第32話 狂う

「あの薬を取り返そう。」

瑠奈は南に言う。

「薬を? 取り返す? どういうこと?」

「あの人が、あの夢の中に行かないようにするの」

「ダメだよ、そしたらさ、うちらが殺されちゃうじゃん」

「他の奴を探そうよ。悪い奴。もっと悪いことしてる奴。殺されても、誰にも迷惑かかんないような奴」

瑠奈は焦ったように言う。

「うちらの周りに、そんな奴いる?」

南は意外と冷静だ。

「だって、このまま行ったら、紗絵羅が不幸になっちゃうんだよ?」

「……」


「紗絵羅のためを思ってやってることで、逆に紗絵羅を苦しめてどうすんの?」

「だからって、じゃあ、うちらが殺されるの?」

「……そうなんだよね……だから……」

瑠奈は返事に困る。

「とりあえず、あの女からは、あの薬を取り上げよう。それは賛成」

南が言う。

「ごめんね、頭悪いから、方法が思いつかないんだよね」

「頭悪いは、お互い様だわ。あたしも何にも思いつかない。だけど、紗絵羅や紗絵羅のパパのお金がなくなるのは困るし」

「あの薬を取り上げて、あたしたちが、あいつをあそこに行けなくしたら、あたしら、どうなるのかな?」

「……やっぱり骨と肉?」

「うーん……」


「とりあえずさ、取り上げてみない?」

と、南。

「素直に渡すとは思えないけど」

「もう一度呼び出そう。今度は、その薬がエサ」

「薬がエサ……?」



「ホントに?ホントに足してくれるの?」

いつもの駐車場に車を停めて、瑠奈は薫と交渉していた。

「はい。だから、このケースと交換してください」

瑠奈は、薬に見えるラムネを入れた小さなケースを見せた。中身はぎっしりだ。薫の持っているケースには、錠剤がもう5〜6個になっていた。悪くない取り引きに見えるだろう、と、瑠奈と南は思っていたのだ。

「……騙す気ね」

薫がボソッと呟いた。

「誰に命じられたの? 長次?」

「いえ、私はこれを渡すように言われただけで……」

「私が高いものをプレゼントできなくなったから? 高いお酒をオーダーできなくなったから?」

「そんなこと……」


 次の瞬間だった。

 薫は自分の持っていた薬を一気に全部飲んだのだ。


 瑠奈は怖くなって、すぐに逃げた。薫の車は、急発進して、大通りへと出て行った。

「え……?」

瑠奈と南が顔を見合わせる。


 キィイイイ!! ガッシャーン!! 

 キャーーー!!

 ワーーー!!!


 近くで凄い音と、多くの人の悲鳴や驚きの声が聞こえてきた。


「え……」

恐る恐る、二人が大通りへ出ると、信号二つ向こうの交差点に人だかりができ、大きな騒ぎになっていた。



 本人の車だけが商店街の前の電柱にぶつかって、車がひっくり返って怪我をした。他の人や車を巻き込まなかったのは不幸中の幸いだった。


 薫は、怪我がある程度治ると、精神科に入院させられた。もう、魂がここにないかのように、ボーッとしている。時々笑ったり、泣いたりはしているが、意思の疎通はできなくなっていた。



「手は尽くしますが、状態が少し良くなっても、元に戻ることはないと思ってください」

医師は、茂明にそう言った。

「そうですか……」

「あ、それと、後ほど警察の人から説明があると思いますが、奥様は薬物依存症ではありませんでした」

「じゃあ、転がっていたケースの中身は……?」

「ラムネ菓子でした。奥様の体からも薬物は一切出てきませんでしたし、もう一つ転がっていたケースに付着していたものも、ラムネでした。奥様が薬物でああなったとは考えられません」

「……そう……ですか」

では、何が原因だったのだろう……? 急に精神に異常をきたしたのか。しかし、茂明にとって、もうそれも、どうでもよくなっていた。


 最早、可哀想という感情も消えかけている。面倒だ。完全看護だし、あとは、金はかかるが、オプションセットにして、必要なものは病院の方で揃えてもらおう。

 いつの間にか、薫に対する「愛情」は、とことん薄れていた。ただ、幼い息子のことだけが心配だった。母親は、とっくに息子に興味を抱かなくなっていたのに、息子は、常に母の愛情を求めていた。


 この女は、生きているだけでも、価値があるのだろうか?それともいっそ……



 茂明は、紗絵羅には本当のことを話した。ここのところ、母親の様子がおかしかったこと。家の金を何百万と持ち出していたこと。そして、事故のこと。大きな怪我は治りそうだが、精神は元に戻りそうにないこと。


「そう……」

紗絵羅はうつむいて言った。

「お母さんのことは残念だけど、たあちゃんのことは、あたしが頑張って育てる」

「パパも頑張るよ。……ありがとう、紗絵羅」

茂明は、紗絵羅の頭を撫でた。


 瑠奈と南は、あれ以来、あの夢を見なくなった。

「何で? 夢の中で、あいつ、殺されちゃったのかな?」

「それしか考えられないよね」

「あいつ、どうなってるんだろ?」

「紗絵羅に聞いてみる?」

「紗絵羅に勘付かれないかな……」

「う〜ん。紗絵羅には、本当の事言ってもいいんじゃないかな……。気づかれたら、だけど」


 二人は紗絵羅の所に行き、薫の様子を尋ねた。

「命だけは取りとめたんだけどね」

薫の事を聞いて、二人は少し安心した。生きてたのか。よかった。

「でも、魂が抜けたみたいになって、話も通じないどころか、こちらの呼びかけに対しても反応できてないみたい。それこそ、生きてる

「そうなんだ……。でも、生きてくれてるだけでも、たあちゃんは喜んだでしょ?」

「怖がって、近寄らなかったみたい。」

「え……」


「あんな好き勝手やって、育児放棄して、家のお金を散々持ち出したのよ? 何に同情すればいいのかわかんない」

紗絵羅は、俯いて言う。

「でも……」

瑠奈が

「でも、お母さんは、たった一人の『』だよね?」

と言いかけた時、ふっと窓の外を見上げながら、紗絵羅は言った。


「死ねばよかったのに」

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