第19話『エコを呼ぶ声』

(エコ……)

 遠くから誰かが呼んでいる。

 エコは、その声に聞き覚えがあった。

(エコ……、食事にしてくれ……)

 師匠の声だ。師匠の声が聞こえる。エコは師匠の言う通りにしようとした。だが、体が動かない。


 だめなの。師匠、身体が動かないよ。

 だって……。


 気が付くと、エコは暗い水の中にいた。

(……そうだ、わたしはあの魔導士に負けて……湖に落っこちたんだ! 急いで水面に上がらないと……)

 とっさに身体を丸めて、浮かび上がる方向を確認する。だが濡れた服を着ているせいか、ほとんど浮力がない。

 エコは魔法を使うための訓練で日頃から肺を鍛えているが、意識を失っている間に少し水を飲んでしまったらしく、胸が苦しい。


(これではどっちが上だか……!)

 光源のない洞窟の水中は暗く、水面がどちらか分からない。エコが焦ったその時、頭上に光が点った。誰かが水上で魔法を使ったのだろう。これで上下が分かる……!

 だが安心したのもつかの間……鈍い光が差しこんだ時エコの眼界に広がったのは、絶望的な光景だった。

(嘘……!)

 水面が見渡す限りぶ厚い氷で覆われていた。“銀面”の魔法が湖面を凍らせてしまったのだ。

(ターク……!)


――――


「なぜだ!? なぜ『シンギュラ・ザッパ』は姿を現さない!?」

 魔法で照らし出された湖を見渡して、カナリヤ・ヴェーナは焦っていた。湖をほぼ完全に凍り付かせたというのに、シンギュラ・ザッパの動きがない。あたりはしんと静まり返っている。


「あるいはすでに死んでいるのか? しかし、それを確かめる術もない……一度出直すしかないか……。くそっ!」

 その傍らで、“銀面”が地面に座り込んでいる。いくら“銀面”の魔力が高いとはいっても、連続で魔法を使いすぎれば息切れは起きる。

 こしゅー、こしゅー……。

 マスクを通る細い管からくぐもった呼吸音がする。それがカナリヤの神経を逆なでし、苛立ちのまま“銀面”の腰を蹴りつける。

「うるさいぞ! 黙れ!」

“銀面”は蹴られた勢いで横倒しになり、そのまま起き上がらなかった。

 こしゅー、こしゅー……。

 同じリズムで繰り返される呼吸音だけが、洞窟の中に鳴り響く。

「とんだポンコツだ……、これだけ強大な魔力を持ちながら、判断力は皆無! 自力で起き上がることさえできないとはな。見下げ果てた奴隷野郎だよお前は!」

 カナリヤは“銀面”に対してもう一度だけ苛立ち交じりの蹴りを入れると、再び注意深く湖を見た。


――――


(エコ!!)

 その時、『シンギュラ・ザッパ』の体内でタークが『視た』光景は現実のものだったのだろうか。

 あるいはタークの“願い”が見せた幻だったのだろうか。

 しかしタークと繋がっているシンギュラ・ザッパの心の中にも、緑色の髪の毛をした女の子が水中で溺れて苦しんでいる姿が見える 。胸破れんばかりのタークの苦しみも、同時に……。

(エコが苦しんでいる! エコが死ぬ!)

 それは先ほどまでの落ち着いた精神波ではなく、ただ必死に一人の少女の身を想うタークの、ただならない感情の大波だった。

(なんとか……助ける方法はないのか! エコを助ける方法は!)


 シンギュラ・ザッパはタークの激しい苦悩と絶望の波動を感じ取り、彼の気持ちに深く同調した。

 自分が死んだと気が付いた時にも、タークは心にはほとんど波風が立たなかった。彼はそれほど安定した精神の持ち主であり、だからこそ“この空間”に到達し得たのだとシンギュラ・ザッパは信じている。

 だが、いまのタークの姿はどうだろう。先ほどまでとは正反対の、激震する感情の波。静寂と爆発、強烈な二つの思念波のコントラストが印象的だった。

 彼にとってあのエコという少女がどれほど大切なのか……痛いほど伝わってくる。


 長年多くの人の生死を見てきたシンギュラ・ザッパは、人の命ひとつに心惑わされることがない。だからこそ、タークのこの感情の高ぶりをうらやましいと感じた。できることなら彼を助けたい。だが……。


(しかしターク君……しょせん、私たちは死人の集まりに過ぎない……、生きている者の命を救うことは難しい)

(早くしないとエコが死んじまう!……エコが!!)


