第14話 ルリ子と幸恵

「ルリ子さん、最近お疲れですよね」

裏でボーイのヤスオが尋ねてくる。

「たまには休んだほうがいいですよ」

そう言えば、渡辺と関わってからこっち、殆ど休みを取っていない。


「そうね」

「温泉でも行ってきたらどうです?」

ヤスオがルリ子の肩を揉みながら言う。

「つきあいますよ、俺」

耳元で囁いた。

 こいつもか。こいつもなのか。男っていう生き物は、ばっかりなのか?!

「あたし、高いわよ」

そう言い残すと、ルリ子は、フロアに出て行った。



 恋をしたことがないわけではなかった。


 まだ父親の会社が上手く行っている頃、高校を卒業してすぐに入った会社で、気になる人ができた。 


 ルリ子は……いや、幸恵さちえは小さな商社の事務をしていた。元々頭が良く、容姿もいい彼女は、たちまち男性社員の人気者になった。勿論、女性社員にはねたむ者もあった。所謂「おつぼね」様にも。

 ただ、幸恵は、そんなことを気にするたちではなかった。そんなことは、学生の頃からのことだ。そんなくだらないことより、自分の夢を叶えたいという思いが強かったのだ。



「夢……かぁ」

ルリ子はため息をつく。

「なんだったっけな……」

忘れてしまった。否、忘れたことにしていた。



「海の近くにかあ。いいね」

「小さなお店でいいの。軽食とデザートと、コーヒーや紅茶。窓から海が見える場所で」

考えるだけで、ワクワクしてくる。

「幸恵は、料理もお菓子作りも上手だし、いい店ができそうだね」

正樹まさきはそう言って笑った。

「じゃあ、僕は君の隣で、ウェイターかな?」

「えっ?」


 思えば、あの瞬間までが、幸恵の「幸せで恵まれた」人生だった。


 その日、正樹とのデートから帰った彼女は、父の会社が倒産したことを知ることになる。父は虚空を見つめたまま力なく座り込んでいて、母はそんな父を責めて泣きわめいた。幸恵と弟のきよしは、二人を呆然と見下ろしたまま立っていた。



 正樹と別れるのは辛かった。

「君の面倒なら僕が見るから!」

それは彼の最大級の優しさだっただろう。けれど、幸恵には、家を、両親を、弟を、見捨てて、自分だけが幸せになることなどできなかった。

 母は、家にあったわずかばかりの金を持って逃げた。夫も子供たちも捨てて。自分は、母のように逃げることは絶対にできない。何としてでも、父の残した莫大な借金を返そうと決めた。


 この時点で、幸恵は、自分の身を売ることさえも考えていた。だから、本当は、最後に正樹に抱いてほしかった。一番愛した人に抱かれれば、吹っ切れるのではないかと思っていた。

 けれど、彼は、幸恵を抱きしめただけだった。

「自分を……自分自身を大切にして……」

その優しさが、かえって幸恵を孤独へと追いやるとも知らずに。


 こうして、正樹との清く美しい恋は終わった。



 カラカラと氷の音をさせて、水割りを作る。客の好みの酒の濃さは覚えている。どんな話が好きで、どんな仕草をされるのが好きかということも。

 客の、束の間の架空の恋人。それで満足して帰ってくれて、また時間をあけて会いに来てくれるようなら、まだいい。金に物言わせて、店のトップクラスを独り占めしている客に比べれば。

 店に落としてくれる金額は全く違っているのだとしても。



 綺麗事だ……。今更……。


 ルリ子は、今日も、好きでもない男を喜ばせるために、こうやって酒を作り、一緒に笑う。


 それが、彼女の仕事だから。

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