麦とろの日


 ~ 六月十六日(木) 麦とろの日 ~

 ※麻姑掻痒まこそうよう

  かゆいところに手が届くこと。

  転じて物事が思い通りになること。




「あんまり美味しくない……。失敗した?」

「いや? 美味いけど」


 お口に合わないのか。

 首をひねりながら。


 茶碗のとろろに醤油をさっと。

 ジグザグに垂らすのは。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 よく聞く名前の料理だから。

 きっと美味しいに違いないという期待感が邪魔をして。


 この繊細な風味を美味いと感じる事が出来なかったようだ。



 ……しかし。

 かれこれ二週間。


 秋乃の料理に付き合わされているわけだが。


 日々のメニューと食材の調整に頭を使う時間。

 買い物と実際に作る手間、すべてを足しても。


 秋乃の料理が生み出す心労の方が上回る。


 すでに、自分で作った方がましだという結論は出ているんだが。


 でもはっきりと断るのも可愛そうだし。


 料理下手の彼女を持った男の宿命と。

 素直に受け入れるべきなのだろうか。


 ……そんな、料理下手子さん。

 醤油をジグザグにかけたとろろを。

 じっと見つめて停止してるけど。


「どうした?」

「……醤油の模様だけ見ると、トラ縞」

「ああ、トラ縞の食べ物探してくれてたのか」

「うん。昨日、立哉君が言ってたやつ。なんで探してるの?」


 笑顔を傾げて訊ねる秋乃が。

 わざわざ探してくれていたとは有り難い。


 これだから料理下手だのなんだのと、いくらマイナス点を積み重ねても。

 心の中の天秤が、行ったり来たりするんだよ。


「それがな? 小さい頃ばあちゃんに作ってやったことがあるらしいんだけど……」

「とろろごはんを?」

「いや? 違うんじゃないかな。たぶん」

「たぶん? 何を作ったのか覚えてないの?」

「ばば孫揃って」

「あらら」


 いつも、難問を解決に導く婆ちゃんの手紙。

 でも今回ばかりは課題を一つ増やしただけ。


 ……ああ、ちがった。

 増えた課題は二つだ二つ。


「すっかり忘れてたぜ。早くお金返しなさいよ」

「お、お金が手に入ったら……、ね?」


 のらりくらりと返済を渋る。

 典型的な踏み倒しへの序曲。


 でも。


「なんでそんなにお金ないんだ?」

「ま、毎度お昼ご飯の食費が貰ってる金額より高くついて……」

「考え無しに食材買うからそうなる」

「あたしのお財布、たった一週間で驚きの軽さ……」

「それで今日はとろろごはんなのね」

「おいも、ネコのお姉さんから貰ったからタダで済んだ……」


 おいおい。

 とろろ芋、貰いものだったのかよ。


 でもまあ。

 あの人がくれた物なら心配ないか。


 ……秋乃が言う、ネコのお姉さんとは。

 デパートの着ぐるみバイトをやってる、ちょっと変わったお姉さんのことだ。


 年中おなかをすかせていて。

 ふらりと野山に分け入っては。


 両手一杯に野草やらキノコやら魚やらを抱えて帰ってくるサバイバルマスター。


 だから彼女は、近所ではこう呼ばれている。



 泥棒、と。



「でも……。やっぱり売り物の方が良かった? 貰いものだから美味しくない?」

「とろろご飯はこんなもんだって。それに俺は美味しいと思うけど」

「でも……」


 秋乃にしては頑固だな。

 なにがそんなに不服なのかと。

 とろろご飯を口に流し込みつつ考える。


「…………あ」


 そうか。

 まさにこれか。


 今更気付いた解答の。

 答え合わせをするために秋乃の手元を確認すると。


 案の定、箸で一口分つまんで口に入れるお嬢様には。

 実に向いていない食べ物だということがよく分かった。


 ご飯を摘まんで持ち上げると。

 上にかけたとろろが軒並み落ちてしまう。


 ならばと、おかずだけ食べようにも。

 出汁で割った緩めのとろろでは持ち上げようもない。


「ぜ、全部落っこちちゃう……」

「くちからお迎えしていいから。とろろご飯は」

「……いいの?」

「あー、やっぱちょっと待て」

「やっぱり、お行儀悪い?」

「そうじゃなく。痒くなるから、スプーンの方がいいだろう」


 とろろが口の周りに付かないように流し込めば済む話なんだが。

 すすり初心者の秋乃に、そんな高等テクニックが出来るはずはない。

 

