第3話

 結局僕は再びミンのところへ来てしまった。正直昨日の今日で気まずいのだが、ミンは僕が来ることを分かっていたのか特に驚きもせず「いらっしゃい、ソンさ」と温かい笑顔で迎えてくれた。


「えーっと、なんかごめんね。昨日来たばかりなのに、もう来ちゃって」

「謝る必要ないだすよ。それよりここに来たっていうことは、心変わりでもしただすか?」


 ドキリ。心臓が波打つ音がした。さすが医者だ、鋭いなあ。


「……うん。ちょっと、色々あって」

「そうだすか」

「何があったとか聞かないんだね」

「ソンさが自分から話さない限り、こちらから無理に聞いたりはしないだすよ。それよりも、ソンさが抱え込まずにこうして来てくれたっていうだけで、おいらはすごく嬉しいだす」


 にこり、とミンが優しく微笑む。

 ああ、この笑顔。まるでこちらの緊張を全て溶かしてしまうような、そんな温かい笑み。それを見たら安心して気が緩んだのか、再び目頭が熱くなってきた。もう大丈夫だと思っていたのに、涙はポロポロとゆっくり僕の目から溢れ出す。

 前触れもなく泣き出した僕を見て、ミンの目が驚きからか大きく見開かれた。


「え!? な、何があっただすか? えーっと、えーっと……と、とにかく座るだす!」

「う……う……」


 情けなくも嗚咽を漏らすだけで言葉を発せない僕は、ただ黙って頷くしかできない。ミンに促されて小さな丸椅子に腰掛けると、優しく背中をさすられた。

 そうしてしばらく無言の時間が流れた後、ミンがそっと口を開いた。


「落ち着いただすか?」

「……ん、ごめんね」

「だから謝らなくていいだすって。ねえ、ソンさ。本当はこんな言い方したくないんだすが、やっぱりソンさは王子と距離を置くべきだす」

「え……」


 そんな。どうして。さすがにそれだけはできないよ。だって僕がいないと王子は何もできないのに。僕の居場所は、存在理由はお世話係しかないのに。僕は何とか首を振り、否定の意を示す。


「待ってよ。無理だよ、それだけは。僕の意思を尊重するって言ってたのに……」

「でももう見てられないだす! ソンさ、今の自分の顔、鏡で見ただすか? 酷い顔してるだすよ」


 そう言ってミンは僕に鏡を渡してきた。

 そこに映っていたのは、見るからにボロボロで疲れ切った様子のにゃんだった。泣き腫らした目、やつれた表情。とてもじゃないけれど大丈夫そうには見えない。一体これは誰? 僕は知らない。だって僕のことは僕が一番分かっている。これは僕じゃないはずだ。


「ねえミン、これ本当に僕なの?」

「鏡だすよ? 他に誰がいるんだすか」


 それもそうだ。これは本格的に僕がおかしくなっているのだろうか。


「何も永遠に離れろ、と言いたいわけじゃないだす。あくまでソンさの病気と精神的ショックが落ち着くまで、距離を置いた方がいいって思ったんだす」

「でも……そうなったら、僕はどこに行けばいいの……? 僕の居場所は王宮にしかないのに……」

「それなら心配いらないだす。しばらくはおいらんちに来ればいいだすよ」


 え、ミンの家? 気持ちは嬉しいけれど、ミンの家族に迷惑じゃないだろうか。そんな僕の感情は顔に出ていたのか、ミンが心を読んだかのようにこう付け加えた。


「そんな顔しなくても大丈夫だすよ。うちの家族は困っているにゃんは放っておけないタチだから、ソンさのことも絶対歓迎してくれるだす」

「そうなの……?」


 それならお言葉に甘えてミンの家にお邪魔しようかな。せっかく僕のために提案してくれたことを、二度も断るのも気分が悪いし。


「それじゃあミン、しばらくの間どうかよろしくお願いします」

「了解だす!」


 こうして僕はミンの家で療養することになったのだった。



「――というわけでして、しばらくお休みをいただきたいのですが……」


 王宮に戻ってすぐ、僕は両親に事の成り行きを説明した。事情を聞いた両親はどんな顔をするだろう。病気になるまでストレスを溜めすぎるなんて、と怒られるだろうか。それとも、逃げ出すなんて情けない、と呆れられるだろうか。

 何を言われるか怖くて俯いていたら、ぎゅっと突然抱きしめられた。驚く暇もなく、頭を優しく撫でられる。


「お父さん、お母さん……?」

「よく頑張ったね。ずっと一匹で抱え込んで辛かったろう? 気づいてあげられなくてすまなかった」

「何よりも貴方の健康が一番大事だもの、休ませないわけないわ。心配しないで、国王様にはお母さんたちから言っておくから」


 両親の温かさに触れ、また泣いてしまいそうになる。駄目だな僕、涙腺弱くて。

 その後すぐに両親が国王陛下に話をつけてきてくれたようで、僕は無事に休みをもらえることになった。


 しかし、肝心の王子にはこのことは言っていない。僕がしばらく離れます、なんて言ったら、百パーセントの確率であの王子は引き留めるに違いないし、強く出られない僕は王子に流されてせっかくの決心を無駄にしてしまうだろう、と思ったからだ。言いづらいなら父さんたちから話しておこうか、と両親にも聞かれたが、僕はそれを断った。ホン王子は僕の主だ、自分で方をつけたかった。だから僕は手紙を書いて、そっと自室のベッドの上に置いてきた。


 王子に直接言う勇気も、手紙を渡す勇気もない僕は本当に弱くて卑怯なのかもしれない。それでも、いつか王子が手紙の存在を気づいてくれることを祈りながら、僕は静かに逃げるように王宮を後にした。

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