第20話『異変、崖を呑む』

 魔導士カナリヤ・ヴェーナが『シンギュラ・ザッパ』への攻撃を開始してから、十数分間。

 地下湖には静かな“異変”が起こり始めていた。


(おかしい。何か……何か変だ)

 エコがその違和感に気が付いたのは、事態がだいぶ進んでからのことだった。

 カナリヤと対峙すべく崖の麓で身を隠しているエコが、暗闇を見回す。

「ねえ、ターク……。なにか、おかしくない?」

「何がだ?」

 脇にいるタークに、エコが小声で話しかけた。上の様子を窺っていたタークがエコの方に顔を戻す。この崖の上にいるカナリヤ・ヴェーナに存在を気づかれるわけにはいかない。

 崖に登るための坂道は一本しかなく、坂の途中に遮蔽物はない。しかも、カナリヤは魔法で明かりを作って坂道を照らしており、常に背後への警戒を怠らなかった。

 エコの魔力を遥かに上回る“銀面”という魔導士がいる以上、虚をつく以外エコたちに勝ち目はなかった。

「さっきまでとなにかが違う気がするの……景色が変わっているような」

「なにかが違う……?」

 タークは周りを見回したが、暗すぎてよく分からなかった。洞窟内にはカナリヤが崖の上で焚いているわずかな明かりと『銀面』の魔法による瞬間的な発光以外に光源はない。

「そうはいっても、洞窟の地形がそう簡単に変わるはずがないだろ?」

「そうだけど……」

 小声で話す二人の存在に気が付き、崖の麓に隠れていたもう一人の人影がゆっくりと近づいてきた。

「エコ……タークさん」

 崖伝いに近づいてきたのは、ハルナだった。先ほど怪我をした部分に、衣服を裂いて作った簡単な血止めが巻いてある。

「ハルナ先生! よかった、無事だったんだね」

「エコ、脱出しなさいと言ったはずよ……!」

 傷ついたハルナに強い口調でそう言われると、エコは俯いた。


「でも、やっぱり放っておけないよ。ハルナ先生のこともそうだし……なによりこの街が危ないって時に、わたし達だけ逃げ出すわけには……」

「けれど、あの魔導士に対して私たちは無力よ。エコ、あなたがいてもいなくても変わらない。だから……せめて逃げなさい。私の力では……どうしたってあなたを守ることができない」

 ハルナの言葉を聞いてエコはたじろいだが、意志を曲げるつもりはない。

「それでも、できることはあるはずだよ。一人では無理なことでも……、二人なら……三人なら」

「そういう問題で収まる力の差ならば、ね……」

 ハルナは力の抜けた声で言った。先ほど受けた“銀面”の魔法の破壊力が頭から抜けないらしい。

 再び魔法の稲光が輝き、洞窟の景色を一瞬だけ照らし出す。

「あ……っ!?」

 刹那の光の中で、タークがその事実に気づく。

「どうしたの? ターク」

「み、水だ……!!」

「え?」

 タークの言葉の意味は、エコとハルナには伝わらなかった。

 稲光は止み、洞窟は闇のとばりの中にある。

「水……?」

「びぇええええぇぇ!!」

 エコはタークにその言葉の意味を尋ねようとしたが、その声を遮るように『シンギュラ・ザッパ』の絶叫が響き渡る。

 つづいて、激しい水音。巨体が崖の上から湖に落下したのだ。

 三人に冷たい波しぶきがかかり、同時に、足首のあたりまで冷たい水に浸される。


「えっ」

 エコは驚いた。いくら『シンギュラ・ザッパ』の巨体が湖に落ちたとはいえ……、今三人がいる岸は、湖面から5レーンほど高くなっているはずだ。

「水位が……!?」

 再び、魔法の稲光が地下湖を照らし出した。その時エコの視界に入ったのは――驚くべき光景だった。

 エコたちのはるか下にあったはずの湖面が、ひと波打てばかぶりそうなほど接近している。

「嘘でしょ!?」


 これが、エコの感じていた違和感……湖に起こった“異変”の正体だった。

 湖の水位が急激に上昇している。

 稲光が光り、消え、また光っては消える。そのさなかにも、湖の水位が音もなく上がり続けていた。

「そんなバカな……!」

 ハルナが言った瞬間、三人の足元に冷たい水が触れた。一度触れてみると、その水位の上がり方が尋常でないスピードだということがよく分かる。

 つま先の濡れた感覚が、またたく間に足首まで上がってくる。

「びぇええええぇぇ!! びぇええ!」

『シンギュラ・ザッパ』。これが奇跡の魔法『ミッグ・フォイル』によって生まれた魔法生物の底力か。気が付けば、崖の周り以外の陸地は全て水に沈み、エコたちのいる辺りだけが、孤島のように湖面に浮いていた……。


