第9話 黒鉄と虹 (3)

 シルリィが少し小走りに自分の前方へ行き、行く先を塞ぐようにして彼女はくるっと振り返った。ふわりと揺れたワンピースの裾が、彼女のふわふわの銀髪の揺らめきとマッチして美しく見える。


「元気いっぱいだね」


「ええ。だって、今まで生きてきた中で一番楽しいと思っているんですよ。それはもう……心の底から喜んじゃいますよ!」


 自分はその言葉を聞いて、一つ悪い予想が頭の中を過ってしまった。


 もしかするとシルリィは、魔導書を読んでしまったこともあって、親にさえも雑に扱われていたのではないか、と。先ほど悪い予想と言ってしまったが、これは予想でも何でもない。事実だろう。


 彼女に親がいるならば、保護者らしい保護者ならば、禁忌を犯してしまった娘をそう簡単に見捨てたりしないだろう。ましてや、あんなあばら家に放置するなんて。


「……そういえばシルリィ、君のご両親は一体どこに?」


 震える声でそれを聞いてしまった。というより、聞かずにはいられなかった。どうしても確認がしたかったのだ。彼女の過去を全て知ろうとは思わないが、せめて彼女が愛を受けて育ってきたか、ということだけでも、知っておきたかったのだ。


「両親ですか? いませんよ。魔導書を読む前の記憶が少々曖昧なので、何とも言えないですけど……。もしかしたら、食べちゃったのかもしれませんね? なーんて」


 シルリィはそう冗談を言うように誤魔化して言ったが、きっとその心の傷は深いに違いない。


 別世界で生きてきた人生の記憶の欠片をどうにかして集めても、自分の両親は確かに存在したし、愛してくれていたのがわかる。シルリィと何一つ重なる点は無い。なのに、なのにどうして、心がこんなに苦しいんだ。


「……デュレイさん? 大丈夫ですか?」


「……この身体は……、泣く目さえも無いんだな……」


「な、泣く? どうしてデュレイさんが……」


「ごめん、ごめんシルリィ。自分はもっと早くに気付くべきだった。ごめん」


 無い頭に出てきた単語をただ並べて、感情を言葉にして吐き出して、整理することなく心と口が言葉で直結している状態だった。


「どうしてデュレイさんが謝るんですか……? わかりません……私には」


 理性も何もなく、ただ空しくなって、シルリィを抱き寄せた。


「今日は……甘えん坊さんな日なんですかね? あんまりデュラハンを知らないのでよくわからないんですけど……。でも、落ち着いたら話してくれますよね? よしよししてあげましょう」


 お姉さんを気取るように優しく微笑んで、そっと抱き返してくれた。本当は頭を撫でてもらいたかったが、肝心の頭が無いのでそれは不可能だった。


 木漏れ日に包まれながら、シルリィの体温を感じていた。


 それを十分満喫して、感情の下がり具合が正常に戻ったところで、彼女を胸に抱きながら弱々しい声で小さく、本音を漏らした。




「……苦しかったよね。きっと」




 どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。いくら感情が溢れてしまったからと言ってこんなことを言っても返す言葉を悩むだけなのに。


「苦しいって……」


 言葉が詰まるシルリィ。困惑とも受け取れる、混濁した感情を含めた声。


 彼女に身を寄せるのも嫌になってきて、でも全く嫌いじゃなくて、でも嫌になってきて、彼女の腕に抱かれるのをやめる。彼女の柔らかな腕は一瞬でほどけてしまった。


 地面に膝をついていたせいでズボンが土で汚れている。表情は無いが、どうも浮かばれない表情で土を払う。


「……」


 沈黙で満たされた空間は息苦しい以外の感想は一切出ない。


「ごめん。部外者が口を出すことじゃないよね。多分こういうの、指摘されたら「何も知らないくせに!」って自分だったら怒っちゃうかも。何にも考えずに言ってごめん」


 自分はもしかしたら口下手なのかもしれない。語彙力が無いとでもいうか、何というか色々足りないというか。人間としてある程度言語はまとまって理解して使用しているはずなのに、ここまで酷い言葉しか出てこないのはどうかしている。


 まぁ逆に言ってしまえば飾りの言葉が無い、単調でわかりやすい、伝わりやすい言葉しかはけないということなのだが。


「ただ、シルリィは幸せになって欲しい。過去はさ、どうにもできないし、思い悩んでも無いものは無いままだし」


 音にもならない息を吸う。


 言葉にも覚悟がいる。


「今、シルリィの隣にいる部外者は、今のシルリィとこれからのシルリィを変えることしかできない。ただ過去を悲しむ今のシルリィの側に寄り添って感情を共有してともに悲しむことくらいしかできない」