 エコは凍りついた湖の天井まで浮上し、拳で必死に氷を叩いた。だが、まったく割れそうにない。

 氷塊の天井のわずかな隙間に空気が溜まっているのを見つけ、そこに顔を突っ込んでわずかに呼吸する。エコの顔は青ざめ、唇が青紫色に変色していた。冷えた湖水の影響で、低体温症を起こしかけているのだ。


 それを見たタークの焦燥は痛ましいほどだった。その姿を見て、キメリア=カルリが言う。

(おじいさん……! 私たちになにか出来ることがあるんじゃない? 肉体が死に絶え……こうして意識だけの存在になったとはいえ、私たちは『ミッグ・フォイル』を起こして、自分と同じ名をもつ生き物を産み出したほどの力ある魔導士なのよ)


『ミッグ・フォイル』を起こし、後世に自分の名を遺す。それは、魔導士なら誰もが望む到達点だ。

 いわば魔導士の頂点を極めた二人が、目の前の女の子一人助け出すことができない歯がゆさ。

(思いあがってはいかん。キメリア、死した我々には、生きているものの世界に干渉することは出来はしない。しかし――)


 シンギュラ・ザッパは少し考え、すぐに決意を固めた。

(――試してみるか。たしかにターク君の身体は『水』になってしまったかもしれない。……しかし、ここにあるのはただの水ではない。私が作り出し、キメリアが多くの命を溶かし込んだ特別の水……トレログを育む、命の水なのだ……!)


 シンギュラ・ザッパの気持ちに波が立つ。キメリアもその意志を汲みとった。

(……肉体から水が出来るなら……逆に水から肉体を作り出せる可能性があるってことね。タークさんはまだ水になったばかりだし……なにより、タークさんの意識はここにある。肉体を蘇らせれば、意識もそこに戻っていけるかもしれない)

(本当か? そんなことができるのか?)

 タークはわずかな疑いの心を持っている。シンギュラ・ザッパはそれに応えた。

(ターク、死んだ肉体は元には戻らぬ。だからあくまで、これから行うのは新しいお前の身体を作り直す儀式になろう。上手くいくとは限らない。上手くいったとして、どういう影響が出るかもわからない。上手くいけば、お前は魔法の力によって生まれ変わるのだ。ターク)


 シンギュラ・ザッパは言ったが、タークに迷いはなかった。

 

(エコが助かるのならなんでもかまわない! とにかく急いでくれ!)


(急ぐとも。感じないか……、今、君の精神に呼応して水が集まり始めた……ターク、君も自分の肉体を具体的にイメージしたまえ。想像は『創造』に通じる。魔導の基本はイマジネーションだ。私と意識を共有した今の君なら、それができるはず……)


 タークは言われた通り、意識を集中して自分の肉体を思い浮かべた。

 たくましい腕……、足……しっかりした胴体、二の腕にあるほくろ、固い鼻筋や、くぼんだ目、膨らんだ頬骨とでっぱった顎。

 そうした一部一部を思い出すごとに、タークの意識が今いる空間から遠のいていく……。


(あ、あなたに寄生していた『キメリア=カルリ』はもう水に戻っているから安心してね。寄生目的は果たされているわ。……それと、ここであなたの意識体が経験したことは肉体に戻った時に消えてしまう。そうでないと、おじいさんと共有していた記憶や思想が現実のあなたの意識を侵食してしまうから)


 分かった……、とタークは思ったが、既にその思念は相手に伝わらなくなっていた。続いて、シンギュラ・ザッパの声が聞こえる。


(ターク。こうした形で友人を失うのは、私にとっても残念だ……。だが死んではいけない。君は、これから先も生きていくのにふさわしい人間だ。では……さらばだ)

(タークさん、私はあなたのおかげでおじいさんと出会うことが出来た。トレログの事情に巻き込んでしまって申し訳ないけど、私は今回の出来事に運命的なものを感じるの。あなたは私たちのことを忘れてしまうでしょうけど……私たちはタークさんのことを忘れないから。さようなら)


 シンギュラ・ザッパとキメリア=カルリ……【石の街トレログ】の礎を築いた二人の魔導士に見送られ、タークの意識が遠くなる。

 瞬間、タークの意識はまるで大渦に巻き込まれたかのように目まぐるしく振り回され、そしてある一点で……急激に途切れた。


――――



(エコ!!)

 冷たい水の底で、タークが目覚めた。タークは考える前に足を動かして暗い水の中を上昇し、エコのもとへ急ぐ。エコはぐったりとうなだれ、水の中に体を横たえていた。

(エコ!! 死ぬな!!)

 タークがエコの顔を覗き込み、その体を抱きしめる。その時、エコとタークの足元から巨大ななにかがせりあがってきた。

(!!)

 凄まじい水流を伴って急速に浮上してきたそれが、湖を覆っている氷塊にぶつかる。氷塊に亀裂が走り、そこに水の圧力が集まって激しい水柱を立てた。タークとエコもその勢いに巻き込まれ、砕けた氷塊と共に水面に飛び出す。

