第18話 不安

「ルリ子、お前は勝利の女神だよ」

嬉しそうに言いながら、渡辺はルリ子の体をむしゃぶる。ルリ子は、もう彼の好きなようにさせる。「嫌だ」という感情も消えつつあった。勿論、こんな生ゴミみたいな男を好きになるなんて、死んでもありえないことだったけれど。


 死んでもありえない……。本当に死んだら、この男と離れられるのに……。


 涙が一つこぼれ落ちる。

「ルリ子? どうした? どこか痛いのか?」

「いえ……なんだか調子が……少し……」

「そうかそうか。無理はさせられん。今日はやめておこう。そこで朝まで寝るといい。」

渡辺はルリ子の体から離れると、本宅へ帰ってしまった。


 ふわふわの布団にくるまれながら、ルリ子は泣いた。号泣した。

「私の何が悪いの?! 何悪い事したの?!」

客を消そうとしているのだ。否、既に何人も消してきているのだ。悪事に手を染めているのは間違いない。それはわかっているけれど……。

「なんでこんなことになったの……?」

涙が次から次から、体の奥から湧いて出て、一晩中止めることができなかった。


 翌日、フラフラと出勤したルリ子に夕子が声をかける。

「どうしたの、ルリちゃん。どこか調子が悪いの?」

夕子の顔を見ると、ルリ子の目からまた涙が一粒落ちた。

「ど、どうしたの、ルリちゃん?」

「姐さん……」

「ちょっと、こっちに来なさい。」


 夕子は、VIPルームへとルリ子を連れて行き、座らせた。

「何があったの? 渡辺様とのことかしら?」

ルリ子は、ワッと泣き出す。

 夕子はルリ子の隣に座り、ルリ子の背中を優しく撫でた。

「失敗したのね……」

ルリ子は小さく頷く。

「ずっと、あの人の女でいるのは嫌です。死んだ方がマシです」

「ルリちゃん……」

「だからって、肉にされて、食べられてしまうなんて……」

「……」


 夕子は何かを考えているようだった。

「いいわ、今日は、とりあえず休みなさい。渡辺様が来られたら、私が相手をするから」

「でも……」

「大丈夫。心配しないで、少し休みなさい」

「……はい」


 ルリ子は、自分の家へと帰って行った。



 父親の借金はあとどれくらい残っているのだろう? ルリ子は借用書の束を見ながら思う。小さな家なら建てられそうな金額だ。店を辞めても返していけるだろうか? いや、別の店に雇ってもらうのはどうだろう。また下っ端からやり直すの? 安い手当で? 今の仕事以外で、あと200万近い借金を、どうやって払っていくのか……。弟に無理もさせられない。清だって薄給の中から1万円近く借金に充ててくれている。給料の三分の二以上だ。

 このまま渡辺の女として飼われようか。時々お小遣いだよと言って、5千円、1万円と貰うことがある。指名料だって入る。だけど……。


「嫌……あんなゴミの女になってしまうのは嫌……。もう嫌なの……」


 自分の部屋の隅っこで、膝を抱え、小さく小さくなって泣いた。涙が止まらなかった。


 

 翌日、出勤すると、夕子が来ていなかった。

「夕子姐さんは?」

他の子に尋ねる。

「夕子さんなら、今日はお休みすると、お電話が」

後ろから、ボーイのヤスオが代わりに答えた。

「そう……」

嫌な予感がした。


 その日は渡辺も来なかった。昨日は夕子が一緒に帰ったと聞いた。


「久しぶりの夕子さんで、渡辺様も大喜びされたのかもしれませんね」

クスクス笑いながら、ヤスオが言う。

「馬鹿ねえ。夕子姐さんが、そんな簡単に体許す訳ないでしょ?」

「そうよ。お酒のお相手だけに決まってるじゃない。」

他のホステスたちも、ヤスオのセリフに呆れて言った。


 ただ一人、ルリ子を除いては。


 夕子は次の日も来なかった。

「ちょっと体調が悪くて、病院に行ったら、暫く安静にして寝てなさいと言われたそうで。四、五日休むかもしれないとの電話がありました」

ヤスオが言う。

 さすがに皆、ザワついた。

「どこの調子が悪いのかしら?」

「ちゃんとご飯は食べられてるのかしら?」

「私、ちょっとお見舞いにいこうかな……」

それを聞いてヤスオが言う。

「感染るかも知れない病気だから、誰も来ないようにとのことです」

「感染る病気?」

「えー、何かしら?」

また、ザワザワした。


 夕子が休んでいる間、渡辺も来なかった。ルリ子の中で、不安が確信的になってきた。

「今日、仕事が終わったら、行ってみよう……」

そう決めた。

 渡辺のところへ行くのは、正直、怖かったけれど。



「旦那様でしたら、一昨日からこちらにはこられておられません」

別宅を管理する藤原という男が言う。

「一昨日の夜、夕子姐さんと一緒に帰ったはずなんですが」

「いえ、こちらには。本宅と連絡を取りましょうか?」

「いえ……来てないならいいの。夕子姐さんを探しているだけだから。ありがとう」



 夕子姐さん……まさか……いや、そんな筈は……。

 行きたくない場所だった。が、聞きに行かないわけにはいかない。


 ルリ子は、の入り口にたって、気持ちを落ち着かせようと深く深呼吸をした。

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