする。
ちっとも面白いことなんて言っていないはずだ。
それなのに、ずっと笑みを浮かべ続けている。
「ですから……藍香ですよ?あ、でも今の名前は、青葉芽実でしたね。だから、あながち間違いでもないのでしたね。ふふ、ややこしいですね。うーん……お兄様はどうしたら私が赤洲藍香とお分かりになってくれるのでしょうかね」
芽実は桜色の唇に人差し指を当てて、トントンと2回触った。
そして、触れていた唇から人差し指を離した。
少し虚ろな瞳が俺に向けられた。
「もう一度、キスしませんか、お兄様?」
「やめろ」
「もう、なんですか?その冷めた視線を向けるのを辞めてくれませんか?私だって少し心が痛み——」
誰だ、この女は?
いつから芽実の身体に乗り移っていたんだ?
いや、この喋り方は——藍香に似ている。
だとすると……本当に、藍香だとでもいうのか。
あの時、死んだ藍香なのか。
そうだとすると——
なぜ藍香は濁った瞳を向けるのか。
なぜ藍香はおかしそうに微笑むのか。
なぜ藍香はずっと芽実の姿のままなのか。
そして——なぜ俺は実の妹とキスをしてしまったのか。
俺はとんでもないことをしてしまったのではないか?
その事実を自覚した途端、吐き気が襲った。
だめだ、視界がくらくらと揺れている。
段々と視界が合わなくなり、景色が不鮮明になっていく。
くそ、意味がわからない。
何が起きているんだ……?
俺の妄想なのか。
芽実の金色の髪。
風になびく丈の短いスカート。
視界の隅に映る屋上のフェンス。
夕暮れの日差し、それらの景色が遠のくように見えて——
「シンジくんから離れなさいっ!」
少し息を切らした麻白の声が背中越しに届いた。
ぐらぐらとする視界が捉えたのは、やや乱れた呼吸を整えようとする麻白の姿だった。
クリーム色の髪をかき上げて、アーモンド色の瞳が俺へと向けられた。
「——シンジくん、はやく『その魔女』から離れて!」
「麻白……」
「……っち、あれーましろん、どうしたの?こんな時間に屋上で何か用事でもあったのー?ていうか、『魔女』というあだ名はひどいんじゃないかなー」
藍香はいつも通り学校にいる時のように、明るい口調で答えた。
しかし麻白は冷めた視線で、アーモンド色の瞳が藍香を射抜くように見た。
「そんなこ芝居はしなくいいわ——藍香さん?」
「ふふ、あれーもしかしてましろん?名前を呼び間違えてるよ?私は——」
「貴方が魔法を使って『色々なこと』をしてきたことは把握しているの」
麻白は芽実——いや、藍香の言葉を遮った。
藍香の口元がニヤッと歪むように、笑みを浮かべた。
すぐに「ふふふ」と藍香は口元を隠しておかしそうに笑い声を上げた。そして、俺の正面へと回り込み、小さな掌を俺へと向けた。
「ごめんなさい、お兄様」
「何をしているの!?藍香さん、馬鹿なことはやめなさい!」
「ふふふ、本当は、お兄様と婚前交渉をした後に、正体をバラして、私が藍香であることに気が付いてもらう予定だったのですが……仕方ないですよね?」
藍香は少し小さな声で言った。
「芽実……お前は何を言っている?」
「ふふふ、だから何度申し上げればいいのですか?私は藍香ですよ?やっぱり、お兄様はちっとも信じていないのですね。ふふふ」と藍香は一人で納得したように呟いた。
藍香の掌を中心に青白い光が発光し、視界を埋め尽くした。
果たして藍香が最後に何を告げたのかはわからなかった。
麻白の口がわずかに動き『また後で』と言ったような気がした。
意識が薄れゆくこと中で、ただ、どこかで俺は選択を間違えたことだけはわかった。
∞
「芽実ちゃん——いや、藍香さん。なぜシンジくんを襲ったの?」
「ふふふ、麻白さんはきっと、勘違いしていますよ?」
「何を勘違いしているっていうの?」
「ふふふ、それはまだ内緒です」
「そう……話す気がないんだったら、多少強引にでも話してもらうしかなさそうだねっ!」
そう言って、麻白はすでに展開していた魔法を行使した。
赤い炎がいくつも空中に現れた途端に、藍香の元へと引き付けられるようにして襲った。
ドーンという鈍い音がいくつも上がり、周囲に白い煙が上がった。
徐々に煙が薄まり、クレーターのように抉られたコンクリートが現れた。
しかしその場所に、人物——藍香の姿はない。
気がついた時には、麻白の背中側に人の気配がした。
「物騒ですね、麻白さん?まだお話の途中ではありませんか」
「何を白々しい。そっちだって私を攻撃するつもりだったんでしょっ」
麻白はとっさに左に身体を動かして、風魔法を避けた。
目に見えない突風が麻白のいたところに突如として現れた。
数秒遅ければ、麻白の身体はボロボロになっていたのだろう。
麻白は決して藍香から視線を逸らさなかった。
「藍香さん、あなたがいつから青葉芽実などという架空の人物に化けたのか、最初は分からなかった」
「あれ、やっぱりバレてしまいましたか?」
