第31話
それからしばらくの間、暗闇の中を僕たちは歩いた。特に誰も喋ることなく、ただ黙ってラムさんの指示に従い歩みを進めていく。
「――で、ここから先はずーっとまっすぐ行けば広い通りに出られるから」
僕たちは、ラムさんが示した方へ目を向けた。そして気づく。いつの間にか周りからは血なまぐささや不快な雰囲気を感じなくなっていたことに。
ああ、戻って来られたんだ。スニャム街から出られたんだ。そう思ったら何だかほっとして、気が緩んだのか、僕の目からはぽろりと一筋の涙が零れた。
これは今だから言えるけれど、正直ずっと気分が優れずにいた。スニャムのあの空気感に、実は何回も吐きそうになっていたのだ。そんなこと口に出しては言えなかったけれど。
「本当にちゃんと案内してくれたんですね……」
心底意外だと言うように、サンが呟いた。それにラムさんが反応する。
「だから言ってんじゃん、約束は守るって。で、交換条件なんだから、そちらも約束守ってくれますよね?」
「中途半端な敬語やめるんだぞ。気持ち悪い」
ヨンが冷たく言い放った。
さっきから気になっていたけれど、ヨンのラムさんへの対応が冷たく見えるのは気のせいだろうか。きっとまだ怒っているんだろうなあ。まあ彼らのしたことは簡単に許せるものじゃないから、どちらかといえばヨンの態度が正しいのだろうけれど。ほぼ……ていうかもはや犯罪だし、それを少しの善行で許そうという僕らってやっぱり甘いよね。
なんて考えていたら正に王子が言ったのだ。
「うむ、約束は約束だからな。吾輩たちもちゃんと守るのだ」
「ちょっと王子! 本気だったんですか!?」
サンが驚きの声を上げた。それでも王子は動じずに大きく頷く。
「本気。王族たるもの一度受け入れた条件を都合よく破棄したりはしないのだ。それにさっきも言ったが、この事件が起こったのは吾輩たち側にも原因があると思うから、その原因をなくしてやればこの者たちもこんな愚かな真似はしなくなると思ってな」
「……何で、自分を傷つけた奴らにそこまでしてあげようと思えるのですか?」
サンが聞く。納得がいかない、と言いたげな顔をしていた。
「――嫌だから。この国に、生活に困って苦しんでいるにゃんがいるのが嫌だから。事情を知った今、助けてあげたいと思ったのだ。吾輩は……吾輩は、この国の者にはみんな幸せでいてほしい。幸せに生きてほしい。それが当たり前であるべきだと思う。少しでも力になりたいから、スニャムの環境を変える手伝いがしたいから、そのために彼らとはもっとちゃんと話をして分かり合いたいのだ。だから警察につれて行かないという条件、吾輩は呑むと決めたのだ」
強くてはっきりとした口調だった。その話し方に、告げた内容に、王子の絶対に曲げないという強い信念を感じた僕は、もう何も否定の言葉が出なかった。
ここまでしっかり告げられては、さすがにサンも、そしてずっと納得していなかったヨンも、王子の意見に従うほかないのではないだろうか。
その時、ラムさんがふっと小さく笑った。
「何だそれ。みんな幸せに生きてほしい? それが当たり前? はぁー。全く大したことを言いますね、王子様は。ま、どうせ口だけでしょ? 言うだけなら簡単ですもんねぇ?」
王子の思いは、彼には……彼らには届いていなかったようである。馬鹿にするように笑うラムさんたちを見たら何だか悔しくなって、僕は反論しようと口を開いた。
「あのっ、失礼ですけど王子はそんな口先だけのお方じゃ……」
「いい。大丈夫だ、ソン。確かに口で言うだけでは信じてもらえないのも無理はないのだ」
僕を制して王子が言った。
「だから信じてくれとは言わない。その代わり、絶対に行動で証明する。もうお前たちがこんな真似をしなくて済むように、少しでも生きやすい世界になるように、吾輩が変えてみせるから。今日のところは、吾輩は許してやるけれど、お前たちももう誰かを傷つけるような真似はしないと約束するのだ。分かったか?」
「はっ。絶対なんてあるわけないのに、変な王子様。俺らみたいのを助けたいなんて、そんな金持ち初めてだ。今までみんな俺らのこと、ゴミを見るみたいな目で見てきたってのに……」
嘲笑していたラムさんだったが、その時彼の目からつぅっと一滴、涙が流れた。
「! ら、ラム……」
犯にゃんのうちの一匹がそっと声をかけると、途端にラムさんが「うるせえ!」と叫んだ。
「うるせえよ。泣いてなんかねえし、余計なこと言わなくていいから。……なぁ、王子様。正直まだあんたのこと信用はできない。けど……本当に変えてくれるって、嘘じゃないって証明してくれるなら、俺はあんたを信じてやってもいい。俺も約束するから、こんな馬鹿な計画二度と考えないって約束するから。悪かった、あんなことして。みなさんも、本当にごめんなさい……!」
僕は目を見開き、そして耳を疑った。あのラムさんから謝罪の言葉が出るなんて。それに本にゃんは泣いてないと言っていたけれど、彼の目からはポロポロと大粒の涙が流れてきていて、二つの意味で僕は驚いた。
その様子を見た王子が、優しい声色で彼らに告げる。
「もう良い、頭を上げるのだ。今の言葉でお前の気持ちは十分伝わったから」
