第17場 追憶

 藍香が唐突に言った。


『お兄様は不埒ですっ!』

「なんだよ、急に?」


 手元に開いていた『夏の夜の夢』から顔を上げると、藍香の不貞腐れた表情が映り込んだ。フグのように頬を膨らませ、なぜかご機嫌斜めといった様子だった。


『また告白されたと伺いました』

「ごめん、意味がわからないんだけど?」

『今日、学校でクラスメイトの倉敷さんがおっしゃっていました。お兄様が知らない女性から放課後、呼び出されたんだと』


 一瞬、何のことを指しているのかわからなかった。

 が、放課後のことといえば、知らない上級生から呼び出されたことだろう。


 少し頬を赤く染めた綺麗な先輩が、『今度誘ってください』という言葉と共に電話番号とメールアドレスの書かれた紙切れを渡してきた。


 きっと、そのことを指しているのだろう。


「告白というか、電話番号とメールアドレスの書かれた紙を渡されただけだ」


『そうでしたか』となぜか藍香は安堵の息をついてから、すぐに居住まいを正した。『今回は、過ちが起きなかったかもしれませんが、お兄様はもっと気を引き締めるべきだと思いますっ』


「え?」


『藍香は生前お母様に頼まれましたっ!お兄様が間違った道へと行かないように、藍香がしっかりとしなさいと。ですから、お兄様が浮ついたことで誤った道へと進まないように、ご忠告を差し上げているんですっ!ですからーー』


「……」


 母さんがまだ死ぬ前、意識がまだしっかりとしていた頃に藍香にそのように言い聞かせたのだろう。何度か二人だけでコソコソと話していたようだったが、母さんはどうやら余計なことを言い聞かせていたらしい。


 大方、俺がサッカーばかりして学校の宿題をサボりがちだったから、そのような監視するようなことを言ったに違いない。


 それにしたって小学生の低学年頃の話だろうに、中学2年生にもなった今でもその洗脳のような命令を忠実に守っているとは、まあ、なんというか。

 頑固な藍香らしいといえばそうかもしれないが……。


 いずれにしても、現在の俺にとっては不要な忠告に違いない。


『もう、ちゃんと聞いているんですよね?』

「ああ」

『でしたら、はい』と言って、藍香はなぜか色白く細い腕を俺へと差し出した。

「……なんだお小遣いでも欲しいのか?」


『なっ、なぜそうなるのですか!?』


「じゃあ、今日の晩御飯代が足りないのか?」


『全然違いますっ!ですから、先ほど頂いたというその紙を渡してください、ということですっ!』


「いや、なぜ藍香に渡す必要があるんだ?」


『お母様にお兄様のお世話を頼まれた以上、変な虫がつかないようにまずは私が見定めますっ!』


「いやいや、どこの世界に兄の交友関係を妹が管理する家庭があるんだ?おかしいだろ」


『私たちですが?』


 キョトンとした表情で、藍香は首を傾げた。

 まるで自分の主張していることがおかしくないと言わんばかりの雰囲気だ。


 変なところで意思の固い藍香の性格だ。

 きっとこの件については、納得するまで結論を譲ることはないだろう。


 それこそ、何が原因だったか今では覚えてもいないが、何時ぞやの時のように一週間以上、藍香から口を聞くことなく、一緒の家に暮らすことになりそうだ。


 あの時の何がこわいかと言うと、無言なのに淡々と家事をこなし、ご飯も普通に作ってくれていたことだ。


 正直、いつか背中から刺されるのではないかと思ったくらいだった。


 若干寒気がした。


 面倒くさいが、このままでは埒が開かない。


 どうせ、この後で連絡する予定もなかったのだから、大人しく藍香にあの紙切れを渡してしまえばすむ話だ。


「……わかった。後で探しておく」

『忘れて誤魔化そうとしても、見過ごしませんからね?』


 なぜか念を押すように、藍香はジトーっとした視線を向けてきた。


「別に誤魔化そうとなんて考えもしなかったから、安心してくれ」

『まあ、そうおっしゃるのでしたらいいのですが--』


 藍香はブツブツと言いながら夕食の支度を始めた。

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