第25話 ホン王子side
――ん。あれ、ここはどこなのだ。吾輩、何をしていたんだっけ。
何だか頭がふわふわする。もしかして吾輩、死んだのか? するとここは天国? いや、真っ暗だから地獄か。でも吾輩、地獄に落ちるほどの悪いことをした覚えはないのだがな……。
「――!」
「――? ――!」
声が聞こえる気がする。争っているような声。
不思議なのだ。こんな状況なのに思ったより冷静な自分がいることに驚いている。死ってこんなに呆気ないものだったのか。まだ実感が湧かないのだ。
ああ。母上、父上、兄上。お別れの言葉も言えずにこの世を去るなんて思ってもみなかったのだ。せめて最期に感謝の気持ちを伝えたかったのだ――。
「いい加減に放せー!」
突然はっきり聞こえてきた声に、はっと意識が現実へと引き戻される。
何だ? 急に声が鮮明に聞こえるようになったのだ。今の声は、ヨン……?
すると、少しずつ意識がはっきりしてきた。今まで起きた状況を思い出してみる。そうだ、吾輩は誘拐されていたのだ。縄で縛られて、目隠しされて。それで、えっと……どうなったんだっけ。あれ? 思い出せないのだ。
「あ、う……にゃぁ……」
うーん。よしよし、声は出る。
「にゃ? おい、もう一匹も起きたっぽいぞ」
「ちっ。何だよ、生きてんのかよ。しぶとい奴らだにゃ」
えっ。吾輩、生きているのか? 死んだと思っていたけれど、地獄に落ちたかと思っていたけれど、そんなことなかったのか。よ、よかったのだー!
母上、父上、兄上! ホンはまだみんなにお別れしなくて済んだのだ! 無事じゃないけど、無事なのだー!
「え、こいつ、笑ってる? なんかニヤニヤしてるにゃ。気持ち悪いにゃ」
「変なとこ殴って、馬鹿になっちゃったんかにゃ。やっちまったな……」
この者たちは何を言っているのだ? 吾輩は気持ち悪くなんてないし、馬鹿でもないのだ。おかしなことを言うのだな。そもそもこの者たちは、誰だっけ?
「はーあ。てか、そろそろ見張り交替しようぜ。俺、こいつらの相手すんの飽きたにゃあ」
「同感。外の奴らは適当にうろちょろしてりゃそれでいいのに、何で俺たちはずっとこいつら監視してなきゃいけないんだにゃ」
「ラムさんも戻ってこないし。何やってんだろうな」
むむ。何かごちゃごちゃと話しているのだが、何を言っているのかよく分からないのだ。話についていけない。
ああ、そうだ。そういえば今、ものすごく大事なことを思い出したのだ。吾輩はお腹が空いている。意識がはっきりしてくるにつれて、忘れていた空腹感も戻ってきたのだ。油断したらお腹が鳴ってしまいそうだから、今必死でお腹に力を入れているところである。でも駄目。一度空腹を感じてしまったら、もうご飯のことしか考えられないのだ。
ツナ缶、ツナ缶、ツナ缶……。うぅ、ゴールデンツナ缶が食べたいのだ。もう、限界……。
そしてついに耐えきれなかった吾輩のお腹から、ぎゅるるるるっとまるで恐ろしい化け物の鳴き声のような音が鳴った。話し声がぴたりと止む。吾輩の額から一筋の汗が流れる。
「……おい」
低い声がした。奴らが口を開く。
「全然懲りてねえじゃねえか。二回目だぞ、おい!」
「お前のせいでこっちまで腹減るんだにゃ! ふざけんにゃ!」
ひええええっ。まさかのデジャヴ。もう嫌なのだー!
「ほんっとバカバカバカバカバカバカバカ……」
隣で「馬鹿」を連呼しているのはヨンだな、これは。後で覚えておくのだ。
「わ、わざとじゃないのだ、わざとじゃないのだ! うわーん、どうしてー!」
もうなんか吾輩だって、別に狙って空気読んでいないわけじゃないのに。これでも頑張ってぎりぎりまで耐えていたのにぃ……。ぐすん、ぐすん。なんか涙が出てきたのだ。
「おい、何泣いてんだよ。泣きたいのはこっちだにゃ!」
「俺たちだって腹減って腹減って、死にそうで泣きたいんだぞ! 本当はもうお前らの監視だってやりたくないにゃ! 面倒くさいにゃ!」
「もうラムさんたちのとこ行こうぜ! 縛ってあるんだから、どうせ逃げられないにゃ!」
おっと。どうやらついに本音が漏れたようなのだ。んー。ということは、吾輩たちはこのまま放置? 何だかこれもデジャヴっぽいのだが……。
すると横からヨンが大声で叫んだ。
「はあ!? 俺たち置いて逃げる気か? ふざけんじゃねえんだぞ! 後で絶対に警察に言ってやるからな! バーカバーカ!」
うええ、耳が痛いのだ。この場所はけっこう声が響くのだな。それともヨンの声が特別大きいだけか?