「まさか『シンギュラ・ザッパ』の仕業なの……!?」

 ハルナが畏れ、驚いた。この地下湖の存在も、『シンギュラ・ザッパ』がいることもハルナは知っていたが、これほどの力を持っている生物だとは想像していない。同時に、あることに気が付く。

「そうか……きっと、『シンギュラ・ザッパ』が湖に堕ちた魔導士たちの体を食べたんだわ! いつもは月に一度が二度の食事で十分な水を作り出せる『シンギュラ・ザッパ』が、よりマナ保有量の多い魔導士の遺体を何体も食べたら……」

「もう、行くしかない! このまま水かさが上がり続けたら、ここも沈んじゃう!」

 エコが言う。水位は既に三人の膝まで達していた。

「確かに、これ以上様子見している場合じゃないな……しかし、どうする? まっすぐこの崖の道を登れば、返り討ちに遭うだけだぞ」

「……タークさんの言う通りね。私も今までずっと攻め時を窺っていたのだけれど、あの魔導士はよほど用心深い男よ。油断できない魔導士」

 ハルナが悔しそうに言う。

「……攻めようはあるよ。このまま、水位が上がってくれれば。そして、あの魔導士がこのことに気づく前なら……」

 エコは、切り立った崖を見上げながら言った。



 崖の上で『シンギュラ・ザッパ』を攻撃している魔導士カナリヤ・ヴェーナは、次第に焦り始めていた。いつまで経っても、決着がつかない……。

 先ほどから“銀面”に強力な雷の魔法を連発させている。なのに、『シンギュラ・ザッパ』は一向に弱る気配がなく、痛々しい悲鳴を上げながらも執拗に二人に迫ってくるのだ。


『シンギュラ・ザッパ』の攻撃能力や敏捷性は決して優れてはいない。だがその代わり……生命力がケタ外れに強いらしい。

(弱点はどこだ!? 奴も生物なら、弱点が……そうだ、どこかに弱点が必ずあるはずだ)


 カナリヤは息をひそめ、『シンギュラ・ザッパ』の出方をうかがっていた。同時に、背後の坂にも気を配る。まだ敵の魔導士がいるはずだが、そちらに動きはない。

 しかし、いくら待っても一向に『シンギュラ・ザッパ』が湖面から飛び出してくる気配はなかった。

 おかしい――。

 訝しんで湖面を覗き込む。そうして、カナリヤはやっと湖の水位が上がっていることに気づいた。

「なんだこれは!? 湖面が上がってきている……!?」

 15レーン以上も下にあったはずの湖面が、いつの間にか、手を伸ばせば届きそうなほど近づいている。岸からとびかかってくる『シンギュラ・ザッパ』を迎え撃つため、カナリヤは崖の中央付近に立っていた。そのことが災いして今の今まで気が付かなかったのだ。

「いつのまにか水量が増えたとでもいうのか!? なぜ……」

 カナリヤが湖面までの距離を測ろうとさらに崖際に寄り、魔法で明かりを点けた。その瞬間だった。

「ぐぶっ!」

 カナリヤの側頭部に、水の塊が強かに打ち付けられた。

「ぐっ……!」

 倒れそうになるところをこらえ、カナリヤは手にした杖を傍らにいる“銀面”に伸ばした。

 杖が“銀面”の背中に届こうというその一瞬、鞭のように飛んできた風の束がカナリヤの杖を吹き飛ばす。

 続いて、さらに二発の水弾がカナリヤの脇腹と肩に命中した。

「ぐほあっ!」


「や……やった!」

 ずぶぬれになったエコが、思わず声を上げる。反対側の岸では、水から上がったハルナが杖を構えていた。

 三人は坂道ではなく、切り立った崖の斜面を伝って崖の頂上に辿り着いていた。

 通常では登れない反り返った崖も、水面の上がっている今なら話は別だった。むしろ反り返った屋根は上からの視界を遮り、忍び寄るには好都合な死角になる。


「観念しなさい!」

 ハルナはカナリヤに向かって杖を突きつけた。勝負あった……、“銀面”とカナリヤの間には少し距離がある。この状態ならば、カナリヤが“銀面”に命令を出すことはできないはずだ。