「痒く?」

「そう。とろろが触れると痒くなるんだよ」

「な、内蔵は平気!?」

「心配ならこれ置いとくから」


 別件で持ってきたのに。

 これはクリティカル。


 俺は鞄を開けて。

 孫の手を出してやったんだが。


「えっと……。これで掻くの?」

「……笑えよ」

「で、でも、胃まではピンとくるんだけど、十二指腸から先はどう掻いたら……」

「うはははははははははははは!!!」


 ああもう。

 会心のネタを瞬時に思い付けたと思ったのに。


 簡単にもう一回り面白くさせるんじゃないよ。


「た……、大変!」

「今度はどうした?」

「なんか痒い!」

「まだろくに食ってないだろうに」

「手が!」


 ああ、なるほど。

 とろろ芋すりおろしてる時。

 べっとべっとになってたもんな。


「すぐ治るから。我慢しろ」

「で、でも、痒い……。お薬とかない?」

「ないよ」

「じゃあ、迷信でもいいから」

「いいんかい」


 おばあちゃんの知恵袋的なものなら効果ありそうだけど。

 迷信じゃダメだろ。


 ……あ。


 そう言えば、手が痒くなった時の迷信、あるな。


「それ、痒いまんまの方がいいかもしれんぞ?」

「な、なんで……?」

「右手が痒いのは、お金が入ってくる前触れなんだ」

「ほ、ほんと!?」

「いや、迷信だけど」

「なんでそんなウソつくの!?」

「迷信でもいいから教えろって言ったのお前だろ!?」


 痒くてイライラしてるせいだろうか。

 理屈が無茶苦茶だよ、なぜ俺が怒られる。


 ちょっと腹が立ったから。

 意地悪してやろう。


「そして、左手が痒いのはお金が出ていく前触れなのだ」

「そ、それは困るけど……、迷信だよね?」

「さあどうかな?」

「なんでそんな意地悪するの!?」

「うわあ泣くやつがあるか!」


 今のは保坂が悪いとクラス中からブーイングが飛んで来たけど。


 お前ら、俺たちの漫才をしっかり聞きすぎだから。


「じゃあ、ほら。痒い時には冷たくすると治るって聞いたことあるから」


 ほんとは孫の手と合わせてネタに使おうと思っていた水筒を出して。

 中から氷を一粒秋乃に手渡した。

 

「これで治るの?」

「かゆみは消えると思うんだが、治るのかどうかは正直知らん」

「迷信?」

「お前が氷持ってる手。具合はどうよ」

「…………はっ!? 痒くない!」


 単に感覚全体を鈍らせれば。

 痒さも感じなくなるって理屈なんだろうけど。


 でも、秋乃は目を見開いて。

 痒みの消えた左手を見つめながら……。


「おいこら。目が¥マークになっとるぞ?」

「だ、だって……。今なら右手だけが痒いから……」

「あ! 秋乃ちゃん! 先週借りてた千円、返すね!」

「おお!」

「そんなばかな」


 なんたるタイミング。

 教室に戻って来たきけ子が、秋乃にお札を手渡すと。


 いよいよ秋乃が。

 悪い宗教に取りつかれ始めた。


「す、すごい……! 立哉君が言った通りに世界が動く……」

「俺を神にするなばかもん」

「……はっ!? どうしよう神様! また左手が痒くなってきた!」


 ずっと氷を握ってたから。

 冷たさでジンジンと痒みが出て来たんだな?


 でも、頼られたってどうしようもない。


「助けてあげたいけど、仏様に祈ることくらいしかできないよ、神様としては」

「そんなこと言わないで! このままだとお金が無くなる!」

「正しい手順を踏んでお願いしないと」

「踏むから! どうするの!?」

「まずはお布施」

「はい!」


 よっぽど必死だったんだろう。


 秋乃は、俺が千円札を財布にしまうまで。

 自分のしたことに気付かなかったようだ。


 そしてようやく目が覚めて。

 返せ戻せと大騒ぎを始めたんだが。


「返す気はねえぞ? 昨日の約束通りにな」

「約束?」

「俺が渡した千円。お金が手に入ったら返すって言ったよな?」


 正論を言ったのに。

 膨れられるとは心外な。


 でも、そんな風船の口が。

 ニタニタと笑い出す。


「なんだ気持ち悪い」

「ふっふっふ……。そろそろ効き始めるはず……」

「え? ……うわ!? 左手が痒い!」


 よく見りゃ左手にとろろが付いてるけど。

 千円札に仕込んでやがったな!


「左手が痒くなると……、どうなるんだっけ?」

「こうなる」


 俺は、とろろの付いたままの左手で。

 秋乃のおでこにチョップした。




「おでこ、痒い……」

「授業中です黙りなさい」


 きっとおでこが痒いのは。

 立たされる前触れだろうから。


 

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