第16話 ソンside

 ……ん。ここは一体どこだろう。

 うっすらと目を開けた先に見えるのは白い天井。ゆっくりと左右に頭を動かしてみても、見えるのは白い壁。そして微かに薬品の匂い。ふかふかした感触。どうやら僕はベッドの上にいるみたいだ。体を起こそうとしたら、ずきりと頭が痛んだ。あれ、どうしてこんなに頭が痛むんだろう。そもそも僕は今まで何をしていたんだっけ。思い出そうとしても、頭の中にもやがかかったようにまるで何も思い出せない。

 その時、ヌッとオレンジの大きくてつぶらな瞳が僕の視界に入り込んできた。


「うわっ!」


 思いがけず大きな声で驚いてしまう。


「起きタ?」

「……お、おかげ様で?」


 えーと。何だ、この状況は。思い出せ。まず僕は誰でしょう。そしてここはどこでしょう。僕はソン。そしてここは……ここは……どこ? 駄目だ、やっぱり何も思い出せない。必死で頭を働かせてみても、ただただ痛みが増すばかり。


「ううう……うーん……」

「だ、大丈夫カイ? 待ってて、今ミンを呼んでくるヨ!」


 そう言うと、そのにゃんはどこかに行ってしまった。ていうか誰だっけ。

 しばらくして、例のにゃんが再び顔を出した。そして後ろにもう一匹。


「ソンさ、気が付いただすね?」


 白衣を着ている。お医者様か。するとここは病院。僕はこくりと頷いた。


「はい。まあ、ちょっとまだ頭が痛いんですが……」

「……ソンさ、自分のことは分かる?」

「はい」

「じゃあおいらたちのことは分かる?」

「えーと……ちょっと待ってくださいね」


 落ち着いて。自分の身に起こったことをもう一度思い出してみよう。確か……確か僕は、散歩していたんだ。誰とだったか。そう、王子だ。それで歩いていたら誰かに襲われて……と、そこまで振り返ってはっとなる。


「王子……! 王子はどこ!? 僕たち、変なにゃんに襲われて……あいたたた!」


 勢いよく起き上がったら、頭が、というか体全体が軋むように痛んだ。


「ああ、無理しちゃ駄目だすよ。何か思い出しただすか?」


 返事の代わりに頷く。ずきずきと痛む僕の体を優しくさすってくれるのはミンだ。そして心配そうに見つめてくるのはユン。やっと脳が正常に動き出したみたい。

 呼吸が整ってから、僕はゆっくりと話を再開した。


「僕、王子と、あとボディガードのジョンと一緒に散歩していたんだ。そしたら突然、一匹のにゃんが襲いかかってきて……」


 その後どうなったんだっけ。ここから先の記憶がない。

 うーん、と頭を抱えて言葉を詰まらせてしまった僕を見て、ミンが「もういいだすよ」と優しく制止の声をかけてくれた。


「全く何も覚えてないわけじゃないんだすね。とりあえず安心しただす。頭に強く殴られたみたいな跡があったから……」


 え? 殴られた跡? 誰が? え、僕? なんだか頭痛がするなあとは思ったけれど、まさかそんなことになっていたなんて。確かめるようにそっと自身の頭に触れてみると、どうやら包帯で巻かれているみたいだった。それほどのひどい傷を負ったというのに、はっきり覚えていないなんて何だかもやもやする。

 それよりも、今この病室にいるのは僕一匹なんだろうか。見たところ相部屋っぽいのだが、向かいのベッドはカーテンが閉まっていて、どんなにゃんが入院しているのか確認できない。静かだから眠っている可能性もある。あんまりうるさくしない方がいいかな。


「そうだ。あの、他のみんなは? 無事なの?」


 王子とジョン、二匹の安否が心配だ。僕が頭を殴られたというのなら、二匹も同じような傷を負っているかもしれない。

 僕の問いかけに、ミンは不思議そうな顔で首を傾げた。


「みんな? ソンさの他にはハチワレのにゃんが一匹倒れていただけだすよ?」

「え?」


 そんなまさか、聞き間違いじゃあないだろうね。頭殴られた影響で耳までおかしくなっちゃったんだろうか。僕の他に倒れていたのはハチワレのにゃん一匹だけだって? いやいや、確かに王子もいたはずだ。だって散歩に行きたいって言ったのは王子だったはずだから……僕の記憶が正しければね。


