第21話

 どうしよう。ヨンが行ってしまったら、吾輩一匹ぼっちになってしまうではないか。嫌なのだ、怖いのだ。ヨンがいたから何とか平常心を保っていられたのに。うう、早く、早く戻ってくるのだー……。

 それから暫し沈黙が訪れる。どうして急に静かになってしまうのだろう。視覚からの情報が得られない今、頼りになるのは耳からの情報しかないから無言の時間は怖いのだ。今この場には何匹くらいのにゃんがいるのだろう、とか、どんな目で吾輩を見ているのだろう、とか。気になって色々と考えてしまう。かといって吾輩から言葉を発することもできなかった。恐怖で口が動かないからというのももちろんあったが、勝手に喋って殴られたりしたらどうしよう、という気持ちが強かったのだ。なので奴らが何も発しない間は、吾輩も黙っているしかできなかった。

 ふと、その沈黙が破られた。奴らのうちの一匹が口を開いたのだ。


「ふん。すっかり大人しくなっちゃって。どうした? やっぱり仲間がいなくなったら心細い? 怖くて物も言えないってか、王子様?」


 馬鹿にするような声だった。悔しい。吾輩は王子なのに、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのだろう。惨めだった。答える代わりに無言で頷こうとして……やめた。ここで素直に認めてしまったら、奴らに屈服したも同然だ。それは何とも屈辱的なこと。吾輩にはまだ王族としてのプライドが残っていた。


「別に……」


 吾輩が答えるとすぐに、くすくすと嫌な笑いが聞こえてくる。強がっちゃって、まだそんな口利く余裕あるのかよ。吾輩が反抗しないのをいいことに、好き放題言われる始末。さすがに悔しくなって何か言い返そうとした時、タイミングよくヨンが戻ってきたようだった。

 どうして分かったのかというと、この恐らく密閉されているだろう空間に、よく知っているよく通る声が響いたからである。


「はー、すっきりしたんだぞー!」


 恥じらいないのか、あいつは。あんな大きな声で、随分堂々としているみたいだな。


「でもこんな恥ずかしい思いでトイレしたの初めて。にゃん生で一番緊張したんだぞ」


 前言撤回。何だ、ちゃんとにゃん並みに羞恥心も緊張感も持っていたようなのだ。


「気が済んだんならとっとと戻りな。お前らにはもうしばらくここで大人しくしてもらうんだから」

「いてっ。だから押すなって言ってるんだぞ」


 そう言いつつも、ヨンは吾輩の近くまでやってきたらしい。よっこいしょ、なんてまるでおじいにゃんのような声を出しながら、きっと吾輩の隣に腰を下ろして――。

 いや、ちょっと待つのだ。


「吾輩の足を踏むでない。痛いのだ」

「んえ? 何か踏んでるなーとは思ってたけど、ホン王子の足か、これ。悪い、悪い。でもしょうがねえんだぞ、見えないんだから」

「開き直るな! ちゃんと心から謝るのだ!」


 全く。反省の色が見えなくて困るのだ。

 吾輩が注意をしたからか足からの重みは消えたのだが、何と言えばよいのだろう。すごく……近くに、ヨンを感じる気がする。変な意味じゃなくて、本当に、文字どおり近くに。


「……ヨン、くっつきすぎなのだ。少し離れろ。暑苦しいのだ」


 隣というかゼロ距離、多分ぴったりと体を密着させるようにヨンは吾輩にくっついている。


「だって見えないから不安なんだぞ。王子が本当に近くにいるのか分からないし。確認したくてくっついてるんだけど、駄目?」

「何だ、そんな理由。心配しなくても、動けないから吾輩は今いる場所から移動したりはしないのだ」


 奴らが見張っている中、こんな自由の利かない環境で突然いなくなるなんて方が不可能に近いだろうに、何を不安に思う必要があるのだろう。しかしそれでも、体に感じる重みは変わらないまま。


「ヨン、話を聞いていたか? 少し離れろと言ったのだ。吾輩、密着するのは嫌いなのだ」

「面倒くせーから嫌です、なんだぞ。害は与えないからいいじゃん」


 丁寧なのか乱暴なのか、よく分からない口調でヨンは反抗した。ふん、やっぱり吾輩の言うことは聞いてくれないようだな。本当は離れてくれるまで説得したいところなのだが、お腹が空きすぎて強く言う元気がない。仕方がないから諦めるのだ。

 その時、ついに限界を迎えた吾輩のお腹からグウッと大きな音が鳴った。うう、どうしてこんな時に……。


「うわあ。緊張感なさすぎなんだぞ……」


 隣のヨンが溜息混じりに呟いたのが分かった。でも、さっきトイレトイレうるさかった奴にだけは言われたくないのだがな。


「何にゃ? 王子様、腹減ってるのか?」


 奴らの一匹が聞いてきた。

 そうだ、今日はまだ朝ご飯しか食べてなかったのだ。あれから随分と時間も経っているし、お腹が鳴るのは当然のことだろう。だからといってこんなタイミングでなくても……と言いたいところではある。

 どうしようか。正直にお腹が空いていることを伝えても大丈夫だろうか。でもヨンだってトイレに連れて行ってもらっていたし、吾輩もお願いすれば食べ物をもらえるかもしれない。もしかしたら、の期待を込めて吾輩はこくりと頷いた。


