第37話 焦がれる

「妙子だけだ。妙子だけだから……」

身体を重ねながら、長次が言う。

「どうしたの?」

妙子は真顔で長次を見つめる。この透き通った瞳に、自分はどう映っているだろう。そう思うと長次はたまらなく自己嫌悪に陥る。

「ごめん。なんでもない」

そんな長次を、妙子はそっと抱きしめた。白く柔らかい腕で。

「あたしも、長次さんだけだよ」

長次の涙がポツンと妙子の頬に落ちる。

 二人、激しく愛し合った。「この人だ」そう確かめ合うように。



 1ヶ月後。

 

 長次は、相変わらず、ミエの相手をさせられていた。彼女に高い酒を奢られ、高価なプレゼントを贈られていた。

 しかし、明らかに以前とは金の使い方が違う。酒も少しずつ安い酒に変わり、長次以外の取り巻きには、もっと安い酒を振る舞うようになった。当然のように、取り巻きの数は減っていく。長次に毎回のように持ってきていたプレゼントも、安価なものになってきていた。


 長次は文句を言わなかったが、ミエは焦っていた。このままでは、長次が、自分から担当を外されてしまうのではないかと。


「お小遣いを、もう少しくださいよ」

ミエは辰夫にねだる。

「これまでに十分やってきただろう?あの店には連れて行ってもいいが、最近、頻繁に行き過ぎじゃないのか? 小遣いを増やす気はない」

「そ、そんな……」

「行かなければ、そこまで小遣いは要らんだろう?」

「あそこに行けないのはイヤです。でも……」

「でも、何だ?」

「いえ……何でも……」

ミエは惨めな気持ちで俯いた。彼女の中で、長次が自分から離れていってしまうのでは、という不安が、どんどん大きなものになっていっていた。



 お互いに仕事が忙しく、1ヶ月ぶりのデートだ。

「いつもの格好でいいよ」

長次が妙子に言う。

「え、だって……」

前に長次が買ってくれた服に着替えようとしていた妙子は、驚いた。

「俺もいつもの格好だ。ほら」

長次は、あの洗練されたスーツではなく、妙子が知っている「いつもの」格好をしていた。


「なんで、あの服、着なくなったの?」

妙子は長次に尋ねる。

「仕事じゃない時の俺には関係ない。もう普段は着ないことにした」

妙子は、元の長次が戻ってきてくれたようで、心から嬉しかった。

「あ、でも、妙子は、あの服着ればいいと思う」

「え?」

「凄く、似合ってた」

ニッコリと微笑みかける長次。この人のことが好きだ。本当に大好きだ。妙子はそう思った。


 一緒に映画を観たあと、馴染みの洋食店に入る。それだけで、二人は贅沢なデートだと思えた。


 そんな幸せな二人は、ついさっき、ミエとすれ違ったことにも気付かなかった。



「誰なの、あの小娘?  長次のやつ……あたしというものがありながら……」

 ただ、ミエは、辰夫に、お付きの者をつけられていたので、身動きが取れず、どうすることもできなかった。勝手な真似をさせるわけにはいかないので、ミエの側には必ず二人の付添人がいたのだった。



「連れてって下さいな!!」

辰夫を乱暴に揺さぶる。辰夫は、ミエがこうなるだろうことは、老人から聞いてわかっていた。

「3日前に行ったばかりだろう?  贅沢ばかり言うな。」

辰夫は、彼女を押し退ける。


 ミエはフラフラと、台所へと向かって行った。



「困ります!! お許しください!!」

表の宿の一番奥の部屋では、妙子が高木に迫られていた。

 

 良子は先程、妙子とは入れ替わりに、食器を下げに来て部屋を出たばかりだ。妙子はその後に、片付け忘れがないか見てくるように言われ、部屋に入ったのだった。

「騙された……」

そう気付いた頃にはもう遅く、高木に力尽くで奪われそうになっている。

「いやぁあああ!!」

叫ぶが、ここは一番奥の部屋。その手前何室かは使われておらず、声は客には届かない。

 他の仲居たちは、中で何が起きているか知っていても、助けるわけにはいかなかった。女将に何を言われるかわかったものではない。それに、明日は我が身だ。高木に選ばれたのが妙子で、自分ではなかったことに心底ホッとしている者も少なくはなかったのだった。


 妙子は必死で抵抗する。

「助けて!!  助けて誰かあああ!!」

大声で叫ぶが、助けは来ない。

 妙子は、思いっきり、高木の股間を蹴った。

「ううっ!!」

声にならぬようなうめき声を上げると、高木が妙子から手を離した。その隙に、妙子は部屋の外へと逃げた。必死だった。周りのことなど何も見えない。自分がどんな格好をしているかということさえも。


 夢中で走っているうちに、ここが表の宿側ではないと気付いた。

「あっ!  あああ……」

奥の広間の戸の前でへたり込む。 


 音に気づいて、長次が戸の向こうから現れた。驚いて、彼女に駆け寄る。

「妙子?  妙子?!  どうした?!  何があった?  何でここに……」

妙子の髪は乱れ、襟や裾は大きくはだけている。

「あっ、あ……ああ……見ないで……見ないで、長次さん……」

自分の格好に気付いた妙子が泣き崩れる。

「何があった?  妙子?  妙子?」

泣きじゃくる妙子を広間に入れようとして気付いた。広間の戸は閉められ、鍵が掛けられていた。


 と、廊下の向こうから、ドドドドドド!!と、勢いよくこちらに向かってくる足音がする。

 その後ろから、男の声。


「ミエ!!  どうする気だ!!  やめろ!!」


 長次の目の前まで走ってきて、彼が抱きしめている妙子に向かって、包丁を突き刺した。


 一瞬のことだった。声も立てられず、妙子はぐったりと長次の胸へと崩れるように倒れた。


「妙子!!」

叫ぶ長次と、

「ミエ!!」

叫ぶ辰夫の声が重なる。


 次の瞬間、どこからか屈強な男たちが現れ、辰夫と、ミエの口に布のような物を詰め、腹を殴り気絶させると、どこかへ抱えて行ってしまった。

 辺りは、何もなかったように静まり返る。

「う……うう……」

妙子が微かなうめき声をあげた。

「妙子?  妙子!!  わかるか?!  しっかりしろ!!」

長次が必死に声をかけるが、妙子の着物は、どんどん真っ赤に染まっていく。



 気がつくと、目の前に女将が立っていた。

「お医者を呼ぶかい?」

何かを企んでいるような笑みを浮かべながら……。

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