第16話 歪み

「ここは……?」

気が付くと、ベンチに横たわっていた。

「公園?」

どこの? 見覚えがない。

「えっ?」

ルリ子が見上げた先には、大きな建物。一つや二つではない。とてもとても高いビルが立ち並ぶ。

 後ろを何台も車が通る音がする。振り向いて驚く。物凄い数の車が、とんでもなく複雑に立体交差した道路を、凄い速さで走っている。


「ここは……どこ?」

戸惑うルリ子の横を、女の子二人が通り過ぎた。透明な蓋をした透明なコップに、何か入ったものを飲みながら、キャアキャア笑って歩いている。この子たちが着ているのは、まさか制服だろうか? いや、こんな破廉恥はれんちな短いスカートを履くなんて、学生ではあるまい。きっと同業者に違いない。

 向こうから走ってきた黄色い袖なしの服を着た男の人は、耳が悪いのだろうか、白い補聴器のようなものを両耳に入れて走っている。ベンチに座る人々は、皆同じような四角い板状の物を指でこすっている。


 それにしても……

 ここはどこなのだろう……

 なんでこんなところにいるの、私?

 

 言葉は通じるだろうか。さっきすれ違った女の子たちの言葉は、さっぱり意味がわからなかったが……。


「あの……」

小さな女の子の手を引いた女性に声をかける。

「はい?」

と、こたえて、すぐに白い布の上から口を抑え、あからさまに嫌な顔をされた。

「あの……ここは、どこですか?」

もっと変な顔をされる。言葉が通じないのだろうか、やはり。

「東京です。って……どこまで答えればいいの?」

「東京?!」

まさか……。さっきまで、私の住んでいた東京は、こんなのではなかった。


「すみません、子供がいるんです。マスクをして、喋ってもらえませんか?」

「マスク? それ、マスクなんですか?」

ルリ子の知らない形のマスク。そういえば、その辺にいる人々も同じようなマスクをしている。

「この辺に大きな工場はありませんよね? 空気も綺麗なのに?」

ルリ子がそう言うと、女性は怒ったように言った。

「新型ウイルス、流行ってるでしょ?!」

「え……?」

なんのことだ……。全くわからない。

 まるで、タイムスリップしたかのようだ。


 まるで……タイムスリップ……? まさか。


「すみません、今年は昭和何年でしょう?」

恐る恐る、ルリ子は尋ねる。

「はあ? 昭和? ……あの……向こうに交番があります。そこで話を聞いてもらってください」

そう言うと、その女性は子供の手を引いて、足早に去っていった。


 交番で話す。マスクを渡され、何か液体を手に擦り込むように言われた。

「あなたは、昭和40年から来た、と」

「そうです。今は、昭和何年なんですか?」

「令和4年です」

「れいわ?」

ルリ子の反応を見て、警察官二人、顔を見合わせた。

「厄介そうなのが来たなあ……」

「なんだよ、昭和から来たって……」

ルリ子に背中を向けて、小声で話す。

「家はどこなの?」

若い方の警察官が尋ねる。ルリ子は、自分の住所を告げた。

「なんだ、近くじゃない。田辺さん、私ちょっと送って行ってきます」

彼はそう言って立ち上がった。

「さあ、帰りましょうね」


 連れられて行った場所には、高いビルが建っていた。

「いいマンションじゃないですか。ちゃんと、自分の部屋に戻って下さいね……いや、部屋まで送ります。何号室ですか?」

「え、あ……あの……」

「ここでしょ?」

「いや、違うかも……」

「あなたの言った住所、ここですよ?」


「……」

 若い警察官と話している間に、気が遠くなっていった。



 眩しい光とスズメの鳴き声で目が覚めた。

 

 ルリ子は、自分の部屋の、自分の布団で、ちゃんと寝巻きに着替えて眠っていたのだ。


「夢……?」


 夢を見たのだ。えっ? どこからどこまでが夢? 東京……あんなことになってないよね?

 慌ててルリ子は窓を開けて外を見た。いつもの風景だ。

「よかった……」


 だが、本当に、どこからどこまでが夢だったのだろう? そもそも、私は「ルリ子」なのか? 幸恵のままではないのか? あんな汚い男たちを相手にしていたことも、悪い夢だったのではないのか?


 しかし、ルリ子の願望は、洋服ダンスを開けた時、もろくも崩れた。

 そこには、赤やピンク、黄色……派手な服が並んでいた。引き出しの中には際どい下着。男たちからのプレゼントも入っていた。


 

 ハッとした。

 渡辺をあの店に置き去りにしてきてしまったことを思い出したのだ。


 定時よりずっと早く店について、すぐに夕子のところに謝りに行った。

「あら、昨日は、渡辺様、真っ直ぐお帰りになられたんじゃなかったかしら?」

「え……?」

「会社の人から店に電話があって、ちょっと不機嫌になりながらお帰りになったわよ、確か」

「え……?」

「あら、いやだ、一緒にお見送りしたわよ、ルリちゃん」

「そう……でした……っけ」


 なんだか不思議なことが起きている。何故だ? どこでこんな変なことに……?


 脳裏に、あの曲がり角のことが蘇ってきた。


 あそこからだ。

 あそこから、事実が歪んでしまっているんだ……。


 ルリ子は、仕事が終わったら、あの曲がり角の裏口に立つ、門番の老人に話を聞きに行こうと思った。

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