しかしヨンの必死の叫びもむなしく、足音はどんどん遠ざかっていく。
「うぅ……目が見えれば、こんな縄、簡単に噛みちぎって逃げてやれるのに……!」
ヨンが悔しそうに呟いたのが聞こえた。
「何言ってるのだ、ヨン。口が自由なら噛みちぎることはできるだろう。お前、歯に自信はあるのか?」
「まあ、あるけど……。あー、もう! これも全部王子のせいだ! 王子のせいなんだぞ! バカー、バカー!」
「ええい、あんまりバカバカ騒ぐでない! うるさいのだ!」
「うるさいのは王子の腹の方じゃねえかぁ。こんなことになるなら、俺、王子なんて助けようとするんじゃなかったー!」
ぴくり。今の言葉は聞き捨てならないのだ。なんかムカッとした吾輩は、たまらなくなって言い返す。
「何だと? 別に吾輩は頼んでないし、勝手に助けようとして痛い目に遭ったのは自分の責任ではないか! 吾輩のせいにしないでほしいのだ!」
「何だぞ、その言い方。だって目の前で王子が連れ去られそうになってたの見たらさ、助ける以外考えられなかったんだぞ! 見て見ぬふりなんてできないだろ!」
「にゃっ!? それは、ありがとう……?」
思わぬ言葉を受けて、吾輩の中のムカムカが少し治まる。助ける以外考えられなかったなんて、そんなにはっきり言われては調子が狂うのだ。さっきの発言も許してしまいたくなる。でもまあ吾輩王子だし、吾輩の身にもしものことがあれば国中に混乱を招いてしまうだろうから。ヨンの行動は吾輩のため、というよりは国のためなのだろうな。うん。
一匹で納得していた吾輩だったが、隣からまたヨンの失礼な発言が飛んでくる。
「ホン王子ってお礼言えたんだぁ……」
馬鹿にしているのか? 吾輩だって感謝の言葉くらい言えるに決まっているだろう。吾輩のことを何だと思っているのだ。やっぱりムカムカ。
「てか俺もお腹空いたんだぞ! 早く誰か助けに来いよー!」
ヨンが叫んだ。確かに誰も助けに来ないな。誰かが来るような気配もないのだ。きっと警察には言っていないのだろう、騒ぎが大きくなっては困るから。父上もみんなも、吾輩の命より世間体を選んだのだな。でも別にいいのだ。どうせ吾輩はいなくなっても誰も困らない、馬鹿で無能な第二王子なのだから。兄上だけがいればいい。城の誰もが、きっとそう思っているはず。
「……もういいのだ、ヨン。もう、十分であろう。吾輩もう諦める。ここで潔く死ぬのだ。どうせ誰も助けに来ないから」
自分で言ってて悲しくなる。でもこれが事実なのだから、潔く受け入れるしかないだろう。だけど……だけど、おかしいのだ。諦めたはずなのに、何故だか涙が出てくる。
吾輩の突然の言葉は、どうやらヨンを驚かせたらしい。びっくりしているような、困惑しているような声でヨンが聞いてくる。
「は……はあ? 何言ってんだぞ。急にどうしちゃったんだよ王子!」
「分かったのだ。こんなに長い時間閉じ込められているのに、誰も助けに来る気配がない。つまりはそういうことなのだ。吾輩見捨てられた。だからもういい。もう、ここで死ぬ」
「何だぞ、それ……!」
本当は嫌だ。でももう無理なのだ。もう空腹が限界だし、何だか眠くなってきたし。もうなんか、これ本当に死ぬ気がする……。
だけど、ヨンは諦めてはいなかった。
「ふざけんな! それじゃ俺まで死ぬことになるんだぞ、俺そんなの絶対に嫌なんだぞ! 誰も助けに来ないってんなら、俺が何とかする! 絶対絶対諦めないんだぞ!」
「ヨン……」
どうしてこんなに必死に……。ああ、そうか。自分が死にたくないからか。それはそうだよな。何だか申し訳なくなってきたのだ。ヨンだけじゃない、吾輩たちを閉じ込めたスニャムの者たちにも。結局吾輩が馬鹿な王子であるばっかりに、たくさんの者たちを不幸にしているのだ。吾輩、どうして王子に生まれてきてしまったんだろう――。
その時、微かに声が聞こえてきた。奴らが戻ってきたのだろうか。だけどそれにしては恐怖を感じない。それどころか、どこか安心する声のような……。
「王子ー!」
吾輩を呼んでいる……? 駄目なのだ、もう何も考えられない……。
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