第19話 恩人

 いつもの曲がり角。

 少し怒ったような顔で、老人がルリ子を待っていた。

「あの……夕子姐さんがこちらに……?」

「いらっしゃいました」

「渡辺様と一緒に……?」

「そうです」

老人の声から、本当に怒っているのがわかる。 


「夕子姐さんは、渡辺様を捨てることが……?」

老人は目を閉じ、首を横に振った。

「夕子様は、渡辺様と一緒に、中にお入りになりました。もう、出てこられることはないでしょう」

「えっ!! そんな! 困ります!! 嫌です!! 姐さんを返して!!」

ルリ子は、老人の両腕を掴んで頼み込む。しかし、老人は、首を横に振るだけだ。

「夕子様は、あなたの代わりに、中に入られました。もう帰ってくることはないと思ってください」

「そんな……」

ルリ子は、その場に座り込んだ。気が遠くなりそうだ。私が……私が、夕子姐さんを捨ててしまった……。


「これで、晴れて、あなたは自由になりました。どうぞ、お帰りくださいませ」

老人は、そう言うと、中に入り、門を閉めてしまった。



 トボトボと家に帰る。


「姉さんお帰り。今日は早かったね」

弟の清が笑って出迎えてくれる。

「うん……。ただいま」

清は随分と疲れた様子の姉を気遣いながら、

「あ、そうだ。姉さんに届け物があったよ」

「届け物?」

「お店の人かなあ。かずえさんって言ってた。『預かり物で、お姉さんに届けて欲しいといわれています。』って」

一枝かずえ姐さん。お店のトップだ。「預かり物」? 渡辺からの物だろうか、いや、それならば、もっと下っ端の子か、ボーイの子が持ってきてもいいはず……。


 清から受け取った風呂敷包みは、ずっしりと重い。

「なんだろうね?」

清は何の疑いも持たぬ顔で、その荷物を見ている。

「まさか……」

部屋に駆け込み、荷物をほどく。風呂敷の中身は、丁寧に紙に包まれている。ルリ子は、そっと紙を剥がした。


 札束が入っていた。

 信じられないほど多くの。


 添えられていた一通の手紙。

 夕子からだった。


「ルリちゃん、ごめんなさい。たくさん嫌な思い、辛い思いをさせてしまいました。

私があなたにこんな仕事をお願いしたばかりに。

渡辺様のことは、私に任せて下さいね。

それから、もうお店は辞めなさい。

これで、あなたの新しい人生をやり直して欲しい。

私にはこれくらいしか、あなたに詫びることができないけれど。


ルリちゃんの、これからが幸せでありますように」


 ルリ子は泣き崩れた。声を上げて泣いた。清が驚いて部屋に入ってきた。そして、札束の山にもっと驚いた。


「姉さん? これは……?」


 息ができないほど泣いているルリ子の背中を撫でる。コップに水を汲んできて、ルリ子に飲ませた。


 ルリ子は、少しだけ落ち着くと、清に言った。

「命の恩人からなの」

「こんな大金……どうするの?」

「その人が、私達にくれたの」

「え……?」



 300万あった。借金は一気に返せた。清を高校に行かせてやることもできる。が、清はルリ子、いや、幸恵さちえからの申し出を断った。

「それは姉さんが持ってて。僕は働きながら、自分の給料で、夜間の高校に行くから」

「普通の学校にも通えるのよ?」

「今まで借金に回していた分がなくなったんだ。夜間なら、働きながらでも十分通えるさ。僕がそうしたいんだ」

幸恵は清を見た。この子は、いつの間にこんなに大人になっていたのだろう。一緒に苦労させてしまった分、清には幸せになってもらいたいと心から思った。



 令和4年5月。


 新緑が美しく、その間から差してくる光がキラキラと眩しい。優しい風が海の匂いを運んでくる。波は穏やかで日の光を反射してきらめく。


 穏やかな海の見える丘の小さなカフェ。そのテラスにある揺り椅子にもたれ、幸恵は海を見ていた。


 あの後、幸恵は、すぐにあの街を出て、この近くに越してきた。結婚し、夫と一緒に、この店を開いたのが幸恵が32歳、夫が35歳の時だった。娘と息子を育てながら、軽食屋を営んだ。料理が得意で、この店を継ぎたいと言い出したのは娘の紀美子きみこ。夫が75で亡くなり、その後は娘夫婦に店を任せた。

 娘夫婦は、今風に店をリフォームして、今ではカフェになった。世の中に蔓延する新型ウイルスのせいで、一旦は売上が落ちたものの、娘が機転をきかせ、ランチやサイドメニュー、コーヒーなどをテイクアウトにしたおかげで、客足は戻った。戻ったどころか、増えた。嬉しい悲鳴をあげている。

 孫たちも大きくなった。紀美子の長女、佳奈恵かなえは、一昨年結婚して、もうすぐお母さんになる。



 夕子姐さん。ありがとう。

 お陰で、幸せになれました。


 幸恵は、スースーと気持ちよく眠り始めた。

 そして、もう目覚めることはなかった。



……………………


「最近さあ、変な夢見るんだよね〜」

瑠奈るなは、みなみに言う。

「夢?」

「気がついたら、いっつも曲がり角の前なの」

「なんだそれ?」

「なんなんだろ」

「こわっ」

「あはは。ヤバっ。こわっ」

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