「え、でも、そんな……ホン王子は……?」


 戸惑う僕に追い打ちをかけるように、ユンの口からさらに衝撃的な言葉が発せられた。


「王子サマ? 王子サマもいたノ? ミーたち見てないケド」

「うええっ!?」


 聞き間違いじゃなかった。じゃあ王子は……王子はどこに行ったというのだろう。思い出せ、思い出さなきゃ。

 するとその時、向かいのカーテンが開かれた。中から顔を出したのはジョンだった。


「やっぱり連れ去られたんスね、ホン王子。迂闊うかつだったっス……」

「ジョン! いつから聞いてたの? やっぱりって……?」


 驚いた。ジョンが向かいのベッドにいたことも、彼の頭にも僕と同様に白い包帯が巻かれていたことも。


「自分、実はソンさんより先に目が覚めていたんで、話は最初から聞いてました。盗み聞きするつもりじゃなかったんスけど、すんません」


 なんと。そうだったのか。あんまり静かだったから寝ているものだと決めつけてしまっていたよ。


「それと自分、殴られた後も少しだけ意識があったんですが、奴、他にも仲間がいたようで王子を攫っていくのを見てしまったんスよ。何とか阻止したかったんですけど体が動かなくて……。ボディガードなのに情けないっス」


 そう言って俯いてしまったジョンの顔は、ひどく悔しそうだった。それは守るべき主を守れなかった自身に対する憤りからくるものなのか、何なのか。ただ一つだけ言えることは、ジョン一匹だけのせいではないということ。大切な主を、一国の王子を守ることができなかったのは僕も同じなのだ。


「そんなことないよ。僕だってあの場にいたのに、何もできなかった。それに……ちょっと油断してたのかも。この国は平和だから、きっと危ない目には遭わないだろうなって。でもこんな結果になっちゃったね……」


 やはり散歩などすべきではなかったのか。後悔しても、現状は変わらない。それよりも王子を助けるためにどうするかを考えた方がいいはずだ。


「まあまあ。でもよかっただすよ、二匹とも。傷がそんなに深くなかったのが不幸中の幸いだっただすね。打ち所が悪かったら最悪即死だったかもしれないんだすから」


 ミンの言葉に衝撃を受ける。そんなにやばい状態だったの、僕たち。

 ということはこうして普通に話できているのって奇跡に近いのでは? もしかして、実は僕ってけっこうタフネス?


「まあ自分は何かあった時のためにも日々鍛えているんで、きっとそのうち回復すると思うっスけど。ソンさんも割と丈夫だったとは驚きっスね」


 ジョンから感心したように言われたが、多分誰よりも驚いているのは僕自身だと思う。まさか自分の生命力がにゃん並み以上だったとは。まあ、ただ単に運がよかっただけかもしれないけれど。何にせよ、生きててよかった。命に感謝。


「今日はとりあえず様子見ってことで、一日入院してもらうことになっただす。異常がなかったら明日にでも帰れると思うだすよ」


 ふむふむ、なるほど。僕は素直に頷く。

 しかしそれを聞いたジョンの顔はみるみる険しいものになっていった。


「一日入院? そんな悠長なこと言ってられないっス。ホン王子が攫われたんですよ? 本当なら今すぐにでも助けに行きたいくらいなのに、そんなのんびりしてられないっス!」


 すると、ユンもこれに同意するように激しく頷いた。


「そうだヨ、お前呑気だナー。王子サマがいなくなったって、それものすごい事件だヨ! 今頃どんな目に遭っているか分からないけどサ、二匹が動けないならミーたちで助けに行こうって気にはならないのカイ?」

「うっ……。気持ちは分かるだすし、おいらももちろん王子のことは心配だすよ。でもおいらたち、まだ子どもじゃないだすか。犯にゃんが何匹いて、どんな姿をしているか分からないのに、おいらたちだけで救出に行くなんて無茶だす。危険だすよ!」


 ミンの言うことも分かる。確かに僕たちは、世間的に見ればまだ大人というには早い年齢だ。それに、王子を連れ去ったにゃんたちからは、こうして一度傷を負わされている。助けに行ったとしても、また同じようにやられてしまうかもしれない。いや、もしかしたら今度は気絶どころじゃ済まないかもしれない。最悪の場合だって考えられるのだ。僕らだけで救出に向かうのは危険な選択、そう僕だって理解はしている。だけど――。


「大人たちが、すぐに動いてくれるのかなあ……」


 ぽつりと呟いた僕の一言が、静かな室内に響き渡る。みんなの視線が一斉に僕へと注がれた。

 例えば今すぐ王宮に戻ったとして、王子が誘拐されたと話したところで一体どれくらいの大人が信じてくれるのだろう。その中ですぐに救出に向かってくれるのは一体どれくらいいるのだろう。王子を守れなかった僕とジョンが役立たずだと罵られて、クビになるリスクの方が高いのではないか。無謀だとしても、死の危険があるとしても、今この瞬間王子が誰の助けを待っているか、誰を信じて待っているのか。それを考えたら、大人の協力とかそんなもの、構っていられない気がした。