「うむ。いつもならそろそろお昼の時間になるのだが、今日はまだ食べてないから……」

「で? 何が言いたいんだにゃ?」

「え、えっと……だから、何でもいいから食べ物を分けてほしいのだ。少しでもいいから、一口でもいいから。このまま死にたくはないのだ……!」

「おい、王子。やめといた方がいいんだぞ」


 ヨンが小声で、だけどしっかりした口調で言った。

 すると突然、奴らの声音がどこか怒りを含んだような低いものへと変わった。


「……は? 食べ物、だって?」

「おい王子様、自分が何言ってるか分かってるのか?」


 え? え? どうしたのだ、急に様子が……。吾輩、何かいけないことでも言ってしまったのか?


「うう、わ、分からないのだ……。でもさっきヨンのお願いは聞いてたではないか。吾輩の頼みも聞いてほしいのだ。この際、毒入りでもまずくても我慢するのだ。何も食べずに死ぬくらいなら……」

「それ、本気で言ってんのか?」

「……? こんな時に冗談なんか言うわけないのだ」


 すると聞こえた。「ちっ」と舌打ちした音が。これはもしかしてどころではない、明らかに怒っている。どうしよう。きっと吾輩が発した言葉の中に奴らの怒りを買ってしまった何かがあったのだろうけれど、恐怖でパニックになっている今の吾輩の頭では、その原因を冷静に考えることはできなかった。


「くそー、ムカつくにゃ! この世間知らずの馬鹿王子様め!」

「もう我慢できねえ! ラム、やっぱり一発殴らせてくれよ。王子様とかもう関係ないにゃ!」


 ひいいっ。な、殴られる!? それだけは嫌なのだー!


「落ち着け、お前ら。まあ待てよ」


 はっ、ボスみたいな奴の声。


「なあ王子様。お腹が空いてるのか? 食べ物、ほしいのか?」

「あ……う、うん……」


 うう、一体何をされるのだ? 他の奴らと異なり穏やかな声音なのが、逆に怖いのだ。


「そうだよなあ。ご飯食べないと死んじゃうよなあ。賢いねえ、王子様。そのとおりだよ」


 ほ、褒められている? 賢いって……いやいや、そんな単純なはずはないのだ。油断してはいけないぞ、吾輩よ。


「本っ当にさ…………贅沢言ってんじゃねえよ。あ? 何でもいいから食べ物くれだ? 笑えねえこと言ってんじゃねえよ、おい!」


 突然、声のトーンが変わった。


「たった一食抜いただけで死にそうとか、甘いこと言ってんじゃねえ。てめえに餌やる余裕があるくらいならなぁ、俺たちだって今頃腹いっぱい飯食えてんだよ。こんな生活しなくて済んでるんだよ!」

「……! あ、ああ……」


 やっと理解した。ヨンが「やめた方がいい」と言った理由も、彼らが怒った理由も。

 ヨンの頼みは聞き入れられても、吾輩の頼みは一蹴されてしまった理由を。

 無理なのだ。きっと物理的に不可能なのだ。美味しくないご飯も、毒入りのものも、そういったものすら用意することができないのだろう。

 ここには食べ物がない。だから彼らを怒らせた。そういうこと。吾輩は軽率だったのだ。


「言ったよな? 今度俺らを怒らせたら王子だろうが容赦なく殴るって」

「ひっ! い、嫌なのだ、許して……!」


 怖い。痛いのは嫌なのだ。


「待て! 許してやれとは言えないけど、ホン王子殴るんだったら俺を殴れよ! どうしようもないわがままで、暴君で、馬鹿な王子だけど、悪気はないんだぞ。ただ知らなかったってだけで……」


 ヨン……吾輩を助けようとしてくれているのか……?


「ふん。無知は罪も同然だ。お前も変わったな、ヨン。王族の味方するようになっちゃって。もうすっかりそっち側ってわけだ」

「ちっ……! やっぱりお前が計画したのか、ラム?」


 何だ? 何が起きているのだ? ていうかヨン、やっぱりって言った? もしかして知り合いなのか? もう色々起きていて分からないのだ、頭がぐるぐるするのだ。


「んなのどうだっていいだろ。もうお前は関係ねえんだからよ」

「お前……! こんなことしても、国に混乱を招くだけだぞ! こんなやり方で本当に変えられると思ってんのか!?」

「うるせえ! こんなやり方でもしなくちゃなあ、誰も俺らの現状に目を向けてくれねえんだよ! ……お前らには分からないかもしれないけどな」


 最後の呟きが、やけに悲しそうに聞こえた。

 正直、全然話についていけてないので、吾輩は今とても困惑している。計画って何だ? 変えるって何をだ? それを叶えるために、吾輩を攫う必要があったのか?

 頭に浮かんだ様々な疑問は、けれど口にすることはできなかった。


「やっぱ口も塞いどくべきだったな。余計なことベラベラ喋ってマジうぜぇ。おい、今すぐこいつら黙らせろ」


 吾輩が何かを言うより早く、頭に強い衝撃。ああ、殴られたのだ、と理解したのは意識を失う直前。そしてそこから先の記憶はない。

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