妙子の場合

第34話 妙子の場合

佐吉さきちさん、聞きたいことがあるの」

妙子たえこが少し駆け足気味に、老人のところにやってきた。息が白い。足袋に業務用の外履きを履いている足が寒そうだ。たしか、まだ20かそこらだったか、熟し切ってはいないが、恐らく男は知っている体だ。


「どうした?」

長次ちょうじさんのことで聞きたいことがあって」

「ほう。長次。どうかしたのか?」

「長次さん、最近、ここを任されているでしょ?」

「ああ、この前、少しの間、手伝ってもらったな」

「……こっちは、『特別なお客様』の入口だと聞いてるの」

「うむ、確かにそうだが」

「その『お客様』と長次さんは、何か関係があるの?」

「関係、とは?」

「あの、その、奥の間に連れて行かれて……あっちの……ことを……」


 なるほど、この娘は長次のことが好きなのか。


「さあな。中のことは、わしにはわからんよ。気になるなら、本人に聞け」

老人は突き放すように言った。

「……そう」

妙子は、また小走りに帰っていった。



 長次は、数週間前から奥の間を担当することになった。けれど、奥の間で何が起きているのか、表の宿の従業員は殆ど誰も知らない。妙子は、給金が良いので、この宿に雇ってもらったのだが、変な規則が多く、不思議な所だと思っていた。正直、表の宿では、不安に思っている者が少なからずいたのだった。


 裏口から続く「奥の間」には入ってはいけない決まりだった。興味本位で立ち入った仲居が数人、辞めさせられたらしく、翌日から来なくなった。

 それから、向かって右側の厨房には立ち入るなと。中庭にも近づくな、という変な決まり事もあった。中庭側の廊下の入り口には鎖が渡され、通れなくしてあった。料理は全て左側の厨房から出され、それを仲居が、各部屋へと届ける。

 では、右側の厨房では何が作られているのだろう? 仲居頭に問うと、

「豚や鶏を絞めたのを解体しているらしいよ」

と言ったあと、妙子の耳元で囁いた。

「ここで長く働きたいんなら、下手な詮索はしないことだよ」


 そんな理由わけで中庭には客は案内できなかった。しかし、文句を言うような客はいない。外に作られた庭で、十分に目を楽しませることができたからだ。妙子にとっては、その庭の向こうのコンクリートの高い壁を、どこか息苦しいと感じていたけれど。



「ほら、このネックレスはどうだ?」

長次が妙子に言う。


 久しぶりに、同じ日に休みがとれて、二人で出かけた。もうすぐ誕生日の妙子にプレゼントを買ってやる、それから食事に行こう、というので、妙子は自分の持っている中で一番いい服を着てきた。

 しかし、いざ百貨店に入ると、自分の服装などみすぼらしく、早くここを去りたいと思っていた。


「いいよ、そんな高そうなもの。ネックレスなんてつけないし」

いつの間に買ったのだろう、洗練された服を着る長次に、妙子は答える。

「じゃあ、服にしようか。妙子に似合いそうな服が沢山あったんだ」

「……」

やはり、長次は、私のこの服装をみすぼらしいと思っているに違いない。彼の服装に合わせた物を着てほしいのだ。つけることもないだろうネックレスに比べれば、今日、長次と一緒に食事に行くための服を選んで貰った方がいいのかもしれない。

「……うん」

長い間があって、妙子は頷いた。


 長次は喜んで、婦人服売り場に連れて行く。

「オーダーメイドでございますか?」

店員が、長次の格好を見て言う。

「いや、既製の服でいいんだ。彼女に似合う服を2、3点選んで欲しいんだが」

「かしこまりました。さ、奥様、こちらへ」

「奥様? いえ……」

妙子は、顔が真っ赤になるのがわかった。

『奥様』じゃないんでね」

長次が笑う。

「まあ、これは大変失礼を。お客様、こちらへ」

妙子は、長次の言った「まだ」という言葉に、ドキドキしていた。


 キッチリとしたタイトなスーツや、ふんわりとした袖のワンピース、幾何学模様のミニスカート……。着たこともない服に袖を通すのは、物凄く緊張する。

「あら! これが、とてもお似合いでございます。お連れ様にお見せしますか?」

「え、ええ……」

試着室から出てきた妙子を見て、満面の笑みで長次は頷いた。

「それにしよう」

そのまま着ていけばいい、と言う長次の言葉に、店員はすぐに値札を外し始めた。チラッと見えたその額に、妙子は驚きを隠せなかった。


 他にも数点を袋に入れてもらっているのを待っている間、妙子は、長次の元へ駆け寄る。

「こんな高い物、こんなに沢山もらえないわ、長次さん」

「一年に一回の誕生日だ。俺にも奮発させてくれよ。頼む、妙子」

長次がそう頼むのだ。断る理由が見つからない。

「……ありがとう」

妙子は、ありがたくプレゼントを貰うことにしたのだった。


「着ていらしたお洋服は、どうなさいますか?」

店員の言葉に、

「捨てて下さい」

迷わずそう言った長次に、妙子は目を丸くした。……さっきまで、私の一張羅いっちょうらだった服……。コツコツと仕事をしながら貯めたお金でやっと買えた服……。それをゴミのように、捨ててしまえるようになったのか、この人は……。

「すみません、持って帰ります」

妙子はそう言うと、別の袋に入れて貰った。


 一緒に行ったレストランも、妙子が入ったこともないような高級なところだった。妙子は緊張して、長次が、にこやかに何か話しかけてくるのも耳に入らず、曖昧に頷いていたし、料理の味などさっぱりわからなかった。

 ただただ、この場を早く立ち去りたい。そう願っていた。



 長次は、いつの間に、こんなに羽振りがよくなっていたのだろう? 長次に何があったのだろう?


 妙子は、長次のしている仕事を、疑わずにはいられなかった。

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