第2話

 しかし翌日、事態は急変することになる。


 この日、王子は朝から勉強の時間になっており、今は自室でサンと勉強をしている。が、正直とても心配だ。というのも王子は勉強が大嫌いなので、毎回勉強の時間の前にはひとしきり暴れる。今も「勉強嫌だ嫌だ」と逃げようとしたのを、サンが無理やり引っ張って部屋に閉じ込め、なんとかやっと大人しくなったところなのである。しかしそれも、いつまで持つか。


 そんな中、僕は自室の掃除をしている。結局昨日もばたばたしてやりたいことができなかった。サンが頑張ってくれれば、少なくともあと一時間は王子は部屋から出てこないだろう。その間にゆっくり自室の片づけをするのです。


「ルンルンルーン。おっそうじおそうじ~」

「ソン、助けてなのだー!」


 ガッターン!


 僕は思わずこけてしまった。

 いやいやいやいや、早くない? ついさっき始めたばかりでしょうに、もう限界かい。サンは一体何をしているの、もっと粘ってよ。


「静かになさい、まだ始まってすらいないでしょう!」


 あ、頑張ってた。しかもまだ始まっていなかったんかい。


「嫌なのだー! 朝から勉強なんてやる気が出ないのだ、気分じゃないのだ!」

「いい加減にしなさい! そんなに暴れるというのなら、いっそ身動きが取れないように椅子に縛りつけて監禁してやりますよ」

「そんなの拷問なのだ、犯罪なのだ! ソン、早く助けに来るのだー!」


 なんか……大変そうだな……。それにしても、いくら隣といえどかなりはっきり二匹の声が聞こえてくるなんて、どれだけ大きな声で争っているんだろうか。


「ソンさんは玩具じゃないんですよ。都合が悪くなったらすぐ呼ぶのやめてください。ソンさんだって、貴方にばかり構っている暇はないんです!」


 うぅ、サン……。すごく感動的な言葉が聞こえた気がした、ありがとう。彼の優しさが身に染みると同時に、申し訳なさが込み上げてきた。サンが王子に対して真剣に向き合っているのは今の声の感じで分かったし、とてもありがたかったのだが、このままでは彼もストレスで僕と同じような症状になってしまうのではないかと不安になったのだ。これ以上サンにばかり任せてもいられない。何より王子のお世話は僕の仕事なのだ。僕は掃除をしていた前足を止めて、王子の部屋に向かった。



 ……って、嘘でしょ。待って、入れない。鍵が掛かっている……! サンってばこんなところまできっちりしているんだから。大方王子が逃げられないように、といったところだろうが、それにしても用意周到な奴め。仕方ないので僕は扉をノックした。


「誰ですか? 部外者は入室禁止ですよ、去ってください!」

「僕です、ソンです。あの……王子が心配で見に来ました」

「は、ソンさん? どうしてこの騒ぎが分かったんです!?」

「ソン、来てくれたのか!? やっぱり吾輩のことを分かっているのだ。早く助けてほしいのだー!」

「お静かになさい、逃がさないと言っているでしょうが!」


 うわあ……。もう入らなくても分かる、これはカオス。てか隣だし、これだけ暴れていたら普通に分かるでしょうよ。何を驚く必要があるの。


「それで何の用です?」

「部屋を開けてほしいんだけど……」

「話聞いてました? 部外者は入室禁止です」


 頑なだなあ、うえん。やっぱり駄目なのかな。いや、サンは僕のために言ってくれているんだろうけどさ。


「ソンは部外者じゃないのだー!」


 突然王子の大声が聞こえ、その直後にはガタンガタンと誰かが暴れるような音がした。


「待ってるのだ、ソン。今開けるのだ!」

「ちょっ……勝手なことを!」


 サンの焦るような声と恐らく王子が扉を開けているであろうガチャガチャという音が聞こえ、しばらくしてから扉が開いた。僕の姿を確認すると、申し訳なさからかサンの耳がだらんと垂れた。


「すみません。せっかく休んでいたところでしたのに……」


 先程までの威勢はどこへやら、サンは本当にすまなそうに謝ってきた。だけど彼が謝る必要なんてどこにもない、これは僕の意思なのだから。それにサンだって、王子に振り回されている被害者のようなものなのに。


「気にしないで、僕が勝手に来ただけだから。それに王子のお世話が僕の仕事だし、サン一匹に負担をかけるわけにはいかないよ」

「ソンさん……」


 王子本にゃんはこれで勉強から解放されると思ったのか、呑気に毛づくろいなんかしちゃっている。それと対照的にサンは明らかに疲れた顔をしており、どこかやつれて見えた。


「全く……ソンさんはこんな王子を相手にして、よく平気でいられますよね。嫌になったりしないんですか」


 王子に聞こえないくらいのボリュームで、ぽつりとサンが呟いた。

 平気、ねえ……。傍目にはそう見えているのかもしれないし、実際僕もミンに指摘されるまではそう思い込んでいた。実際は、身も心もぼろぼろだったんだけど。

 いつかはバレてしまうだろうが、今はまだ周りに余計な心配をかけたくないから言いたくない。それに僕自身、自分が病気だなんて認めたくなかったから、このことは隠しておきたかった。それなのに突如、王子の無神経な言葉が浴びせられた。


