第22話 ソンside

 病院を出て、西へ西へと進む僕たち。先頭には、自称預言者でスニャムに詳しいらしいカンさん。そしてその後ろを僕たちがついて行く。

 正直言うとけっこう怖い。何が待っているのか分からないし、初めてスニャムの現状を目の当たりにすることになるのだから。ここから先は未知の世界だ。でもきっと今頃、王子は一匹でもっと怖い思いをしていることだろう。それに比べれば僕の不安は何てことないはず。大丈夫、僕には仲間がついているのだから。


「もうすぐスニャム街だが……みな、覚悟はいいか? きっとショックを受けることになると思うが……」


 カンさんが僕らの方を振り返って聞いた。僕たちはそれに頷く。王子を助けに行く、と決めた時点で覚悟はしていたのだから、何があっても受け入れる準備はできている。

 いよいよだ。といっても、本当の目的地である倉庫はもっと先らしいが。それでも、スニャムに足を踏み入れるという点で、僕の緊張感は増した。ごくりと唾を飲み込む。

 不意にユンが口を開いた。


「ネエ。ずっと気になってたんだケド、顔の怪我、大丈夫? 痛くないノ?」

「顔の、怪我……?」


 カンさんがきょとんとした顔で首を傾げる。が、その表情がみるみるうちにさあっと青くなっていく。


「あ……! ああ、平気だ。これは生まれつきだから。すまない、見苦しいものを見せてしまったな……」


 そう言うと、彼女は痣のある左頬をそっと前足で覆った。別に見苦しいものでもないのにな、と思いつつ。でもきっと彼女の中ではコンプレックスなのだろう。痕が痛々しいなと思っていたのだが、生まれつきということは特に痛みは感じてないのかな。

 悲しそうに痣を隠したカンさんの姿を見て申し訳なく思ったのか、ユンが謝罪の言葉を口にする。


「あ、ごめんヨ。気安く聞くものじゃなかったネ。ソーリー……」

「いや、大丈夫。慣れてるから。気にしないで」


 微妙な空気がこの場に流れる。するとそれを変えるように、カンさんが前足をパンッと叩いた。


「さて、この話題はおしまいだ。今は殿下を助けることだけ考えよう」


 そう言われてしまえば、もう僕たちはそれに従うしかない。誰にだって触れられたくない事情の一つや二つはあるのだから、おしまいと言われてしまえばそれまでだった。

 こうしてカンさんに続いて歩みを進めていくと、少しずつ街の景色が変わってきた。

 そこら中に溢れるゴミの山、ところどころうっすら赤く滲んだ道や塀、腐敗したような臭い。大人から子どもまで様々なにゃんが、虚ろな目をして道端に座り込んでいる。そこに丸々と太ったにゃんは一匹もいない。みんな、ひどく痩せた体をしている。

 知らない世界が、そこに存在していた。本当に同じ国の中なのかと疑ってしまうほど衝撃的な光景は、けれど確かに現実で。

 僕は思わず顔をしかめ、俯いてしまった。信じられなかった。いや、信じたくなかった。だって平和で穏やかな毎日がにゃんだふる星の、この国の当たり前だと信じて疑わなかったから、それを壊されたような気がして今目の前に広がる景色をすぐに受け入れることができなかったのだ。

 スニャムについては噂で聞いた程度の知識しかなかったが、それでもある程度スニャムの悲惨さは理解できていたつもりだった。貧しい者が集う場所で、そこに住むにゃんたちは食べる物も住むところもなくて困っているのだとか、そのせいで毎日盗みや殺しが行われている物騒なところでもあるのだとか。どれも誰かから聞いたり本で読んだりして得た知識ばかり。そんな感じで知ったものだからか、僕はどこか他にゃん事のような、違う世界の出来事のような思いでいた。もっとひどい言い方をすると、自分には関係のない世界の話だと思っていたのだ。この国のどこかにはきっと苦しんでいるにゃんがいるのだろうと頭で理解していても、それが現実に存在しているという実感はあまりなかったのだ。


「ううっ……」


 途端に吐き気が僕を襲う。咄嗟に前足で口元を押さえた。


「ソンさん、大丈夫ですか!?」


 それに気づいたサンが優しく背中をさすってくれる。僕は返事の代わりに頷いた。


「やはり刺激が強いか。無理もない」


 カンさんの心配そうな眼差しに、僕は小さく頭を振る。この惨状から目を逸らしてはいけないのに、気持ち悪さばかりが込み上げてくる自分に腹が立つ。何があっても受け入れられると思っていたのに、それができない。己の情けなさに涙が出そうだった。

 ふと目だけを動かしてみんなの様子を見てみれば、ミンやユンも顔を歪めて周囲を見渡していた。


「何だかすごい視線を感じるだす。おいらたち、すごく見られてないだすか?」


 ミンの言葉に触発されて僕も周りに目を向けてみると、確かに何匹ものにゃんたちの視線が僕らの方を向いていた。彼らの目つきはどこか僕らを睨んでいるように感じられ、歩くたびにそれらの視線が刺さる。


「珍しいのだろう、そなたたちは身なりが整っているからな。ここじゃ綺麗すぎるぐらいに」


 スニャム街の外の者だと一瞬で分かる、とカンさんが答えた。

 そう言われて改めて思う。薄汚れて痩せ細ったボロボロのスニャムの者たちに対して、綺麗に手入れされた毛並みの僕たち。加えて僕らはスカーフやらネクタイやら何かしらを身に纏っている。彼らは何も身につけていない。その差は身分の違いをはっきり表していた。