「……どうせ大人なんて、誰も助けちゃくれないヨ。みんなそうだったモン」

「ユン……?」


 いつもの明るさはどこへやら、突然暗いトーンでユンが言った。その珍しさと先程までのギャップに、僕は思わず戸惑いの声を上げてしまった。

 しかし彼はすぐにはっとしたような表情になると、ぶんぶんと思いきり頭を振ってまたいつもみたいな笑顔に戻った。


「ウウン、何でもないヨ! それよりサ、大人に任せるのが不安なら、やっぱりミーたちでドーンッと悪い奴らぶっ飛ばして王子サマを助けに行こうヨ。だってそっちの方が格好いいし、ヒーローみたいジャン。きっと国王サマにも感謝されて、ご褒美もらえるかもしれないしネ!」


 うーん……。それは正直分からない。だけど、どうやらユンも僕と似たような考えでいるみたいだ。ちょっと安心した。


「え。ほ、本気で言ってるんだすか? 後が怖いだすよ、国王様の側近に怒られたりしないかな……」


 ミンはまだ不安なようだ。僕としては、別に無理にみんなで救出に向かわなくても、不安なにゃんは残ればいいのでは、と思う。大勢で向かえばその分目立ちやすい、そういうリスクもあるのだから。


「じゃあ、ミンはここに残ればいいネ。ミーが王子サマを助けに行ってくるヨ」


 そう思っていたら、ユンがちょうど僕の気持ちを代弁するかのように、ミンに告げた。


「ええ!? い、一匹で行くつもりだすか?」

「そうだヨ。だってソンクンも、えーっと……」

「ジョンっス」

「そうそう、ソンクンもジョンサンも動ける状態じゃないからネ。ミンが行かないなら、ミーが一匹で行くしかないデショ?」

「い、いやいやいや! それはもっと不安だす! 逆に怪我にゃんが増えるだけだろうし、それだったらおいらも一緒に王子を助けに行くだすよ!」


 ユンの言葉に、ミンは慌てたように返した。そこへ「ちょっと待ってください」とジョンが制止の声を上げた。


「自分も行きますよ。さっきも言いましたが、主君が攫われたのにこんなところでのんびりなんてしてられない。そもそも自分がもっと周りに気を付けていれば、こんな事件は起きなかったんです。だから、かたをつけるために自分も行きます」


 そう言ったジョンの口ぶりはとても真剣なもので、絶対に王子を救い出す、という強い意志が感じられた。そんなジョンの姿を見たら、僕もじっとしているわけにはいかなかった。


「僕も行くよ」


 気づいた時にはそう口に出していた。ミンが僕を見る目が、驚きからか大きく見開かれる。


「ソンさまで……。安静にしていた方がいいんだすが、大丈夫なんだすか?」

「うん、多分。まだちょっと頭は痛いけど、動けないほどじゃないから」

「自分は全然平気っス。少し寝たんでだいぶましになりました」


 僕に続いてジョンも答えた。

 少し眠っただけで平気だなんて、本当に丈夫なんだなあ、と少し羨ましく思ったりして。まあ彼は王家専属のボディガードなのだから、そんなにやわじゃなくて当然か。比べちゃ駄目だな、僕が虚しくなるだけだ。


「何だ、みんな動けるのカイ? それなら早く王子サマを助けに行こ! 善は急げ、だヨ!」

「ちょっとちょっと! さすがに早いだすって。まずは作戦を考えないと……」


 言うが早いか病室から出ようとしたユンを、ミンが慌てて呼び止めた。それによって、今にも走り出していきそうだったユンの動きがピタッと止まる。


「オット、それもそうカ。ノープランは危険だもんネ。ウッカリ、ウッカリ」

「はあ、全く。勢いと行動力が立派なのはいいだすけど、考えなしに動いたら何があるか分からないだすからね」


 やれやれ、というようにミンは額に前足を当て、頭を振る。

 確かに尤もな意見ではあるが、作戦といったって何から考えればいいのだろう。困惑気味の僕をよそに、ミンが話を進めていく。


「まず王子が攫われたとされる場所っていうのは、二匹が倒れてたところと近いっていう認識でいいんだすかね?」

「多分そうっスね」

「うーん、なるほど。あの辺はスニャム街の近くだすし、王子を攫ったのはスニャムのにゃんと考えていいかもしれないだすね。治安もよくないって聞くし。でも目的が分からない……」

「王族に何か恨みでもあるんじゃないでしょうか? 確か『みんなお前たちが悪い』みたいなことを言っていた気がするっス。そうですよね、ソンさん?」

「……へっ!? あ、ああ。うん、そうだったかも」


 突然ジョンに同意を求められて、思わず間抜けな声が出た。そうだったかも、なんて言ったけれど、正直記憶が曖昧なので実ははっきり覚えていません。ぽんこつなにゃんでごめんなさい。

 その時だった。



 スパァンッ!



 病室の扉が勢いよく開かれた。何事かと驚いてそちらに視線を動かせば、そこには息を切らしたサンが立っていた。

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