「『シンギュラ・ザッパ』!!」

「びぇええええぇぇ!!」


 魔導士カナリヤ・ヴェーナは、それを見てほくそ笑んだ。

「ようやく現れたかっ! 立てっ!“銀面”!」

 突然目の前に飛び出してきた『シンギュラ・ザッパ』の巨体に向けて、“銀面”の魔法が放たれる。

“銀面”の繰り出した無数の氷の刃が巨体に突き刺さった。だが『シンギュラ・ザッパ』はそれを意に介さず、奇声を上げながらカナリヤと“銀面”に向かって突っ込んできた。

「びぃえええっ!!」

「うわああっ!」


 魔法生物『シンギュラ・ザッパ』の巨体が、カナリヤと“銀面”のいる【祭壇】に激突した。カナリヤと“銀面”はその場に倒れ込むようにして身を伏せ、なんとか難を逃れた。

『シンギュラ・ザッパ』がゆっくりとその場に身を起こす。カナリヤは目を疑った。

 その体は、思っていたよりはるかに巨大なのだ。湖面からこの崖まで、高さ15レーンはある。だが、『シンギュラ・ザッパ』の上半身が崖の上に届いている。少なくとも体長30レーン以上……、だがしかし、先ほど現れた時は崖の高さにギリギリ届く程度の大きさしかなかったはずだ。

「……まさか、水を吸って膨れたとでも? 『ミッグ・フォイル』によって生まれた魔法生物の非常識、まさかここまでとは……!」

 真っ暗な地下湖に生息しているためか目は退化して痕跡しか存在しないが、カナリヤには『シンギュラ・ザッパ』がこちらを睨みつけているかのように感じられる。

「ひひ……! 鈍いやつめ!」

『シンギュラ・ザッパ』はカナリヤを睨んだままゆっくりと地面を滑り、身をよじらせて再び背後の湖に戻っていく。『シンギュラ・ザッパ』の手足は水棲生活に適応しており、地上を歩くほどの力はない。魚のように身体をくねらせて移動するその動作は遅かった。

『シンギュラ・ザッパ』の攻撃能力は大したことがない。ならば、一方的に攻撃して殺せる……カナリヤは自身の解剖学的な知識から、瞬間的にそう読み取った。


 その巨体が凍った水面に落ちると、再び表面の氷が割れ、冷たい水しぶきが降り注いだ。


「……ずいぶん苦戦させられましたね。けれども……」

 カナリヤの口元に笑みがこぼれた。カナリヤの任務。トレログを守る境界魔法陣の破壊……その為に境界魔法陣の【依代】たる『シンギュラ・ザッパ』を殺すこと。

『シンギュラ・ザッパ』が死ねば、この街を守る境界魔法陣は脆弱化し、水の循環システムも崩壊する。その後、『トレログ』はゆっくりと滅びの道を辿るだろう。その未来は、あと一歩のところまで来ていた。


――――


(エコ! エコ!!)


 エコを呼ぶ声が聞こえる。先ほど聞こえたものとは違う、誰かの声。

(エコ! 目を覚ませ!)

 

(だれ……? 師匠は?)

 エコは漠然とした意識の中で、ぼんやりとそう考えた。

 誰のものだかわからない。だが聞き覚えのある声……。

 エコの脳裏に、色々な光景が浮かんでは消える。

 誰かと畑に水を撒いた日。雨の日に誰かと包丁を研いだ日。誰かが作ってくれた椅子に座ってみた感触。家を燃やした魔導士に怒りのまま杖を振り上げた時の、胸にこみ上げるイヤな気持ち。

(師匠は……もういないの? ターク……)

 エコの脳裏にタークの名前が、続いてその顔が浮かんだ。


「う……、げっ! げほっ!!」

「エコ!」

「ターク……」

 エコが目を覚ました。傍らにタークが屈みこみ、その背後で雷光がきらめいている。

「ここどこ……? あれから何が……」

 言いかけて、エコは色々なことを思い出した。

「ターク、無事だったの?」

「エコこそ大丈夫なのか。一瞬、呼吸が止まってたんだぞ」

 二人で顔を見合わせる。

「わたしは平気……だけど、ターク、どうやって助かったの? あいつに呑まれたんじゃないの?」

「俺にも状況がよく分からん。気づいたら水中にいた」

 再びの雷光。結論の出ない時間が流れる。エコはふっと笑った。


「まあ、細かいことはいっか。タークにまた会えてよかった。今はそれだけで……」

「そうだな。考えても、分からないことは分からない」


 エコの笑顔を見て、タークも安心して笑った。

「だが……これは何がどうなっているんだ?」

「……まずはハルナ先生と合流しなきゃ。シンギュラ・ザッパを殺そうとしてる魔導士がいるの。とても……残酷な奴」

 エコの眼光が鋭さを増す。その言葉を聞いて、タークは眉間にしわを寄せた。

『シンギュラ・ザッパ』……聞いたことのないはずのその言葉を聞いた時、背筋にしびれるような感覚を覚えたのだ。

「そうか……エコ、動けそうか? 寒くないか?」


 エコもタークも、冷たい水で体が濡れている。加えて洞窟内の気温は冬のように低い。

「大丈夫、動ける。止まっていられないよ、こんな時は」

 エコはそう言うと、ゆっくりと体を起こした。

「できる限りのことをしないと……後悔はしたくない」


 エコはそう言って前を見る。

 二人はまだ気が付いていなかったが、その時すでに地下湖には大きな“異変”が起こり始めていた。

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