第17話 逃げられない

 一人でこの通路を通るのは初めてだ。

 夜に女一人で通るような道ではないな、とルリ子は思いながら進む。

 いつもの曲がり角で門番の老人が待っていた。


「あなたが無茶をしたお陰で、少し時空が歪みましたな」

「時空?」

「まあ、なんとか修正できましたが。また『迷子』が来るかもしれません」

老人の話はよくわからなかったが、

「あの……、私、昨日、お客様と一緒にここに来ませんでしたか?」

恐る恐る尋ねる。


「いらっしゃいました」

老人は、きっぱりと答えた。


「結論から申し上げますね」

「結論?」

「あなたは、もう、ここからは逃げられません」

「ど、どういうこと?」

「あの男に気に入られてしまったのですよ」

「あの男? 渡辺様のこと?」

「いいえ」

「じゃあ、誰に?」

「この通路を出た先に、屋台があったでしょう」

「ええ……」

あの、何でこんなところに? と思った屋台だ。

「あそこの店主に気に入られてしまったのです」

「それとどういう関係が?」

「あなたの味が知りたくなったのでしょう」

「な、なによそれ。単に私の体が欲しいってこと?」

「そうです。あなたの体、そのものが」

「そのもの?」

「あなたの、肉が、です。」

「に、肉って!」


 そう言えば、ここに捨てられた者は肉と骨にされると、夕子姐さんが言っていた。……まさか、あの屋台で焼かれ、客が旨そうに食べていたのは……。


おなごの肉は柔らかくて、ご贔屓ひいき様に喜ばれるんです」

「そんな……どうすれば……どうすれば逃げられるんですか?」

「逃げられない、と申し上げました」

「ずっと……ずっと……あの男から離れられないということですか?」

「あの男が、あなたを連れて入れば、終わります。すべてが。あなた自身も」

「入らなければいいんじゃないの?」

「ずっと、あの方との関係を続けたいと? あの方を捨てたくて来られていたのでは?」


 どうしよう、どうしよう……

 どうしてこんなことになったの?


「渡辺様は、最近、負け続けておられました」

ルリ子の心を読むように老人は言う。

「博打というのは、大抵、最初のうちは勝たせるものです。それで味を占めさせる。何度か負けさせた後、また勝たせるのです。そのうち、負けてもその分勝てば取り戻せると思い始める。そこから、人は『底なし沼』に入ってしまうのです」


「渡辺様は、最近、負け続けていた……」

「そうです。もう一息のところでした。あなたが、もう二、三度連れて来られたら、確実に、あの方は……」

「そうだったの……」

「しかし、あなたは逃げたのです。あの方を置き去りにして。しかも私が止めたにも関わらず、行ってはならない方へ」

「だって、負けてるなんて知らなかったんですもの!!」

「あの屋台に見つかったからには、あなたは逃げることはできなくなりました。また渡辺様は、博打で儲け始めることでしょう。あなたは、完全に、あの方の物になってしまいました。それが嫌でしたら、もう一緒に中に入って、肉になるしかありません」

「どっちも嫌よ!!」

ルリ子は、その場から逃げ出した。今度は来た方向に。間違っても屋台の方に逃げたりはしない。


 逃げて、逃げて、逃げて……


 ここはどこだろう?来たこともない街に来てしまった。辺りを見回す。もう夜中だ。どこか泊まるところを探さないと。

 お店はどうしよう? 何も告げずに辞めようか? いや、夕子姐さんから、何の報酬もまだ貰っていない。他の姐さん方でも、数万円という大金をくれた。夕子姐さんなら、数十万円だってくれるかもしれない。それだけあれば、借金が大幅に減ってくれる。それをこのまま捨ててしまうのか……。


 どこか宿を探してから、この後どうするかを考えようと思っていた。しかし、宿の場所もわからない。

 近くに屋台が出ていた。そこで聞くか、と思い近づく。店主が顔を出して、ルリ子を見ると、ニヤリと笑った。


 ――あの男だ!!


 ルリ子は逃げた。逃げて、逃げて、逃げて、ふと気づくと、あの曲がり角の前にいたのだった。


「いやぁああああ!!」


「ですから、逃げられないと申し上げたではないですか」

老人が目を閉じて言う。

「あの方の女になるか、肉になるか、ゆっくり考えておいてください」

老人は、それだけ言うと、中に入り、門を閉めてしまった。


 ルリ子は、その場にへたり込み、暫く動くことができなかった。

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