 カナリヤは攻撃を受けた後頭部を手で押さえていたが、その顔には余裕が浮かんでいる。

「私を出し抜いたつもりですか? だとすれば、詰めが甘い」


 次の瞬間……崖の中央付近に向かって空気が集まり、圧力の高まった空間が一瞬赤く発光して、激しい爆発が起きた。


「きゃあぁぁ!!」

 ハルナが爆発によって吹き飛ばされ、悲鳴を上げた。

「うぅ……っ! ハルナ先生!」

 エコは崖の縁を盾にして爆風を防いだが、崖の上にいたハルナはそのまま湖面に落ちたらしい。その姿はどこにも見えなかった。

「く……っ!」

「よくもやってくれましたね!! あと一人の魔導士は……!?」

 カナリヤは怒りに顔を歪め、魔法の明かりをさらに増やした。エコの姿を探している。

「この私が、予想外の不意討ちを警戒していないとでも思いましたか!? あいにく、“銀面”にはこういう時のための備えがしてあるんですよ。私がそう簡単に隙を晒すと思ったら大間違いだ!」

カナリヤの杖が、“銀面”の背中に触れる。“銀面”の放った氷の魔法が、エコのいるであろう方向に向かって次々に発射された。

射出された氷の刃が、岸を粘土のように削り取っていく。

「出て来なさい!……いや、出てこなくてもいいですよ。いずれにせよ、粉々にしてやる!!」

(まずい……! こうなったら、水中に……!)

 エコのいる位置は、先ほどの攻撃の方向から大体の目星がついているようだ。エコは崖の縁から手を離し、そのまま水中に身を沈めた。


 だが、その思惑はすでにカナリヤに見透かされていた。“銀面”から巨大な光の弾が発射され、エコのいる水中を明るく照らし出す。そして、水中深くに隠れつつあるエコを見下ろすように、カナリヤの影が崖際に現れた……。

「やはり、そうするしかないですよね。……やれ!“銀面”!」

「……!!」

 万事休す。エコがそう思った瞬間だった。

 なにか固いものがぶつかる音がして、“銀面”がその場に倒れた。

「何!?」

「エコッ! 無事か!?」

 カナリヤが声の方向に目を向ける……そこにいたのは、タークだった。“銀面”に向かって、手にした石を投擲したらしい。

「原始人がぁっ!!」

 カナリヤは、続けてタークが投げた石を風の魔法で軽く吹き飛ばすと、ターク目掛けていくつもの火球を発射した。

「ぐああ!」

 タークは咄嗟に腕で顔や首をかばった。タークの体に火球が命中し、炎がまとわりつく。あまりの熱さにその場を転がり、そのまま水中に落ちた。


(ターク!!)

 タークの悲鳴を聞いて、エコは思わず杖を構えた。だが、発動に呼吸が必要な魔法を、水中で使うことは出来ない……。

(ダメか……このままじゃ全員……!)

 エコがこれ以上どうしようもないことを悟った、その瞬間だった。水面を挟んで真上にいるカナリヤが、突如としてエコの向こう側に目線をやる。

「な……なにっ!?」

 そこにあったのは、高い水の壁だった。

 湖面が大きく盛り上がり、高波となって陸地をぐるりと取り囲んでいる。

「いつの間に……! まさか、こいつは……!?」

 湖の中にいるエコの身体が、不意にぐん、と大きく持ち上げられた。

 波はエコのいる場所を通り過ぎ、そのまま岸に迫っていく。


(なにが起きたんだ!?)

 エコが水面に顔を出す。

 波はそのままの勢いで、ゆっくりと陸地に迫っていく。進むにつれてだんだんと高さを増していく水の壁は、すでに天井に着くほどの高さになっていた。


「びぃぃ、ええええぇえぇぇええ!!」

「くそっ!!」

 波の中心から、『シンギュラ・ザッパ』の声が聞こえる……。カナリヤの部下の死体を食べ、何十倍もの体積を得た『シンギュラ・ザッパ』が、陸地ごとカナリヤを呑み込んでいく。口の中から“銀面”の稲妻の魔法が放たれたが、その勢いは止まらない。 


「う……うわああああぁぁあ!!」

 巨大な波が崖を砕き、激流で全てを押し流す。エコも、タークも、そしてハルナも、洞窟中に溢れかえる水の力に逆らうことは出来なかった。ただその流れのまま、湖水の中に身を躍らせる。


「びぃぃええぇえぇぇええ…………ッ!!」

『シンギュラ・ザッパ』の声が響き渡ってしばらくすると、洞窟の中は再び暗闇と静寂だけが支配する空間になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エコ魔導士 愛餓え男 @akiruno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