 空に陰りが見えてきた。木漏れ日が消えていく。


「出会って少ししか経ってないけどさ。言ってることがおかしいのは十分承知の上で言うけどさ」



 余裕が無い。

 落ち着いて息も吸えてない。

 脳を必死に働かせて、出てきた言葉。





「もう我慢しなくていいんだよ」





 シルリィの目線に合わせて、片膝をついて左手を自分の胸に置き、右手を彼女に差し伸べる。


 伸ばした手のひらに雨粒が落ちる。


「見てるだけで、苦しかった。これは自分の勝手だけど、今のシルリィは自分の幸せを自ら遠ざけているように見える。自分を……いや、をこの家に招いた時に追い出そうとしてたときから、ずっとずっと」


 ぽつぽつと木々の葉に雨粒が当たる音が聞こえ始める。


「こればかりは『好き』だけの感情じゃ片づけられない」


「……デュレイさん」


 自分の服越しに水が感じられるようになってきている。


「デュレイさん。その好意に後悔が無いのなら、私は喜んで手を取りますよ」


「……へ?」


「何度も言葉にしていただいた通り、あなたの好意は何度も受け取ってきました。それが本当の、悪意無き愛であることも、ずっと前からわかっていました……けど」


 シルリィは静かに涙を流す。


「互いに愛を認め合ったら、もう後には戻れないような気がするのです……。自分の幸せを優先してしまったら、もうそれこそ、ずっとせき止めてたモノが壊れそうで……何と言いますか……」


 あはは、と泣きながら無理やり笑い声を作り出すせいで余計に涙が溢れ出てしまっている。


 自分の目には、胸の奥の奥に煌めく魂が見えた。今まで見えない氷のようだったモノが、静かに溶けだし本来の輝きを取り戻しつつある。


 美しき命は、こうであるべきだ。


「家族も、お友達も、村の人も、その土地も、何もかもを私が一夜で壊してしまった……! たった一冊の、旅人から貰った本のせいで、いや……違いますね。読んでしまった私のせいです。私が……、壊したんですよ。全部、ぜんぶ」


「…………だから、何だって言うんだ」


「当時でさえ、涙一つ流せなかった私があなたを失ったときに、涙を流せるのでしょうか……」


 彼女が感情に任せて彼女自身の過去を語ってくれた。自分のことを信頼してくれているという証拠ではあるが、感情移入の渦に飲み込まれてしまいそうで、涙をこらえるので必死だった。


 こう考えればある程度意味は通ずる。出会い頭に自分を遠ざけようとしてきたのも、深く誰かに入れこまないためであり、愛すこと=失った時に涙を流せること、となっている彼女にとっては、家族でさえも愛すことができていなかったということになる。


 その考え方を誰に教えられたかは知らないが、それのせいで彼女が大きく苦しめられているのは目に見えてわかっていた。


「涙なんて流せなくていい。幸せさえ手に入れてくれたらそれでいい」


 シルリィは顔を上げる。





「——雨が、五月蠅いな」



 デュレイが放った言葉が、まるで魔法のように、空全体を実体のある影で覆い尽くす。一定の範囲内で十分なのはわかっていたが、本人には力のコントロールが難しく感じられたのだろう。


 太陽による光が無くなり、雨は影の上に落ちる。一切の光は存在しない、ただの暗闇。


 それに便乗するように、シルリィはデュレイの首にそっとキスをした。


「今……何か首に……」


 暗闇を作ったのは自分だが、自分自身も何も見えていない。


「ちょっと、欲張りさんになってもいいですか?」

「え? うん、もちろんいいよ」




遊離した欠片をミスティパーライツ・空虚な世界から解き放てファーエスローリアデューパー


 聞きなれない言葉で、字に置き換えることができなかった。


 どこか異郷の地の言語なのだろうか? そう思った瞬間にその言葉がどういう意味を持つか理解した。


 自分が雨を遮るために空を覆った影が、みるみるうちに銀色の煌めきへと変わっていく。


「魔法です、こう見えても、ちょっとは才能があるんですよ?」


「凄い……!」


「……っていうのは嘘です」


「えっ⁉」


 自分の驚く表情を見て幼い子供らしい笑みを浮かべる。可愛い。


「昔読んだ本で出てきた架空の魔法の呪文です。本来でしたら、こんな効果は出現しないはずなんですけど……。もしかしたら、架空じゃないのかもしれませんね」


「それは、魔導書?」


「いいえ。でも、禁書扱いされて今はもう国立の魔法図書館とかじゃない限り読むこともできませんね。それも旅人から頂いたものでした。ただ……劣化が酷くて、一部読めない字の部分もあってタイトルでさえも読めなかったんですけど……」


「それにしても綺麗だ……」


「あ! 雨、止んでいますよ! ほら! あそこ! 虹もかかってます!」


 指をさされた方向を向いてみると、本当に虹がかかっていた。それも、シルリィの魔法で宙を舞っている銀色の煌めきと奇跡の一致が起きて、それはもう見たことが無いような絶景だったのだ。


「ありがとうございます、デュレイさん。救われるって……こういうことを言うんですね。知りませんでした」


「何も……救ったわけでは無いよ。これからだよ、救っていくのは」


「えへへ、そうなんですね!」



 両手を頬に当ててとろけるような笑みを浮かべて、自分のことを見る。


 その時は、その一瞬は嫌なことを何もかも忘れてシルリィを抱きしめた。

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