「早く倉庫に向かおう。こんな注目されてはみなも居心地悪いだろう」


 カンさんが言い、気持ち早足になる。こんな荒んだ環境の中では、僕たちの方が異質な存在なのかもしれない。ほんの少し置かれる状況が変わればそれまでの常識が通じなくなるように。

 その時だった。


「イタッ」


 ユンが小さく呻き声を上げた。石をぶつけられたのだ、と僕は遅れて気づいた。

 ミンが心配そうにユンに近づく。


「わあっ! ユンさ、大丈夫だすか?」

「ああ、ヘーキヘーキ。ミーの毛もふもふだし丈夫だからサ。ちょっとびっくりしただけヨ」


 笑って答えたユンであったが、石が当たったであろう背中の一部が少し赤くなっていた。


「でも傷が……」

「モー、本当に大丈夫だってば。それより早く行かなきゃ、ネ?」


 それでも不安げに見つめるミンに、変わらず笑顔のままユンは告げた。

 どうして僕らがこんなことをされなくちゃいけないのだろう。スニャム外部の者を歓迎していないようなのは、僕たちを睨んでくる視線からも薄々分かってはいたけれど、何も悪いことなんてしていないのにな。僕は少し悲しくなった。

 すると突然、僕たちの目の前に一匹のにゃんが飛び出してきた。それはまだ幼い子どもで、その子はキッと僕らを睨みつけて言ったのだ。


「ここから出てけ! 貴族なんか大っ嫌いだ!」


 いきなりのことに僕は呆然としてしまう。こんなに小さな子どもから面と向かって「嫌い」などと言われたことなんてなかったし、こんなに憎しみのこもった目で見られたこともなかった。僕らの誰もが驚きで何も言えないでいると、彼の親らしきにゃんが慌てた様子で飛び出してきた。


「や、やめなさい! 申し訳ございません、貴族様。どうかお許しください。この子はまだ子どもなんです、もし殴るのでしたら母親の私を……」


 震えた声で必死に頭を下げる母親。その横の子どもは未だに僕たちを睨みつけている。


「何で謝るんだよ、ママ! こいつらお金持ってるのに、何でもできるのに、僕たちのこと助けてくれないじゃないか! 貴族や王様が助けてくれたら、僕たち貧乏じゃなくなるのに!」

「いいから、もう黙ってなさい! これ以上余計なことをしないでちょうだい! 申し訳ございません、申し訳ございません……」


 これ以上……ということは、石を投げたのはこの子どもか。もちろん僕は、いや僕たちは殴る気なんて全くない。怯えた様子で謝罪の言葉を繰り返す母親と睨み続ける子どもを目の前に、僕はどうすればいいのか分からなかった。何か反応しなくてはと思っているのに、何と返すのが適切なのか分からないから言葉が出てこない。

 そんな中、動いたのはジョンだった。彼は土下座をしている母親と同じ目線までしゃがむと、優しい口調で言った。


「殴りませんよ。意味もなく誰かを傷つけるのは嫌いなんです。だから、どうか顔を上げてくれませんか?」


 母親が恐る恐る顔を上げる。その目は涙で濡れていた。

 この親子の言動から察するに、僕たちの前にもスニャムを訪れた貴族がいたのだろうと思われる。その者が何のために行ったのか、その時何があったのか詳しいことは僕には分からないけれど、少なくともいいことがあったわけではない、というのは何となく分かった。


「すまないが我らは先を急いでいるので、この辺で失礼させていただきたい。それと、あまり気にしなくて大丈夫ですよ。彼らは無害ですから」


 親子の前を通って再び歩き出そうとした直前、カンさんがそう告げた。母親の方は驚いたように目を見開いてから、何とか声を振り絞って言った。


「あ、あの……本当に何の罰もないのですか? 我が子の無礼をお許しくださるのですか……?」

「ええ、安心してください。もちろん他の貴族に言いふらしたりもしませんので」


 するとカンさんの言葉を聞いてほっとしたのか、母親の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れた。そしてまた震えた声で彼女は言う。


「あ……ありがとうございます、ありがとうございます……!」


 何度も何度も頭を下げる。その姿が、僕にはとても哀れに見えた。きっとこちら側が止めるまで彼女はお礼を言い続けるだろう、そう思えたから僕は慌てて止めに入った。


「もう大丈夫ですからやめてください。今まで他の貴族からどんな扱いをされたのかよくは知りませんけれど、僕たち本当に気にしてないので」

「は、はいっ。申し訳ございませんでした!」


 また謝る。もはや癖になっているのかもしれない。

 それから僕は、母親の隣で未だ怖い顔をしている子どもの方に目を向ける。彼に目線を合わせるようにしゃがむと、なるべく刺激しないようにできるだけ優しい声音を心がけて言った。


「ごめんね。僕たち、行かなきゃいけないところがあるんだ。用事が終わったらすぐにここからいなくなるから、ちょっとだけ許してくれないかな?」


 その子は黙ったままだった。ふいっと顔を背けられてしまう。子どもって正直だ、一筋縄ではいかないか。諦めかけた時だった。


「……いいよ」


 小さな声だったが確かに聞こえたその声に、僕はほっと息を吐く。


「ありがとう」


 お礼を言って立ち上がる。それでは、と頭を下げてから、僕はみんなを促して先へと進んだ。

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