そして彼らを安心させるためか、穏やかな笑みを浮かべる。それは本当に優しい微笑みで、あまり見ることのない王子の姿に僕はただただ驚くばかりだった。あの王子が、会ったばかりの他にゃん相手にこんな優しい顔を見せるなんて。
「サンもヨンも、もう良いであろう。吾輩が許すと言っているのだ。それに彼らの顔を見たら、反省していることはよく分かるだろう。もう大丈夫なのだ」
何の根拠があっての「大丈夫」なのか分からないけれど、王子が言うなら大丈夫なのかもしれない。そう思ってしまうような不思議な安心感を、王子の声から感じた。
サンが若干ためらいながらも口を開く。
「……本当は、私個にゃんとしてはまだ許せません。ですが貴方様がそうおっしゃるのであれば、私はそれに従うほかないでしょう」
「俺は……嫌なんだぞ」
横から強い口調で断言したのはヨンだった。尚も変わらぬ様子の彼に、王子は少し戸惑ったような表情になる。
「何故なのだ? 涙まで流して謝っているではないか。この姿を見ても、お前の気持ちは変わらないというのか?」
「甘いんだぞ、ホン王子は。泣いて『ごめんなさい』って謝れば許してもらえるほど、世の中甘くねえんだぞ。こんな涙なんかに俺は惑わされないし、謝って済むようなことでもないし。俺、こいつ嫌いだ。絶対許さないんだぞ」
そう言って、ヨンはラムさんを思いきり睨みつけた。
「ヨン。お前、この者たちと何かあったのか? 今日のこと以外で。友達とも言ってたし、今日初めて会ったわけではなさそうなのだ」
「……っ」
王子が問いかけた後、ヨンは一瞬苦い顔をして、下を向いて黙ってしまった。図星なんだ、と僕は思ったけれど、ヨンの表情的に触れられたくないことなのだろうと察したので、深くは聞かないことにした。
少ししてからヨンが口を開く。
「……言えない。てか別に理由なんてない。俺はただ、こいつらが嫌いなだけなんだぞ」
「ヨン……」
王子がさらに何か言おうとした時、そこに割り込むように声が重なった。ラムさんだった。
「あの、やっぱり俺ら警察に行くよ。気が変わった。自分たちの罪とちゃんと向き合おうと思う」
「え!? で、でも……」
困惑気味の王子の言葉を遮ってラムさんは続ける。
「いいんだ。悔しいけど、ヨンの言うことが正しいよ。俺が甘かった。泣いて謝って許してもらえるほど生温い世の中じゃないって、身をもって経験しているはずなのにな」
「そうか……いや、でも、やっぱり警察にはつれて行かない方がいいかもしれないのだ。あんまり大事にはしたくない」
「え、何で……?」
疑問の声を出したのは、なんとラムさんだった。
「さっきの条件のことならもういいよ。俺反省した。考えが変わったんだって。だから……」
王子はゆっくり頭を振る。そして口を開いた。
「違う。これは吾輩のわがままなのだ。サンに言われて気づいたのだが、警察に行けばこの件が世間に知られてしまうかもしれない。王族の誘拐事件となると、マスコミやらが面白がって食いつくに決まってる。吾輩は変に注目されるの好きでないし、きっと父上や母上にも迷惑をかけてしまう。そういうの、吾輩は嫌なのだ。だから今日のことは吾輩たちの中だけで解決しようではないか」
「……なるほど。警察につれて行かないのは俺たちのためだとかって散々言ってくれてたけど、それも結局自分の身を守るために出した結論だったってことか。ま、誰だって自分が一番大事に決まってるし、当然だよな。でもあれだけ色々言ってくれてたのに、ちょっとがっかりしましたよ。王子様」
ラムさんは悲しそうに俯いた。それを見た王子は、しかしすぐに否定する。
「違う! 今まで言ったこと、全部嘘ではない。スニャムを助けたいのは本心なのだ。それにこの選択は、お前たちのためにもなるはずなのだ。お前たち、言ってたであろう? 吾輩を誘拐してでも、世間にスニャムの現状を知ってもらいたかったって。それってつまり、今のスニャムを変えたいからそうしたってことだろう? でもきっと警察に捕まれば、お前たちの夢は叶わなくなるかもしれないのだ。一生刑務所から出てこれないかもしれないのだ。そんなの……悲しいではないか。だから……」
「はぁ……話は分かったよ。理由が何であれ、普通なら刑務所行きのところを見逃してもらえるってことだもんな。俺、あんたのこと甘ったれで世間知らずな馬鹿王子って感じでムカついてたけど、その甘さのおかげで助かった。正直金持ちは嫌いだけど……貴方のその決断には感謝したい。更生の余地を与えられたんだから、俺たちもしっかり反省して、自分の罪と向き合います。ただ……ヨンが納得するかが問題ですけど」
そう言って、ラムさんはちらりとヨンを一瞥する。視線に気づいたのか、ヨンがムッと顔を歪めて言った。
「ふん。納得なんてするわけねえんだぞ。マジでこのまま逃げようとするわけ?」
やっぱり納得はしていないようだった。しかしこのままでは一向に先へ進めない。どうしようかと思ったその時、言葉を発したのはジョンだった。
「ちょっといいっスか。自分から一つ提案があります」
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