「まさか紫苑の姿と藍香さん——あなたの姿を知る人にそれぞれの人物の特徴が混ざり合うに記憶が書き換えられていたとは思わなかったけどね」
麻白の展開した風魔法は、次々に藍香を目掛けて空気の弾丸のように小さくまとまって、襲い掛かった。
しかし、その攻撃を軽々と転移して避けて、藍香は言った。
「ふふふ、正直、紫苑さんが死ぬ前に教わっていたとは言え、やはり幻影魔法のような高度な魔法と記憶を書き換える魔法を同時にコントロールすることは難しいようですね。ましてど素人の魔法使いにとっては、やはり少し練習の時間が足りませんでした。いくら私に無尽蔵の魔力を持っていても、ちょっと無茶でしたね。ふふふ」
「そのために……紫苑を殺したの?」
「ふふふ、殺してなんかいませんよ」
「嘘を言わないでっ!」
「嘘なんかではありません」
「だったらなんだって言うのよ……ふざけないでっ!」
麻白はまたしても炎の魔法を使った。
バチバチと発火音が鳴り、突如として空中で炎が現れた。
いくつもの明かりのように、無数の火の玉が、次々に藍香の近くに現れた。
藍香はそれらの火の玉が爆発する直前に、転移してかわしていく。
「はあ……麻白さんはまだ紫苑の病気のことに気づいていなかったんですね」
「どういうこと……?」
「魔力欠乏症だったんです」
「そんなことありえない……紫苑が家出をする前日だっていつも通り魔法を使っていたのよっ!デタラメ言わないでっ!」
追撃するように、炎の弾が藍香の後を追った。
しかし、藍香は金色の髪をかき上げて涼しげな表情で、静かに魔法を詠唱した。
「『踊れ、踊れ、水の精霊よ』」
一つ一つの炎の弾を全て飲み込むようにして、大量の水滴が空中に現れた。
全ての炎の塊がジューっという音とともに水と共に蒸発して消えていった。
「これだから、馬鹿みたいに多い魔力の持ち主は嫌いっ!」
「ふふふ、お兄様も私と同じように魔力をたくさん持っているので、お兄様のことをお嫌いということでいいのですか?」
「そ、そんなこと言っていないでしょ!」
「だったら好きってことですか?」
「そ、それも違うからっ!」
ムキになって、麻白は転移して一気に藍香の元に近づいた。
そして、思い切って藍香のローブを掴もうとして——空を切った。
すでに藍香の身体は少し後ろに下がっていた。
藍香の口元は相変わらず笑みを浮かべている。
「ふふふ、そんなに取り乱したままでは、藍香に触れることもできませんよ?」
「ほんと、いい性格しているわねっ!」
麻白は風魔法を使って、咄嗟に藍香の顔面に向かって突風を当てようとした。
しかし、藍香はニヤッと口元を歪めた。
「——っく!?」
気がついた時には、麻白の身体は吹き飛ばされていた。
まるで見えない壁のような膜が、藍香の身体を覆うようにして、魔法を自動的に反射させた。
麻白は空中でなんとか身体を捻って、風魔法で地面へと叩きつけられる間に、クッションのように風を発生させた。
それでも風が全ての衝撃を和らげることはなく、麻白は背中を地面に打ち付けた。
肺から空気が押し出され、「くっ」と息苦しさが全身を襲った。
(こんなに魔法を使いこなすとは予想していなかったんだけどっ。でもとりあえず——)
焦る内心を悟られないようにしても、ひんやりとした汗がいつの間にか頬を流れた。
麻白は少し離れたところで目を閉じて身体を横にしているシンジをチラッと見た。
(ここまで離れれば、魔法が当たらない距離かな)
「ふふふ、そんな余所見をしている場合ですか?」
「——!?」
「『ああ、蝶よ。舞え、舞え』」
空中から黒いアゲハが一斉に出現して、羽を動かした。
黒い粉末のような粒子が空中に舞い散った。
麻白はすぐに距離を取ろうとして——いつの間にか足元を絡めとるようにツタが巻かれていた。なんとか足を引っ張り出そうとしても、びくとも動かない。
しかもなぜか魔法の詠唱ができなかった。
すでに口元が弛緩しており、言葉を発することができなかった。
「——!?」
「ふふ、慣れてきたら口は動かせますよ?ああ、でもその前にじっくりと私のお話でも聞いてくださいね。だって、お兄様とひとつになる前に麻白さんには、知ってもらわないと、お兄様もご納得してくれないでしょうから」
そう言って、トントンと静かな足音を立て、藍香は麻白の前までゆっくりと近づいた。麻白のクリーム色の髪を摘んで、サラサラと揺らした。
藍香のエメラルドグリーンの瞳は、若干細められた。
「ああ、本当にお兄様はどうしてこんなにも髪の色が明るい女性ばかりに惹かれてしまうんでしょうかね。はあ……まあいいです。麻白さん?死ぬ前に、ちゃんと私のお話を聞いてくださいね?」
そして囁くような声で今までのことを語り始めた。
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