第35話 ミエ

 いつもの曲がり角に初老の男がやってきた。連れはいない。一人だ。


「ここは、男を捨てに来るところと聞いたのだが……」

老人に問う。

「はて。どなたがそのようなことを」

「『クラブクィーン』のママからの情報だ」

「クラブクィーン」、夕子やルリ子が仕事をしていた最高級のクラブだ。

「口外されると困りますが」

「いや、しないとも。それよりも、女だ。女でも捨てることはできるのかい?」

男は少し焦ったように言う。老人は静かに答える。

「ええ。できるかもしれませんが……お金好きか、男好きの女に限ります」

「ああ、男好きもいいとこだ。男にだらしなくて困ってる」


「失礼ですが、その方とのご関係は?」

「女は、めかけだ」

「お妾様」

正妻せいさいもとうに知っているのだ。だが、こいつが美人だけが取柄とりえの下品な女でね」

「下品、と申しますと?」

「とにかく男にだらしない。俺というものがありながら、次々と男を囲うのだ」

「囲う」

「ヒモだよ、ヒモ」

男は、はぁ、とため息をついた。

「女に生活するための金を渡しているのは俺だ。それを何でヒモに使われないといけない?」

「別れるわけにはいかないのですか?」

「俺はな、こう見えて、お大臣様の下で仕事をしているのさ。そこから、マズイ話が出ても困る。妾には固く口止めをしてある。が、別れれば、あの女が総て世間に喋ってしまうだろう」


「そうですか、それはお困りですね」

「全くだ。あれの口を塞ぎたい。俺の金をヒモに与えるような真似はさせたくないんだよ。どうだろう、捨てられないかね?」

「そうですね。少々お時間を頂きたいのですが……。本当に捨てて後悔なさらないと心からお思いになられましたら、この門を4度叩いて下さいませ」

「わかった」



「ミエ、今日は楽しいところに連れて行ってやろう」

「あら、辰夫たつお様、あたしを騙して捨てる気じゃないんです?」

辰夫は内心ギョッとする。この女は何もかもお見通しなのか?

「あはは。そんな顔しないで下さいよ。あなたがあたしを捨てられないことくらい、あたしが一番存じておりますよ」

そう言いながら、ミエは、辰夫の頬にキスをした。


「で、どこに連れて行って下さるんです?」

「お前が好きそうな所だ。小遣いをやろう。遊んでくるといい」

「あらまあ。あたしは大概遊んでおりますのにね。まあ、お小遣いが頂けて、楽しめるのなら、何処へでも」

ミエはシュルッと絹のガウンを脱ぐと、裸の体に下着をつけ、身仕度を始めた。

 辰夫はゴクリと唾を飲む。いつ見てもいい体だ。これを他の男にくれてやるのは実に惜しいのだが……。



 裏口の門の前では、長次が客を待っていた。

「この前、妙子が、お前さんのことを尋ねにきたぞ」

老人が長次に言う。

「妙子が?」

「お前さんがどんな仕事をしているのか、気にしている様子だったな」

「単なる『案内役』じゃないですか。大袈裟だなあ」

「『案内役』に見合わぬ手当を貰っているからな、お前さんは。使い方に気をつけないと、勘繰られてややこしいことになるぞ」

「あ〜、わかりましたよ。気をつけます。お、ご到着のようだ」

長次の言葉に、老人は身を隠した。



「これはこれは、佐藤様。お待ちしておりました」

「長次、今日はよろしく頼むよ。ほら、こちらが、俺の大事な女だ。ミエという」

ミエは、長次の顔に見惚れている。

「これ、ミエ」

辰夫が促すと、ハッと気付いたように言った。

「よろしくね、ええと……」

「長次と申します。お見知り置きを」

「覚えたわ。長次」

「じゃあ、後で迎えに来る。連絡してくれ」

辰夫は、「ミエの小遣いだ」と言い、札束をポンと長次に渡した。

「お任せください。さ、ミエ様、どうぞ中へ。私の仲間が待ち兼ねております」

ミエは、ずっと長次の顔に見惚れながら、言われるままについていった。



「中で何をやってるのかね?」

「貴方様のお連れ様に喜んで頂いております」

「喜ばせる。どうやって?」

「褒めちぎったり、甘い言葉で酔わせたりです」

「……そうか」

「これから、お気に入りの男に暫く貢ぐことになりましょう。お金がかかります。ご準備のほどを」

「うむ……、仕方ないな」

「散々、お気に入りに酔った頃に、渡すお金を減らして行って下さい」

「中の状況はわからんのか」

「時々、お知らせします。その時はご準備を」

「そうか。任せた」

「かしこまりました」


 随分と金がかかる。結局、あの女に男を与えるために、金を払っている。今までと同じではないのか? それどころか、もっと必要になってくるのではないのか?

 

 あの女を捨てることができるなら安いものだが、本当にできるのだろうか? 

 辰夫は、一抹の不安を感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る