「あれ? ソン、背中の毛が禿げて面白い模様になってるのだ」

「王子、それはっ……!」


 いつの間にか背後にいたらしい王子に、背中の毛を見られてしまった。


 分かっている。王子に悪気なんてない。ただ目に入って、気になったから聞いてみただけ。でも……でも、何で今? 今までだって気づく機会なんていくらでもあったろうに、どうして僕が悩んでいるこのタイミングで気づいてしまった? 違う。きっと今までは「お願いを叶えてくれる便利な道具」としか認識されていなかったんだ。僕はにゃんとして見られていなかったんだ。だから気づくわけなかったんだ。でも今は頼み事をされていないから、王子の中で僕は「幼馴染のソン」という認識なんだ、だから気づいてしまった。ただそれだけのこと。


 僕が急に声を上げたので、サンが不思議そうな顔になる。


「どうしたんですか。禿げているって一体……?」

「え。ち、ちが……。サン、その、えっと……」


 ああ、もう。こんなに慌てていたら、僕に何か異変があるってバレてしまうじゃないか。どうして僕は誤魔化すのも嘘も下手なんだろう。

 焦る僕のことはお構いなしに、王子が続ける。


「ソンの背中の毛が部分部分で禿げていて、斑点みたいになっているのだ。新しいファッションか?」


 うううう、王子もう黙ってください……って直接言えない僕はやっぱり弱いんだろうな。もう嫌だ、泣きそう。

 その時、サンにグイッと前足を引っ張られ、部屋の外に連れ出された。


「王子、少し待っていてください。勉強はきっちりやりますので、くれぐれも逃げないよう」


 出る直前、彼は王子にそう言い残して。



「どうしたの、サン。急に引っ張ったりなんかして」


 もう完璧にバレてしまったろうけれど、僕は敢えて白を切る。するとサンにギロリと鋭い目つきで睨まれた。


「どうしたの、はこちらの台詞ですよ。一体どういうことですか」

「え……えーっと、何のこと?」

「はあ……言いたくない、ということですか。まあ深くは追及しませんが」


 サンは溜息をついて頭を抱えた後「ですがこれだけは聞かせてください」と再び僕を睨むように見つめてきた。


「今は換毛期じゃないですよね?」


 ああ。もう、逃げられない。僕の頬を汗が伝う。言うしかない。僕は観念して口を開いた。


「あの、まだ誰にも言わないでくれる? ……僕ね、病気なんだ。ストレスが原因らしくって……禿げているのはそのせい」

「ストレス……それは、ホン王子が原因ですか?」


 サンまでそう思うのか。どうしてみんな、真っ先にホン王子の名前を出すのだろう。他の理由は思い浮かばないのか。

 僕はゆっくり頭を振る。


「分からない。まだ、そうと決まったわけじゃないし」

「でも、他の理由が思いつきません」


 サンがきっぱりと言い切る。その目は真っ直ぐだった。


「どうして……?」

「仮に原因が他者にあるとして、ソンさんがホン王子以外の方と接している姿を滅多に見ません。大体、そばにいない方が珍しいくらい四六時中あのわがまま王子にべったりなのに、他に原因があるとでも?」

「それはー……。でも、決めつけはよくないと思うよ?」


 するとサンはビシッと前足で僕の抜け毛の部分を指した。


「その毛。体に変化が出るほど、限界まで追い詰められていた証拠ですよね。貴方にそれほどのストレスを与える相手なんて、あのお方以外考えられませんが」


 ここまではっきり確信をもって言われると、もう僕は何も言えなくなってしまう。何か返さなくちゃと思うのに、開いた口から出てくるのは掠れた声だけ。そして微かに体が震える。

 駄目だよ、動揺するな。平静を保て。自分は大丈夫だと、何事もないのだと、そういったふうに笑え。

 しかし思いとは裏腹に、油断したら零れ落ちてしまいそうなほど、目には涙が溜まっていく。認めたくなくて心の中で否定していた事実。それをサンによって現実なのだと突き付けられ、受け入れざるをえないショック。

 これ以上この場にいたら、堪えていた感情が溢れてしまいそうだった。


「……勉強の邪魔しちゃ悪いから、僕もう戻るね」


 やっとのことでそれだけ告げると、僕は王子の部屋を後にした。なるべく平静を装ったつもりだったが、おかしくはなかっただろうか。


 自室に戻って一息つく。一匹の空間。その時ようやくぷつりと緊張が解け、堰を切ったように涙が零れだした。すぐ隣にいる二匹に聞こえないよう、声を押し殺して僕は泣いた。


「うう……っく……。ひっ……あああっ……」


 助けてと言えたらどんなによかったろう。でも僕は立場上、甘えることなんて許されない。いつ王子に呼ばれてもいいよう、常に気を張っていなければならない。自分よりも、王子のために生きなければならない。それが僕に、生まれた時から与えられた運命なのだから――。

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